お題『花は散らない』
古来より、人は花に想いを託す性質がある。
それは美しく咲き誇る花だけではなく、道端に咲いている小さな花にすらも。
名前をつけて、花言葉を考えて。抱えきれなくなった想いを託し、叶わなかった想いを花に置いていく。
けれど、いつか花は散ってしまう。花が散れば、そこに託された想いも消えてなくなる。
とある場所に咲く桜はそれが、あまりにも可哀想で。
だから花に託され、置いていかれた想いたちを散る前に全て引き受けて。長い、長い時間をかけて、想いの産物を産み出す存在になった。
かつてはこの桜の下でも、多くの人が想いを託し、あるいは置いていった。
今はこの桜を訪れる人間は、誰もいない。
「ねぇ、どうしてあの子を生んだんですか?」
美しく咲き誇る桜の下。漆黒の服を身に纏った、中性的な見た目と声のその人が、幹に寄り掛かって座っている。
その周囲には誰の姿も見えないけれど、まるで誰かがいるかのように会話を続ける。
「生まれ変わりたくない魂の為?それは私だって同じでしょう」
どこから返事が聞こえているのか、そもそも本当に会話が成立しているのか。疑問を差し挟む人はこの場にはなく、一人分の声のみが響く。
「でも、アレは私と違って魂を食べるじゃないですか」
その声は不満そうでもあり、悲しそうでもあった。
自分が生まれた理由と、アレが生まれた理由は似たようなものだ。
どちらも、生まれ変わりたくない魂の為。
自分は癒して廻らせるのがお役目だが、アレは違う。
どうしても、もう二度と生まれてきたくないという魂を食べて、生まれ変われないようにするのが、アレのお役目。
「人の想いに添うために、生まれたはずなのに。怖がれて可哀想」
人間が生まれ変わりを拒否する想いを持ち続けたから、アレは産み落とされたのに。
実際に出会えば、人はアレを恐れて逃げ出した。自分たちの想いに添うために生まれた存在だなんて、微塵も思わずに。
「では、私は行きますね。お客様が待っていますから」
話したいことを話し終えて、黒い影が立ち上がる。
挨拶のように、桜の幹を軽く数回ぽんぽんと叩く。次の瞬間には、まるで最初から誰もそこにいなかったかのように、その姿はかき消えていた。
「ねぇ、どうして俺を生んだの?」
静寂を破るように、声が響く。同時に、桜の木の下に少年の姿が現れた。まるで、空間を裂いて出てきたかのように、突然に。
それに驚く人は誰もいない。けれど少年は、そこに誰かがいて、返事があるのが当然のように話し掛ける。
「いらないものを貰うために俺は生まれたんでしょ。それは分かってるし、応えてるよ。でも、今度は返してくれって言うんだ」
咲き誇る桜の下で。かつて人間がそうしたように、ぽつぽつと想いを零す。
たくさんの人が、いらないものを持っていって欲しいと思ったから、貰うために生まれてきた。
ちゃんと想いに添っているのに、いらないものしか貰わないのに、何故か人間は自分に何かを盗られると恐れる。
大事なものを盗ったことなんて、一度もない。
いらないって言ったから。持っていってと願うから、応えたのに。
それなのに返せと言われたって、そんな風には生まれていない。貰うだけで、返すことなんてできはしない。
「ねぇ、人間はどうして俺たち怪異を嫌うの?想いに添うために、人間のために、生まれたのに」
俯き、人間のように想いを語る少年の頭上から、慰めるように桜の花が降り注ぐ。
その花が、少しずつ人の形を成して、少年と瓜二つの姿になる。
「俺が返すよ。返して欲しい人の想いに応えて」
「分かった。これからは、二人で応えよう」
いらないと思って手放したものが、本当は大切だったことに後から気付く。そういう人間は意外と多い。
それを嘆く人間の想いが桜に届いて、やっぱり桜は、そんな人間があまりに可哀想で。
いらないものを貰う怪異と対になるように、なくしたものを返す怪異を産み落とした。
