ああ、ほんとに、クソッたれ。心の中で舌打ちする。
ここ数日どこのゴミ箱を漁ってもろくな食べ物が見つからず、空腹のあまりつい闇夜に紛れることを忘れてしまった。
背後に迫るガラの悪い男たちの怒号。複数人の足音。捕まったら終わりだ。今だけはこの目立つ大きな尻尾や耳が忌々しい。
走って、走って、なけなしの力を振り絞り目の前の高い柵を飛び越えた。
転がり落ちた先はどこかの金持ちの庭のようで、花の香りが漂っていた。
綺麗に整理された芝生、つる薔薇のアーチの下には寛げそうなベンチが置かれていた。降り注ぐ柔らかな陽光すら、この庭の為の特別仕様になっているかのようだ。
俺は仰向けに寝転がったまま、天国にでも迷い込んだのかと錯覚した。
泥だらけで空腹に痩せ細った薄汚い姿は、この場所にはあまりにも不釣り合いのように思えた。
それに、落ちたときに脚をやったみたいだ。捻挫か、それとも折れたか。さすがに一歩も歩けそうになかった。
「……終わりか」
ぽつんと空に呟いた後に思った。
別に、俺がここで終わったからって誰が困るって言うんだ。俺を売ろうとした汚ねえヤツらか、俺を買おうとした気色の悪い金持ちか。だったらざまーみろ、だ。
薄い笑いが口元に浮かんだ、そんなとき──
「……だれか、いるの?」
存外近くに聴こえた幼い声に、俺は肩をビクつかせた。咄嗟に唸って威嚇しようと半身を起き上がらせるが、その小さな姿を見た途端、俺は全身の力が抜けていくのを感じた。
肩のあたりで切り揃えられた艶々の黒髪は、水色のリボンで飾られている。くるくると丸い青灰色の瞳。花柄のレースで飾られた高級そうなワンピースは、間違いなく目の前の女の子がこの屋敷の子どもであることを示していた。
「おい、近づくな。俺は悪いヤツかもしんねーぞ」
我ながら何言ってんだ、と自嘲したもんだ。
わざわざ脅しかけたりしなくたって、この子はあと数秒もしないうちに逃げ出して、大人達を呼びに行くだろう。そうして俺は、この庭からつまみ出されてお終いだ。
けれど、女の子は逃げ出すどころか俺におそるおそる近づいてきた。
「けがしてるの?」
舌足らずな甘い声。
頷いて返事をすると、小さな手のひらが躊躇いがちに伸びてくる。子ども特有の温かい体温が、俺の髪を優しく撫でさすった。
「よしよし。よしよし……いたいの、いたいの、とんでけ」
そう言って心配そうに見つめる彼女を、俺は食い入るように見つめ返した。
そんなことで痛くなくなるわけないだろ。そんなことより、もう何日も風呂なんて入ってない。俺なんかに触ったらこの子の綺麗な手が汚れてしまう。そんなことばかりが気になって。
「あ、あのね。おにいちゃん、おなまえは?」
「……────」
思わず素直に答えてしまう。銀色の髪だから……誰がつけたのかもわからない、安直な名前だった。
「わあ、かっこいいね。すごく、つよそう」
「別に……」
彼女が口にするとつまらないと思っていた名前も特別な響きをもって聞こえてきた。何だか急にいたたまれなくなって視線を逸らしていると、気が抜けたのか腹が思いっきりぐるるると鳴った。
「おなかすいてるの? あのね、クッキー、たべる?」
小さなポシェットの中から布に包まれたクッキーが何枚か取り出された。香ばしい小麦とバターの香り。もう何日も水以外口にしていなかった俺は、余裕なく奪い取るように口に含んでしまった。濃厚で甘い味わいが口いっぱいに広がり、つい大きな尻尾がバフバフと揺れてしまった。
「わ。……えへへ。よかったぁ、おいしいね」
まるで自分のことみたいに、彼女はふにゃりと嬉しそうに笑った。
思えばこのときには既に魅せられていたんだろうか。いやいや、そんなワケ。ないか。あるか……?
ともかく、この出逢いから10年以上ずっと、お嬢は俺のお姫さまで、女王さまで。
それから、俺の大切な……
6/21/2024, 2:59:08 AM