お題「提灯」
目が覚めたら、見知らぬ場所に立っていた。
なんて、いつか流行った小説の導入のようなことを、まさか自分が本当に体験することになるとは思わなかった。
夢だろうか、と頬をつねる。普通に痛い。いや、でももしかしたら痛みを感じるタイプの夢だってあるかもしれない。何か他に、夢か現実か確かめる方法は無かったか……。
自分の服装を確認してみる。Tシャツにジーパン。シンプル極まりない、いつもの私服だ。
鞄はない。これはおかしい。出掛けるときはいつだって鞄を持ち歩いているのだから。
やっぱり、これは夢だ。
そう結論付けたところで、夢から覚める方法は分からない。気付きで駄目なら時間経過だろうか。それとも場所指定か。どちらの可能性もあるなら、とにかく適当に歩き回ってみるのもいいかもしれない。
心を決めて歩きだそうと前を向いた時、すぐにその決意は無くなった。
そもそも、痛覚やら持ち物やらを確認するまでもなく、ここはおかしかったのだ。
だって、こんなに真っ暗闇な場所は現実には存在しない。空には星も月もない。それなのに自分の身体や、すぐ隣に聳え立つ大きな宿のような建物は見える。
そして今、暗闇のなかでこちらに向かって進んでくるモノの気配も。きっとまだ遠いから姿は見えないだけで、もっと近付けば全容が見えてしまうだろう。
それはマズイ、と直感が告げる。見たらマズイ。このまま出会すのはいけない。
なら、どうしたらいい?背を向けて、全力で駆け出す?隠れられる場所を探す?一か八か、対抗する?
こういう暗闇に生きる存在は、光に弱い筈。スマホのライトを当てればもしかしたら……。
そこまで考えて、ここに鞄が無いことを思い出した。スマホはいつも鞄のなか。ということは、唯一思い付いた対抗手段は使えない。
残る選択肢は二つ。走るか、隠れるか。
……どうする。どうしよう。どうしたらいい?
「あぁ、こんばんは」
正解など到底分からずにぐるぐると考えを巡らせていれば、すぐ隣から扉が開く音と、人の声。
「そんなところにいたらいけませんよ。ほら、入って」
男性とも女性ともつかない、中性的な見た目と声のその人は、少し向こうの暗闇にちらりと視線をやってそう言った。闇に紛れる黒い衣装を纏っているのに、細身の輪郭がしっかりと見てとれた。
選択肢は三つ。走るか、隠れるか、この人に従うか。
「ほらほら、急いで。食べられちゃいますよ」
穏やかに、のんびりと、いっそ気軽さすら感じる声でとんでもないことを言い放たれる。
直感は、この人に従えと言っていた。
「お、お邪魔します!」
自分の直感を信じて、開かれている扉から中へと転がり込む。
宿らしき建物の中へと滑り込んだと同時に、声を掛けてくれた人が外に向かって何かを投げた。
放物線を描いて落ちていく、何色とも形容しがたい色合いをした光の球のようなもの。それが地面に落ちきる前に、外の暗闇が大きく蠢き、その光を呑み込んだ、ように見えた。
「あの、今のは……」
「悪いヤツじゃないんですよ。でも、私のお客さんを盗むので、私にとっては悪いヤツなんです。なので、要らないモノをあげてお帰りいただきました」
知らないほうがいいこともあると止める理性と、知りたい好奇心。一瞬の天秤で好奇心が勝った。
「お客さんって、私みたいな?」
「あなたは正規のお客さんではなくて招待客。とはいえ、アレに食べられたら困りますからね。ここにいる間は安心してください」
出会ってから一度たりとも笑顔を崩さず、あの暗闇の何かに脅威を感じている様子もない。
だからといって、この人に安心できる要素があるかと言われれば首を傾げたいところだが、今はこの人しか頼りがいないのも事実。
多少不安なところはあれど、信じるしかないだろう。
「ところで、ここは何処なんでしょう?気が付いたらここにいたので、正直何がなんだか……」
「ここは“御宿”です。こちらに泊まっている方があなたに会いたがっていたので、招待しました」
「おやど……」
「さ、どうぞ中へ入ってください」