「じゃあ、行くね」
二人、声を揃えて、手を取り合って。
現れたときと同じように、空気に解けるように姿を消した。
新たな怪異を生み出すために散ったはずの桜の花は、もう最初と遜色なく立派に咲き誇っている。
現代でも、人は変わらず花に想いを託し続ける。
ずっと変わらず、抱えきれなくなった想いを託し、叶わなかった想いを花に置いていく。
変わらないその性質が、あまりに可哀想で。
だから人の想いがある限り、この桜の花が散ることはない。
―END―
お題「行かないで」「奇跡をもう一度だけ」
ハロウィンの奇跡というものがある。
死んだ者が、たった一夜だけ蘇る奇跡。
だからハロウィンの夜、大切な人を失った多くの人々は、とある墓場へと向かう。
その墓場は一見すると広々とした公園のように見えるけれど、中に入れば西洋墓地に似た光景が広がっている。
名前の刻まれていない墓標が並ぶその場所に、今年も多くの人が訪れる。
「また来ちゃったの?」
今、男性に肩を叩かれて振り返った彼女も、ある年から毎年のハロウィンにこの場所を訪れている一人だ。
最初の年こそ戸惑いながら中に入り、突然背後から肩を叩かれたことに驚いたが、今ではもう慣れてしまった。
一年に一回でも、毎年のこととなればそれなりに回数も重なる。
だから今年も、ずっと変わらない男性の姿を目にして、彼女は微笑んだ。
「一年に一回だけだよ」
「そりゃそうだよ。ハロウィンの奇跡なんだから」
対する男性は少しだけ困ったように笑いながらそう言って、墓地の外を指差した。
「今年はさ、ちょっと散歩でもしようよ」
「うん、いいよ」
二人は並んで歩き始める。
歩きながら、色々な話をした。昨日のこと、今日のこと。こういうことがあった。こう思った。良いこと、悪いこと。嬉しいこと、悲しいこと。変わったこと、変わらないこと。本当に、色々。
「最近はどう?楽しいこととかあった?」
「楽しいことかぁ……友達と旅行には行ったよ」
「いいね。どこ行ったの?」
「京都。紅茶のマルシェがあったから」
「紅茶好きなの、変わらないんだね」
「うん。そっちは?」
「変わりようがないよ、僕は」
何でもないことのように、男性は笑う。
もう生きてはいない彼の嗜好は、どうあっても変わるわけがない。
分かっている筈なのに、こうして隣を歩いているとつい、昔に戻った気になってしまう。
「……そうだよね」
けれど、そんなことはないのだと、彼の言葉で改めて実感する。
これはハロウィンの奇跡。死んだ者が、たった一夜だけ蘇る。だから今、こうして二人並んで話をすることができているのだ。
「好きな人はいるの?」
「ううん」
何となく上がってきた歩道橋。その途中で立ち止まって、見慣れ始めた町並みを眺める。
二人はこの町の出身ではない。
ハロウィンの奇跡という都市伝説の存在を知って、半信半疑ながらも引っ越しを決めた。
お骨も何も必要なく、ただ10月31日の夜に指定の公園を訪れるだけ。それだけで本当に、死んでしまった大切な人に会うことができる。
よく考えれば引っ越しまでする必要はなかったとも思うが、この町はハロウィンの奇跡を信じる人ばかりなので居心地もいい。
だからもう何年も、この町に留まっている。
「よっ!と」
「え、ちょっと……危ないよ」
しばらく黙って景色を眺めていた男性が、突然手摺を乗り越えて向こう側に立つ。
誰もがハロウィンの奇跡の為にあの公園を訪れている今夜、車道の車通りはほぼない。とは言っても、それなりに高さがあるので、手摺の向こうに立つのは危険な行動だった。
だから彼女は止めているのに、振り向いた本人は穏やかな笑顔を浮かべていた。
「覚えてる?最初のハロウィンの奇跡に僕が言ったこと。もう何年も前だけど」
「覚えてるよ、ちゃんと」
