まだ梅雨も終わらないっていうのに妙に陽射しが強くて、屋敷内の薔薇園では四季咲きの二番花が一斉に咲き誇った日のこと。
いつものように芝生に寝転んで、傍には手づくりのクッキーと、アイスティーとコーラ。
いつもと同じだった。
正直暑いのは苦手だ。
顔に出てたんだろう、お嬢は心配そうにひとつしかない日傘を傾けて俺を入れてくれた。
それから暫くは、いつもと同じだったんだ。
この日のことは、今でも鮮やかに憶えてる。
くっつくほど間近にあるお嬢の、耳まで真っ赤な顔。震える瞼が閉じられた瞬間。お菓子みたいな甘い香り。それから、初めて触れた柔らかな唇。
この日、小さなレースの傘の陰に隠れて。
俺たちは初めてのキスをした。
走る。懸命に走る。
見た目はキラキラと誰もが羨むような輝きを放っている硝子細工の道は、背後からひび割れて崩れて、白い彼方へと落ちていく。
まるで、ほんの少しでも休むだなんで許されませんよって言われているみたい。
走って、走って。ついに足がもつれる。
もっと気をつけなければいけなかったのに。
ひとつの間違いも許されなかったのに。
足下が崩れて、私は彼方へと落ちていく。
どうなるの?しんじゃうの?
どうしたらいい?もう戻れない?
嗚呼、そんなことよりも。
──ごめんなさい……
頬に温かいものが触れて、意識が浮上する。
私ったら、眠りながら泣いていたみたい。
瞬きをすると眦から雫が頬に零れ落ちて、そうしたらまた大きな舌で頬を舐められる。
「……くすぐったいよ」
思わず微笑んでしまったら、お月様みたいな金色の瞳が微かに細まった。
「怖い夢でもみたんか?」
「……わかんない。忘れちゃった」
「なんだそりゃ。まあいいや。朝までもーちょっとあるし、寝とけ」
「……ん」
銀の体毛にぎゅっと抱きついて顔を埋める。
私の意識はゆらゆらとまた、夢の世界へと旅立っていく。
ふわふわ、ふわふわ。温かいなあ。
貴方と手を繋いで、お月様に乗って空を飛ぶ夢を見たわ。
なんてしあわせなゆめ。
「精霊さん、精霊さん。明日の太陽をバラ色にしてください」
真夜中に眠そうな目を擦りながらそう唱える横顔があまりにも真剣だったから。
精霊って天気の操作できるんか?とか。
誰にも見られちゃいけないなら俺が見てるのは大丈夫なんか?とか。
まあ、ただのおまじないに突っ込むのも野暮か?とかなんとか思いながら朝を迎えた。
「ほらね、言ったでしょ! キャンディのおまじないって、よく効くんだから」
昨日のあいまいさとは打って変わって見えた青空に、窓を開けたお嬢の笑顔もピカピカに輝いてる。
「おう。すんげーな」
俺は眠そうにあくびをしながら隣に立って、朝っぱらからキラキラというよりギラギラな太陽に目を眇めた。
バラ色ってーよりヒマワリみてーだぞこれ。
……おまじない、効きすぎたんじゃね?
広い庭園の隅に植えられたハイドランジアの前に、小さな水色の傘と小さな長靴を履いた、小さな女の子を見つけた。
俺は安堵なのか何なのかよくわからないため息をつきながら呼びかける。
「お嬢」
弾かれたように振り返った彼女の青灰色の瞳には、今にも零れ落ちそうな程の涙の雫が溜まっていた。
慌てて袖でゴシゴシと拭って誤魔化そうとするものだから、目の下が真っ赤になる。
「ひでえ顔」
「……」
「風邪ひくぞ。こんな雨の中」
「……っ」
水色の傘が濡れた地面にころころと転がる。
抱きついてきた小さな体を受け止め、持っていた大きな傘に一緒に入れてやる。
「学校、上手くいってないんか?」
「……」
「……おぉい」
「……いわないで。とうさまにも、かあさまにも」
了解、と答える代わりによしよしと頭を撫でてやると、甘えるみたいに額を擦り付けてきた。
それから暫く俺は、お嬢の顔を胸に埋めたまま雨に濡れたハイドランジアから零れ落ちる雫を眺めていた。
泣くだけ泣いて気が済んだのか、彼女は顔を上げると気まずさと照れくささの混じった顔で見つめてくる。
「部屋に戻るか?」
「……」
「んー。じゃ、とりあえず俺の部屋でホットミルクでも飲んでく?」
「……ハチミツは?入れてくれる?」
「もち」
「……いく!」
ああ、やっぱりコイツは笑顔のほうが似合うな、なんて思いながら。
俺たちはひとつの傘にくっ付き合ったまま、笑い合いながら歩き出した。
──これはまだ、俺たちが“兄妹みたいだ”って言われてた頃の話。
ハイドランジアの傍に残された小さな傘は、雨が上がった頃に“家族”の誰かが拾ってくれたみたいだ。
若者よ自由であれ!
やりたいことはやってみよう!
なんて、言われたって。
私は臆病だから、真っ直ぐに整えられたレールの上を一生懸命歩くことに安心してしまう。
子どもの頃から私の生活はやらなくちゃいけないことで満ちていて、それをひとつひとつ熟すことも嫌じゃなくて。
褒められれば嬉しいし、誰かの理想像のように語られるのも別に嫌じゃない。
嫌じゃないのに……
どうして貴方は、そんなに心配そうな顔をするの?