ぐいぐいと手を引かれながら、奥にある正面玄関へと進んでいく。
外よりはマシだが、玄関へ向かう道もそれなりに薄暗い。手が離れたら辿り着けない気がして、引かれるままに歩いた。
「御宿へようこそ。歓迎しますよ」
そのまま勢い良く玄関扉を開け放ち、中へと通された。
一瞬、眩しさに目を細める。宿のなかは普通に明るかった。
玄関はとても広い。だが不思議なことに、靴箱は一つも置いていない。
「靴はそのままで結構ですよ。入ってすぐが受付ホールですが、今回は必要ないのでこのまま右へ進みます」
「あの、お金持ってきてないので、私やっぱり……」
今は誰もいない受付を見て、自分が今手ぶらなことを思い出す。
宿なのだから、泊まらないにしても滞在費くらいは必要なはず。けれどスマホも財布も手元にはない。ここまで入ってきてしまったが、引き返すべきだろう。
そう思って入り口のほうへ振り返ると、いつの間にか回り込んでいた黒い人影に遮られる。
「必要ないって言ったでしょう。ここの主は私ですから、何も心配することはありませんよ。あなたは招待客ですし、それに今外に出たら今度こそアレに食べられちゃうかも」
安心させようとしているのか、脅しているのか、よく分からない。けれど、表情は最初から変わらず穏やかな笑顔のまま。
「招待客って言いますけど、私を招待した人って誰ですか?」
「人って言うか、犬ですよ。ペット。前に飼っていたでしょう。真っ白くて小さなチワワ」
確かに、飼っていた。
ペットショップに行った時に、たまたま一匹だけいたあの子。即決は出来なくてその日は帰ったけれど、やっぱりどうしてもあの子がよくて。結局、数日後に迎えに行った。
甘えん坊で、手も掛かったけれど、本当に可愛い子だった。寝るのが大好きで、よく膝に上がってきては昼寝をしていたし、夜は布団に入ってきて腕枕で寝ていた。
一番愛情を注いで、ずっと一緒にいたいと思っていた。
けれど、犬の寿命は人より短い。ずっと一緒にいたくても、それは叶わない。
あの子も、一年前にいなくなってしまった。
「もうすぐ生まれ変わるので、どうしてもあなたに見送って欲しいって。甘えん坊な子ですね」
この話が嘘か本当か。判断できるような材料は何もない。
とても本当とは思えない話とも言えるし、でもちょっと、本当だったらいいなとも思っている。
「では、改めまして。こちらへどうぞ」
天秤は、期待に傾いた。それを察したらしい宿の主に促され、中へと足を踏み入れた。
またいつの間にか自分を追い越していた黒い背中に大人しく着いていく。
宿というが、他の宿泊客とすれ違うようなことはない。ざわざわと、微かに音や気配がある気もするが、イメージする宿より遥かに静かだった。
というか、廊下が長くないだろうか?
しばらく歩いているが、両サイドはずっと白い壁が続いている。
外観を見るにかなり大きな宿のように見えたので、もっと多い部屋数を想定していた。その予想に反して、部屋に繋がる襖はまだ一つもない。
「ここです」
それから少し歩いて、やっと一つの襖が見えた。
この先に、あの子が待っている。そう思うと、途端に緊張してきた。
開けられた襖の奥へ、黒い背中を追っていくと見えた光景は、普通の宿の部屋とは違っていた。
「足元、気を付けてくださいね」
明るい光に煌々と照らされた廊下とは正反対に、部屋のなかは薄暗い。
襖の奥には、鍵の掛かった両開きの扉があった。カチャカチャと鍵を開ける音が聞こえたかと思えば、重たい音を立てて扉が開いた。
仄かに明るい光が扉から漏れてくる。光の色は、赤や青、黄色、緑など様々だ。
「おーい、来てくれましたよー」
部屋の中に声を書けながら先へ進むその背中は、薄闇に紛れることなくしっかりと黒の輪郭を保っていた。
それを追いかけながら、周囲を見回す。
扉から漏れていた様々な色の光は、この部屋の中に無数にある提灯の光だったらしい。
提灯のなかでじっとしている光の球もあれば、提灯を好き勝手に移動している光の球もあった。