戸惑いながら、あの公園に足を踏み入れた夜。後ろから肩を叩かれて、会いたかった大切な人と再会した。その時に言われたことは、今でもしっかり覚えている。
――もし、ちゃんと忘れられそうな日が来たら、もうここへは来ちゃダメだよ。
「なのに、毎年来ちゃうんだから」
「だって、会いたいんだもの。あそこに行けば、会えるから……」
「そうだね。ハロウィンの奇跡が絶対だからいけない」
手摺の向こう側とこちら側。安全な場所と、そうでない場所に立ちながら、互いの表情は反対だった。
危険な場所に立っているのに、男性は笑顔を崩さない。状況にそぐわない穏やかさで、優しく女性を見守っている。
「君には、明日の命をずっと生きて欲しいから。僕はもう行くね」
そのまま、何でもないことのように男性は言って、手摺から手を離す。
「待って、行かないで!」
「来ないで」
ゆっくりと向こう側に倒れていく男性に伸ばした手は、あっさりと振り払われた。
最後まで笑顔を見せて、それすらも夜に呑まれていく。
すぐに手摺越し、精一杯に下を覗き込むけれど、もう姿は見えない。同時に、空が白み始めたことに気付く。
今年のハロウィンの奇跡が終わったのだ。
これからまた一年、次のハロウィンの奇跡まで、ただ毎日を消化していく。
けれど彼女の奇跡は、もう起きない。
夜明けまでに公園に帰るべき人が、あの日、歩道橋から夜に消えたから。
それでも、ハロウィンの奇跡をせめてもう一度だけでもと次の年も公園を訪れたが、どれだけ待っても肩を叩く人は現れなかった。
だからやっと、踏ん切りが着いた。
「本当に行くの?」
「はい」
「大丈夫?」
「もう大丈夫です」
奇跡が起こらなかったハロウィンから少しして、彼女はこの町を出ることを決めた。
近所の人たちは心配をしたが、本当にもう大丈夫だと思えていた。
彼女にはもうハロウィンの奇跡は起きないし、必要ない。だから、ハロウィンの奇跡を信じるこの人たちと一緒にはいられない。
「行ってきます」
――もう、戻ってきたらダメだよ。
追い風に混じって聞こえた声に背中を押されて、ようやく明日へ行ける気がした。
そう。ここは、時が止まった町。
大切な人がいた時間から動けない人の為の町。
動き出した人たちは彼女のように、自然と町を離れていく。
あれだけ彼女を心配した人たちも、去ってしまえば何事もなかったように日常に戻る。
そうしてまた一年、ただ日々を消化して。たった一夜だけの奇跡のために、今日を生きていく。
ーENDー
お題「喪失感」
私の親は昔から、私の物を勝手に他人にあげてしまう人だった。
大事なとっておきを、ここぞという時まで仕舞ってしまう私も悪かったのかもしれない。そういうものは、毎回いつの間にか無くなってしまっていた。
服、靴、鞄、髪留め、アクセサリー、時計など。とにかく色々なものが無くなった。
無くなる度に新しいものを買って、また無くなっては新調しての繰り返し。
そうやって、勝手にあげてしまっても、必要なものはまた買ってくれたから。だからきっと、私の親は酷い人ではなかったのだろう。
良いように捉えれば、新しいものをたくさん買って貰える環境だったとも言える。
けれど、“特別”とか“思い出”とか、そういったものは理解してもらえなかった。
初めて買ってもらった物も、貯めていたお小遣いで初めて自分で買った物も。それらは気が付けば、従姉妹たちの物になっていた。
あの子たちは母子家庭で可哀想なんだから、貸してあげてね、と。その言葉は、ずっと忘れられずに残っている。
そしてその、貸してあげてねの対象は服とかではなく、父親のこと。
従姉妹たちは私の二つ上と一つ下。そう大して変わらない年齢で、私だって親に遊んで欲しかった。
だけど大人はみんな、あなたはいつでも遊んで貰えるんだから、と従姉妹たちを優先した。
あの子たちは大変。可哀想。母子家庭だから。父親がいないから。誰もがそう言って、私を後回しにした。
