第十九話 その妃、消ゆ
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「……もしかして、ここは天国ですか」
「残念ね。まだ死んでなくて」
突風が吹き込んだ所までは、辛うじて覚えている。けれど、瞬きをした次の瞬間には、廃離宮へと戻っていた。恐らくはこれも、友人が置いていった代物なのだろう。
「取り敢えず下見は済んだことだし、今日はここで解散にしましょう」
あー疲れた疲れたと、湯浴みに行こうとするその人の背中を、呆然と眺めていた。
毒の後遺症か、頭や体が上手く動かない。
「……何よ。まさか、今すぐ褒美が欲しいとか言うんじゃないでしょうね」
「どうして、何でも知っているんですか」
「あんた、それが褒美でいいわけ? もっと他にあるでしょう」
「いい子で待てなかった僕には、そもそも受け取る資格はありません」
それに、褒美ならもう……貰っている。
先程まで確かに繋がっていた手元に視線を落としていると、目の前からちいさなため息が落ちた。
顔を上げると、長椅子に座る主人が隣をとんとんと叩いている。たったそれだけのことなのに、免疫のない心臓が無駄に期待しようとする。
「“予想通り”いい子で待ってたんだもの。約束は、ちゃんと果たさないとね」
逸る鼓動を抑えながら、一人分の隙間を空けて遠慮がちに座る。そんなものは「大きな声で話したくないのよ」と言う、面倒臭がりな妃にあっという間に詰められたが。
「それで? 何が知りたいって?」
「ど、どうしてご存知だったのかなと」
「麻痺はそのうち消えると思うわよ? あの香は元々治療用だから、よっぽどのことがない限り、副作用もないし後遺症も残らないはず」
「……そのようなことを、どうして貴女が……」
以前、彼女は何も言わなかった。
全部がわかっていたらこんな場所にはいないと、ただ濁すだけで。
それだけじゃない。
あの後……帝と姿を消してから、城の中で一体何があったのか。
「私が、回帰した人間だから」
「……え?」
「私が未来人だから」
「み、未来人?」
「そうでないなら、十年後の私から届いた手紙で教えてもらっているから」
「……冗談、ですよね」
彼女はただ微笑んだ。
さあね? と笑いながら。とても楽しそうに。
やっぱり教えてくれるわけではなかった。恐らく“いい子”の基準値を超えたから。
まさか、たったこれだけのことでこんなにも落胆するとは思わなかったが。
「そんな残念そうな顔しなくても、そのうち嫌ってほどわかるわよ」
「……また冗談ですか」
「あんたが私の側から離れたいなら勝手にどうぞ」
「……それなら、もう少し待つことにしましょうか」
「生意気ね」
「いえいえー。貴女様には到底勝てませんよー」
そうして笑い合ってから、互いの情報を整理するため、一度解散をすることに。
許可を貰い、麻痺が消えるまで休んでいると、麻酔としての効果があらわれたのか、いつの間にか眠ってしまっていた。
「……ん。じゅふぁさま……?」
ゆるりと目蓋を持ち上げる。
世界はすっかり夜の帷を下ろし、体には毛布が掛けられていた。やさしさに、体も心もあたたかくなる。
「……ジュファ様?」
けれど、この時ほど、彼女の側を離れたことを恨んだことはなかった。
〈シバシ旅ニ出ル
良イ子デ待ツベシ〉
主人は、それを最後に消えてしまったから。
#10年後の私から届いた手紙/和風ファンタジー/気まぐれ更新
第十八話 その妃、鳴かぬなら
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百舌宮へ訪れるや否や支える者全員が下がり、茶飲みの席には百舌宮の初依《チュイー》妃とリアンの二人のみが残る。
席に着くと、妃自らが茶を淹れ始めた。湯を注ぐと、ゆっくりと花が開いていく美しい工芸茶。
リアンは、ただその様子をじっと眺めていた。
「中国茶はお嫌い?」
「どうぞお構いなく」
そう笑顔で返すが、焚かれた甘い香には嗅ぎ覚えがある。あまり、長居はしない方がよさそうだ。
「それで、ご用件は何でしょう」
「そう焦らなくても宜しくてよ。時間はたっぷりあるもの」
「申し訳ありません。実は少々仕事を残しておりまして」
濃度からして、恐らく半刻がもつかどうか。
けれどそれを悟られてしまえば、本当にただのつまらない男に成り下がるだけだ。
見透かすような瞳を笑み一つで躱しながら、最悪の事態だけは避けられるよう、頭の中にいくつもの対処策を備える。
「本当に、大したことではないのよ。貴方とお茶を飲みたかったのも本当のことだから。でも……そうね、貴方がどうしても何か話がしたいと言うのなら」
――ホトトギスの話をしてみるのも、面白いかもしれないわね。
「貴方のことだもの。ご存知でしょう?」
「何をでしょう」
「勿論、小鳥の話ですわ。よく言いますでしょう?」
鳴かぬなら、殺してしまえ――……とね。