「あぁ、いたいた。ここですよ、この子がそうです」
示された一つの提灯には、真っ白な光が浮かんでいた。
「この子が……」
白い光を放つ提灯にそっと近付けば、喜ぶようにふわふわと揺れながら寄ってきたように見える。
その様子が、名前を呼んだ時に尻尾を振って駆け寄ってきた姿と重なる。
「これは魂の光が灯る提灯。ここでゆっくり、ゆっくり癒されて、また廻っていくんです」
「一年で、大丈夫なんですか?」
「愛されていましたからね。粉々に砕けた魂は、時間が掛かりますけど」
その視線が示す先。提灯のなかに、弱々しい光を放つバラバラに散らばった光の欠片がある。
「あんなに砕かれたくせに、まだ生まれ変わろうってここにいるんだから凄い子ですよね」
あの魂に何があったかは分からない。けれどあの状態からでも、ここにいればいずれはちゃんと癒されて、生まれ変わるのだという。
聞かなくてもいいことだと思う。けれどやっぱり、好奇心には勝てなかった。
「死んだら、私もここに来るんですか?」
「この先の人生で悪いことをせず、生まれ変わりたければ、ここに来ますよ」
「……悪いことをしたり、生まれ変わりたくなかったりしたら?」
「生まれ変わりなくないなら、受付をしたら左の小宿へ。悪いことをした魂は生まれ変わらせることは出来ませんので、要らないモノにするしかないですね」
要らないモノ。その言葉には聞き覚えがあった。
あの暗闇のなかにいた何か。アレの注意をこちらから反らすために投げ込んだ光の球のことを、そう言っていた。
思い返せば確かに、ここにある光の球と似たものだった気がする。
そんな、不穏な話が出てきても、白い光は関係なくふわふわと楽しげに揺れている。
提灯越しに手を添えれば、すり寄ってくる仕草をしたように思えた。
姿形は変わっても、この子はやっぱり可愛かった。
このままでも、一緒にいたい。出来れば、ずっと。
「もう行くみたいですね」
だけど、それは叶わない。
この子は生まれ変わろうとしていて、それを見送ってほしくてここに呼ばれたのだから。
白い光が提灯を出て、お別れを告げるように身体の周りをくるくると飛ぶ。
それから正面に来て、手を振るように数回左右に揺れた。
「またね」
見送るために、声を掛ける。今度は頷くように上下に揺れた後、真っ直ぐに奥へと飛んでいって見えなくなった。
「生まれ変わるんですね、あの子」
「はい。見送って貰えたので、満足したみたいです」
同じように奥へと視線をやり、ひらひらと手を振っているこの人の言葉を、今度は素直に信じようと思った。
不思議なことばかりだけど、あの子が満足して生まれ変われるのならそれでいい。
「さて。あなたをここに泊めるわけにはいかないので、戻りましょうか」
「この宿で寝たら戻れるとかじゃないんですね」
「死人になりたければ、泊まってもいいですけど」
「あ、嫌です。帰ります」
流石にまだ死にたくはないので、再び大人しく黒い背中に着いて歩く。
元来た道を進んでいって、玄関を出て、最初の扉へ戻ってきた。
「ここから出れば、帰れますよ」
今更、嘘は言わないと思う。だから、この扉から本当に帰れるのだろう。
けれどこの扉の先には、不安要素が一つある。
「あの変なヤツ、また出てきたりしませんか?」
「大丈夫ですよ。アレは元々、生まれ変わりたくない魂のためのモノですし、今は要らないモノでお腹いっぱいですから」
ここに来てから、不穏な話ばかり聞いている気がする。だがとにかく、そのどちらにも当てはまらないから大丈夫ということだろう。
なら何故あの時は駄目だったのかと言えば、今の話からしてアレがお腹を空かしていたからだと思う。いい迷惑だ。
「では、お邪魔しました」
「はい。次に会うのは、あなたが亡くなったときですかね」
最後の最後まで不穏なことを口にしながら。
閉まっていく扉の向こうに見える表情は、相変わらずの笑顔だった。
―END―
10/7/2023, 10:44:03 AM