だから、大人はみんな従姉妹たちが可愛くて、私のことはいらないのだろうと思った。
いらないから後回しにされて、いらないから、私のものは何でも持っていってしまうのだ。
それなら私は、尚更いい子でいなければ。
いらないと思い続けられたら、連れていかれてしまう。
その考えは、大人が従姉妹たちを構うなか、一人遊びを身に付けた頃から生まれたのだと思う。一人遊びのなかでも、私は特に空想の世界を膨らませるのが好きだった。
誰にも邪魔されない空想の世界。形の無いそれは、誰にも貰われない、自分だけのもの。
だからきっと、空想の世界を広げ続けているうちに思い込んでしまったのだ。
――いらないものは、何かが持っていってくれる。
そうして大人になっても、私はその考えを持ち続けていた。
私の親も相変わらず、私の物は何でも勝手にあげてしまう人のまま。変わったことと言えば、従姉妹たちとの縁がいつの間にか切れたこと。
こちらから何か動いたわけではない。ただ、心のなかでずっと、いらないと思い続けただけだ。ずっとずっと、思い続けたから。だから持っていってくれたのだ、何かが。
そう信じて、私は思い続けた。
いらない。いらない。いらないから、早く持っていって欲しい。
私の物を何でも勝手にあげてしまう親なんて、いらない。私が一度も会ったことことのない人に、私に確認もせずに、何もかもをあげてしまう親を、早く持っていって。
ずっと、ずっと、ずっと思い続けて。
いらないのなら、貰うね、と。
やっと、貰いに来てくれた。やっと、持っていってくれた。
その瞬間から、空気が変わった。吸い込んだ息が、肺の奥までしっかりと染み渡る感覚。
これは、喪失感?
近しい人が、親族が、親が、いなくなって感じるのは、それだろう。
けれど、これは違う。いらないものを持っていってもらって、喪失感なんてあり得ない。
これで、私はやっと生きていける。
―END―
お題「提灯」
目が覚めたら、見知らぬ場所に立っていた。
なんて、いつか流行った小説の導入のようなことを、まさか自分が本当に体験することになるとは思わなかった。
夢だろうか、と頬をつねる。普通に痛い。いや、でももしかしたら痛みを感じるタイプの夢だってあるかもしれない。何か他に、夢か現実か確かめる方法は無かったか……。
自分の服装を確認してみる。Tシャツにジーパン。シンプル極まりない、いつもの私服だ。
鞄はない。これはおかしい。出掛けるときはいつだって鞄を持ち歩いているのだから。
やっぱり、これは夢だ。
そう結論付けたところで、夢から覚める方法は分からない。気付きで駄目なら時間経過だろうか。それとも場所指定か。どちらの可能性もあるなら、とにかく適当に歩き回ってみるのもいいかもしれない。
心を決めて歩きだそうと前を向いた時、すぐにその決意は無くなった。
そもそも、痛覚やら持ち物やらを確認するまでもなく、ここはおかしかったのだ。
だって、こんなに真っ暗闇な場所は現実には存在しない。空には星も月もない。それなのに自分の身体や、すぐ隣に聳え立つ大きな宿のような建物は見える。
そして今、暗闇のなかでこちらに向かって進んでくるモノの気配も。きっとまだ遠いから姿は見えないだけで、もっと近付けば全容が見えてしまうだろう。
それはマズイ、と直感が告げる。見たらマズイ。このまま出会すのはいけない。
なら、どうしたらいい?背を向けて、全力で駆け出す?隠れられる場所を探す?一か八か、対抗する?
こういう暗闇に生きる存在は、光に弱い筈。スマホのライトを当てればもしかしたら……。
そこまで考えて、ここに鞄が無いことを思い出した。スマホはいつも鞄のなか。ということは、唯一思い付いた対抗手段は使えない。
残る選択肢は二つ。走るか、隠れるか。
……どうする。どうしよう。どうしたらいい?