「鳴かせてみることも、鳴くまで待つこともできますよ」
「わたくしもそう思いますわ。勿論、そうであればいいともね。けれど……」
茶に一口口を付けた妃は、口元に弧を描く。
そして、音に出さぬまま呟いた。
“生きて、帰られるかしらねえ”
……愉しそうに、嗤いながら。
怒りを押し殺しながら、淹れられた茶に視線を落とす。何か別のことを考えなければ、今すぐにでもここから飛び出してしまいそうだった。
「そういえばご存知? 海の向こうでは、特別な日に意中の方へ花を贈るのだそうよ」
「……これが、その花だと?」
「多くは男性から女性へ。勿論、受け取り方は貴方次第。ただ、そうすれば貴方は、今すぐに蝕む毒から解放されるかもしれないわね」
同じ茶缶から取り出され、同じ急須から注がれた湯。
同じ状況で同じものを、目の前の妃が平気な顔で飲んでいるのだ。この茶は本当に、香への中和作用があるのかもしれない。
「瑠璃宮でもお茶を飲まれたのでしょう?」
「そうですね。女性からのお申し出は、基本全部お受けしています」
それでも、笑ってあしらった。
たとえ中和作用があるのだとしても、受け取ればそれは弱みになる。
これ以上、つまらない男になどなって堪るものか。
「ご、御歓談中、失礼致します」
険しい表情で入ってきた侍女。
耳元で囁かれた内容に、目の前の妃は僅かな不機嫌さを滲ませた。
「残念だけど、迎えが来てしまったようよ」
首を傾げて間もなく、茶室へと麗しい妃がやって来る。
「帰るわよ」
俄には信じ難い光景に、思わず頬を抓る。
終いには、「何突っ立っているのお馬鹿」と、手まで引かれる始末。
その光景にか、それともこの扱いにか。百舌宮の侍女たちは次々に悲鳴を上げた。
「……確かに、同じ空気を吸っていると考えるだけで、気分が悪いですわね」
ただ一人、不快そうに扇で口元を隠す妃以外は。
余程神経を逆撫でされたのか。広場での言葉をそのまま返した妃は、主人に冷ややかな視線を向けた。
「今すぐ換気をされては? そうすれば、多少毒の香は薄まるのではなくて?」
今度は“毒”という言葉に、何も聞かされていなかった侍女らの叫び声が次々と上がり始める。
冷ややかさを変えぬまま、じっと睨みつけるような視線に、主人は満足そうに微笑んだ。
「失礼するわ。留まる理由は無さそうだし」
「……いずれまた、改めてご挨拶に伺わせていただきます」
「結構よ。面倒臭そうだし。それに……」
繋がれていた片手が強く握られると、主人はもう片方の手に持つ扇をばっと勢いよく広げた。
「私、毒は盛るより吐く方が好みなの」
そして次の瞬間、突如窓が壊れるほどの突風が吹き荒れる。
目を開けたその時にはもう、二人の姿は百舌宮から跡形もなく消えていた。
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第十七話 その妃、飴と鞭と
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顔を覆う、たった一枚の薄布が息苦しかった。
目の前の石段が、まるで断崖絶壁のようだった。
彼らの背中が見えなくなる、その一分一秒が、酷く長かった。
それ以降は、あまり記憶に残っていない。
無能の奴等が城門に注目している間に、誰にも見つからぬよう風のようにその場を去り、そして何事もなかったかのように身形を整え、広場へと戻る。
『――言ったでしょう。あなたはあなたの為すべきことをしなさい。まあいない分、多少の手は借りるわよ』
敵わないと言った表情で苦笑を浮かべた友人は、役目を終えると紙切れに変わる、手製の輿と人型の式神を置いていった。それすらも、主人はわかっていたのだろう。
わかってもらえる。
そんな些細な事が羨ましい。
愚かにも、そんな事が頭をよぎった。
その事だけは鮮明に覚えていたことに苦笑を漏らしながら、誰にも気付かれぬよう紙切れになったそれを回収する。
終えた頃には、いつもの喧騒が戻っていた。
「良様良様! 本日は是非金糸雀宮に寄って行ってくださいまし!」
「いいえ。本日こそ桃花宮に」
「美味しいお菓子を取り寄せましたの。花露宮に是非足をお運びくださいな」
今日は、妙に雑音が耳につく。瞼の裏に残る仲睦まじい姿がちらついて、上手く笑えているかもわからなかった。
次の瞬間までは。
「良様」
聞き覚えのある声に、ピリリと背筋が伸びる。
振り返る頃には、“いつも通り”に戻っていた。
「これはこれは、百舌宮の妃様」
絢爛豪華な髪飾りに、細い首から鎖骨、肩、胸元まではだけた貴妃服。露になったそこには白粉と、妖艶な雰囲気を引き立たせる化粧。
扇ではなく煙管を手に持っていたならば、その姿はさながら花魁のようであった。
「本日はいつも以上にお美しい。誰もが貴女様の虜となりましょう」
「嫌味は結構。無駄話も好きではありません」
パチンと扇を閉じた妃は、そのまま静かに距離を詰めた。