「あぁ、こんばんは」
正解など到底分からずにぐるぐると考えを巡らせていれば、すぐ隣から扉が開く音と、人の声。
「そんなところにいたらいけませんよ。ほら、入って」
男性とも女性ともつかない、中性的な見た目と声のその人は、少し向こうの暗闇にちらりと視線をやってそう言った。闇に紛れる黒い衣装を纏っているのに、細身の輪郭がしっかりと見てとれた。
選択肢は三つ。走るか、隠れるか、この人に従うか。
「ほらほら、急いで。食べられちゃいますよ」
穏やかに、のんびりと、いっそ気軽さすら感じる声でとんでもないことを言い放たれる。
直感は、この人に従えと言っていた。
「お、お邪魔します!」
自分の直感を信じて、開かれている扉から中へと転がり込む。
宿らしき建物の中へと滑り込んだと同時に、声を掛けてくれた人が外に向かって何かを投げた。
放物線を描いて落ちていく、何色とも形容しがたい色合いをした光の球のようなもの。それが地面に落ちきる前に、外の暗闇が大きく蠢き、その光を呑み込んだ、ように見えた。
「あの、今のは……」
「悪いヤツじゃないんですよ。でも、私のお客さんを盗むので、私にとっては悪いヤツなんです。なので、要らないモノをあげてお帰りいただきました」
知らないほうがいいこともあると止める理性と、知りたい好奇心。一瞬の天秤で好奇心が勝った。
「お客さんって、私みたいな?」
「あなたは正規のお客さんではなくて招待客。とはいえ、アレに食べられたら困りますからね。ここにいる間は安心してください」
出会ってから一度たりとも笑顔を崩さず、あの暗闇の何かに脅威を感じている様子もない。
だからといって、この人に安心できる要素があるかと言われれば首を傾げたいところだが、今はこの人しか頼りがいないのも事実。
多少不安なところはあれど、信じるしかないだろう。
「ところで、ここは何処なんでしょう?気が付いたらここにいたので、正直何がなんだか……」
「ここは“御宿”です。こちらに泊まっている方があなたに会いたがっていたので、招待しました」
「おやど……」
「さ、どうぞ中へ入ってください」
ぐいぐいと手を引かれながら、奥にある正面玄関へと進んでいく。
外よりはマシだが、玄関へ向かう道もそれなりに薄暗い。手が離れたら辿り着けない気がして、引かれるままに歩いた。
「御宿へようこそ。歓迎しますよ」
そのまま勢い良く玄関扉を開け放ち、中へと通された。
一瞬、眩しさに目を細める。宿のなかは普通に明るかった。
玄関はとても広い。だが不思議なことに、靴箱は一つも置いていない。
「靴はそのままで結構ですよ。入ってすぐが受付ホールですが、今回は必要ないのでこのまま右へ進みます」
「あの、お金持ってきてないので、私やっぱり……」
今は誰もいない受付を見て、自分が今手ぶらなことを思い出す。
宿なのだから、泊まらないにしても滞在費くらいは必要なはず。けれどスマホも財布も手元にはない。ここまで入ってきてしまったが、引き返すべきだろう。
そう思って入り口のほうへ振り返ると、いつの間にか回り込んでいた黒い人影に遮られる。
「必要ないって言ったでしょう。ここの主は私ですから、何も心配することはありませんよ。あなたは招待客ですし、それに今外に出たら今度こそアレに食べられちゃうかも」
安心させようとしているのか、脅しているのか、よく分からない。けれど、表情は最初から変わらず穏やかな笑顔のまま。
「招待客って言いますけど、私を招待した人って誰ですか?」
「人って言うか、犬ですよ。ペット。前に飼っていたでしょう。真っ白くて小さなチワワ」
確かに、飼っていた。
ペットショップに行った時に、たまたま一匹だけいたあの子。即決は出来なくてその日は帰ったけれど、やっぱりどうしてもあの子がよくて。結局、数日後に迎えに行った。
甘えん坊で、手も掛かったけれど、本当に可愛い子だった。寝るのが大好きで、よく膝に上がってきては昼寝をしていたし、夜は布団に入ってきて腕枕で寝ていた。
一番愛情を注いで、ずっと一緒にいたいと思っていた。
けれど、犬の寿命は人より短い。ずっと一緒にいたくても、それは叶わない。
あの子も、一年前にいなくなってしまった。
「もうすぐ生まれ変わるので、どうしてもあなたに見送って欲しいって。甘えん坊な子ですね」
この話が嘘か本当か。判断できるような材料は何もない。
とても本当とは思えない話とも言えるし、でもちょっと、本当だったらいいなとも思っている。
「では、改めまして。こちらへどうぞ」
天秤は、期待に傾いた。それを察したらしい宿の主に促され、中へと足を踏み入れた。
またいつの間にか自分を追い越していた黒い背中に大人しく着いていく。
宿というが、他の宿泊客とすれ違うようなことはない。ざわざわと、微かに音や気配がある気もするが、イメージする宿より遥かに静かだった。
というか、廊下が長くないだろうか?
しばらく歩いているが、両サイドはずっと白い壁が続いている。
外観を見るにかなり大きな宿のように見えたので、もっと多い部屋数を想定していた。その予想に反して、部屋に繋がる襖はまだ一つもない。
「ここです」
それから少し歩いて、やっと一つの襖が見えた。
この先に、あの子が待っている。そう思うと、途端に緊張してきた。
開けられた襖の奥へ、黒い背中を追っていくと見えた光景は、普通の宿の部屋とは違っていた。
「足元、気を付けてくださいね」
明るい光に煌々と照らされた廊下とは正反対に、部屋のなかは薄暗い。
襖の奥には、鍵の掛かった両開きの扉があった。カチャカチャと鍵を開ける音が聞こえたかと思えば、重たい音を立てて扉が開いた。
仄かに明るい光が扉から漏れてくる。光の色は、赤や青、黄色、緑など様々だ。
「おーい、来てくれましたよー」
部屋の中に声を書けながら先へ進むその背中は、薄闇に紛れることなくしっかりと黒の輪郭を保っていた。
それを追いかけながら、周囲を見回す。
扉から漏れていた様々な色の光は、この部屋の中に無数にある提灯の光だったらしい。
提灯のなかでじっとしている光の球もあれば、提灯を好き勝手に移動している光の球もあった。
「あぁ、いたいた。ここですよ、この子がそうです」
示された一つの提灯には、真っ白な光が浮かんでいた。
「この子が……」
白い光を放つ提灯にそっと近付けば、喜ぶようにふわふわと揺れながら寄ってきたように見える。
その様子が、名前を呼んだ時に尻尾を振って駆け寄ってきた姿と重なる。
「これは魂の光が灯る提灯。ここでゆっくり、ゆっくり癒されて、また廻っていくんです」
「一年で、大丈夫なんですか?」
「愛されていましたからね。粉々に砕けた魂は、時間が掛かりますけど」
その視線が示す先。提灯のなかに、弱々しい光を放つバラバラに散らばった光の欠片がある。
「あんなに砕かれたくせに、まだ生まれ変わろうってここにいるんだから凄い子ですよね」
あの魂に何があったかは分からない。けれどあの状態からでも、ここにいればいずれはちゃんと癒されて、生まれ変わるのだという。
聞かなくてもいいことだと思う。けれどやっぱり、好奇心には勝てなかった。
「死んだら、私もここに来るんですか?」
「この先の人生で悪いことをせず、生まれ変わりたければ、ここに来ますよ」
「……悪いことをしたり、生まれ変わりたくなかったりしたら?」
「生まれ変わりなくないなら、受付をしたら左の小宿へ。悪いことをした魂は生まれ変わらせることは出来ませんので、要らないモノにするしかないですね」
要らないモノ。その言葉には聞き覚えがあった。
あの暗闇のなかにいた何か。アレの注意をこちらから反らすために投げ込んだ光の球のことを、そう言っていた。
思い返せば確かに、ここにある光の球と似たものだった気がする。
そんな、不穏な話が出てきても、白い光は関係なくふわふわと楽しげに揺れている。
提灯越しに手を添えれば、すり寄ってくる仕草をしたように思えた。
姿形は変わっても、この子はやっぱり可愛かった。
このままでも、一緒にいたい。出来れば、ずっと。
「もう行くみたいですね」
だけど、それは叶わない。
この子は生まれ変わろうとしていて、それを見送ってほしくてここに呼ばれたのだから。
白い光が提灯を出て、お別れを告げるように身体の周りをくるくると飛ぶ。
それから正面に来て、手を振るように数回左右に揺れた。
「またね」
見送るために、声を掛ける。今度は頷くように上下に揺れた後、真っ直ぐに奥へと飛んでいって見えなくなった。
「生まれ変わるんですね、あの子」
「はい。見送って貰えたので、満足したみたいです」
同じように奥へと視線をやり、ひらひらと手を振っているこの人の言葉を、今度は素直に信じようと思った。
不思議なことばかりだけど、あの子が満足して生まれ変われるのならそれでいい。
「さて。あなたをここに泊めるわけにはいかないので、戻りましょうか」
「この宿で寝たら戻れるとかじゃないんですね」
「死人になりたければ、泊まってもいいですけど」
「あ、嫌です。帰ります」
流石にまだ死にたくはないので、再び大人しく黒い背中に着いて歩く。
元来た道を進んでいって、玄関を出て、最初の扉へ戻ってきた。
「ここから出れば、帰れますよ」
今更、嘘は言わないと思う。だから、この扉から本当に帰れるのだろう。
けれどこの扉の先には、不安要素が一つある。
「あの変なヤツ、また出てきたりしませんか?」
「大丈夫ですよ。アレは元々、生まれ変わりたくない魂のためのモノですし、今は要らないモノでお腹いっぱいですから」
ここに来てから、不穏な話ばかり聞いている気がする。だがとにかく、そのどちらにも当てはまらないから大丈夫ということだろう。
なら何故あの時は駄目だったのかと言えば、今の話からしてアレがお腹を空かしていたからだと思う。いい迷惑だ。
「では、お邪魔しました」
「はい。次に会うのは、あなたが亡くなったときですかね」
最後の最後まで不穏なことを口にしながら。
閉まっていく扉の向こうに見える表情は、相変わらずの笑顔だった。
―END―
お題「心の灯火」
心の灯火が消えていく。一つ、二つ、三つ、四つ……。
赤い色は不幸の色。青い色は同情の色。緑の色は痛みの色。黄色は失望で茶色はエゴ。白は忘却で黒は終わり。紫色は依存の色で、桃色は孤独。橙色は犠牲の色で、灰色は迷いの色。その他諸々。
たくさんの想いを抱えて、複雑にこじれた色に染まった灯火が、透明になって見えなくなる瞬間がある。
それがいつ、どうしてなのかは、まだ分からない。けれど、混ざりあった色が消えて透明になる瞬間があるのだけは確かだ。
そして透明になった人は、こじれた色の人たちよりも幸せそうに見えた。
もしかしたら、透明は、幸せの色?
確証はない。だから、知りたいと思った。
――透明な色は、どんな色?
「最近どう?」
透明になった知り合いに聞いてみる。
どう?なんて漠然と問いかけられても困るだろう。でも透明になったのだから、それ相応の何かがあった筈だ。
「私、もうすぐ転職するんだ」
その人は、介護士として働いていた。介護の仕事が好きで、もっと職場の環境を良くしたいと常に頑張ってきたのを知っていたから、意外だった。
「どうして急に?」
「うん、何か、介護はもういいかなって」
そう言って苦く笑った彼女の心の灯火は、透明だった。
またある人は、こう言った。
「転職するのやめて、ここで頑張ることにしたの」
「それは、どうして?」
「結局、ここのほうがマシかなって」
誤魔化すように笑った彼女の心の灯火も、透明。
この二人だけではなく、他に尋ねた人たちも口々に最近自分がした選択についてを話してくれた。
これをやめた、あれをやめた。こっちじゃなくてあっちにした。こう思っていたけれど、気にしないことにした。
たくさんの、“やめた”を聞いた。
心の灯火は、みんな透明だった。
「私ね、親と同居することにしたんだ」
「え、あんなに嫌がってたのに?」
「何かさ、こうなったらもう仕方ないのかなって」
また、だ。
たくさんの人の話を聞いて、気付いた。
透明になった人たちの語る言葉には、共通のものがある。
――もう、いいかな
――まだマシなほう
――仕方がない
どれも、前向きとは言えない言葉。だから、聞いた。
「今、幸せ?」
返ってくる言葉は、どれも似たようなもの。
「まぁ、普通かな」
決して不幸なわけではない。けれど特別、幸せになったわけでもない。
透明は、幸せの色?
そうだったらいいと思っていた。だけどきっと、そうではない。
あれもこれもを諦めて、折り合いをつけて。不幸にはならない無難な選択をすることにしたから、他の色より幸せそうに見えただけ。
だからきっと、透明は、諦めの色だ。
―END―