それはそれは失礼致しましたと、下げようとした頭を、扇で顎ごと掬い上げられる。
「先程の言葉は本物の賛辞かしら」
「勿論。私は嘘などつきませんよ」
「ならば貴方も、今日だけはわたくしの虜ということで間違いないわね」
近い距離で目が合う。
言葉を交わさぬまま、しばらくの間見つめあった。
『――取り敢えず、今回は下見を兼ねた都見物だから、あんたもやること済んだら自由にしてなさい』
妃と見つめ合いながら、思い出すのは主人である自由な妃との会話。
この人のことだ。
下見などで済むはずがない。
そう言いかけた唇は、妃の人差し指で封じられた。
『上手く宮殿に乗り込めたら、褒美をあげるわ。今から何が欲しいか考えておきなさい』
――だから、いい子で待ってて。
……あの時のような高鳴りなど、微塵もない。
「貴女様の思うままに」
妖艶と微笑む妃に、一切の態度を変えぬまま微笑みであしらうと、百舌宮の妃はふっとおかしそうに口元に弧を描いた。
「その言葉。後で後悔なさっても知りませんわよ」
「望む所です」
目の前で、愛しい人が違う男と寄り添って消えていく。
それ以上に、恐ろしいものなどなかった。
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第十六話 その妃、赤く染める
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離宮の妃は、誰にも見つからないのをいいことに、存分に一人を満喫し、そしてやりたい放題している。
今度は赤根が欲しいと言われ、採って来てみれば何だ。襷掛けまでして、今から染め物でも始めようというのか。
『ご存じと承知の上で進言させていただきますが、赤色は帝と皇后……つまり正妃しか身に付けることができません』
『相変わらずつまんない男ねえ』
自覚した今となっては、十二分に効果抜群な言葉である。
『否定はしませんが、そのつまらない男の意見も僕は一理あるかと』
『つまらない男の方は、否定してもらって構わないんだけどなー』
『ジュファ様。あんた、都に乗り込むつもりでしょう』
『うん。断然そっちの方が優先事項だね』
初耳話にその先を問い糺そうとするも、自由な妃は染め物に全力を注いでいる。
どう思うかと心友に目配せをしてみるも、彼にもそれ以上の意図はわからないようだ。
『堪え性がないから、長期戦は向いてないのよ』
一通り染め終わってから、結い上げていた黒髪を下ろした妃は、ふうと息を吐きながら庭の木にもたれかかる。
『お言葉ですが……』
『わかってるわ。君は何度も否定したものね』
我々が成そうとしていることは、決して一朝一夕でできるものではない。ゆっくり時間をかけ……それこそ何年もの歳月をかけるべきなのだ。
国一つ滅ぼすなど、そう簡単にいくものではない。
『でもそんなことに時間を費やすよりも、もっと大切なことがあると思わない?』
『国が滅んでしまえば、時間などいくらでもできますよ』
『そうね。けれど……』
妃は、静かに口を噤んだ。
上手く言葉にできないのか、少しだけもどかしそうに。
『それでも、時間は有限だ。ないよりはあった方が有意義に使えると思うよ。……もう、後悔したくないだろう?』
精一杯の意図を汲んで言葉にする。
友人は、困った顔のまま苦笑を漏らしていた。
『まあ可能ならば、それに越したことありませんけどね』
『【短期決戦全力投球】でいくわよ』
『つまらない男と一緒よりは楽しめそうか』
『ふふっ。退屈だけは、させない予定よ』
『適度でお願いします。あなたが言うと、冗談には聞こえないので』
さっさと腰を上げた友人は、どうやらその時間を使って、大切なことに使うらしい。
『時間は有限。そう言ったのはお前だからな』
そして擦れ違い様にとんと肩を叩いた友人は、含んだ笑みを残してさっさと帰っていった。
『あんたは後、輿の準備しといてね。程よく質素で程よく品のあるやつで』
気付いていないのか、それとも気付いていない振りをしているのか。
再び染め物を始めようと、髪を結おうとしている手を、そっと掴んだ。
『……どうしたの?』
嫌がられると思った。振り払われるとも思った。
でも、そうはならなかった。
『お願いが、あります』
――もしも、全てが終わったら。
『どうか、僕の話を聞いていただけないでしょうか』
――あなたにどうしても、伝えたいことがあるから。
ゆっくりと手を離すと、必死さが窺えるほどには白魚のような手が赤くなっていて、思わず慌てて謝罪する。
『……つまんなかったら承知しないわよ』
『善処致します』
約束を取り付けて喜んでいたつまらぬ男は、この時のことを一生後悔することになろうとは、つゆほどにも思っていなかっただろう。
さっさと染め物に取り掛かった妃の表情を、ちゃんと見ておけばよかった。
見ていればもしかすると、未来は変わったいたかもしれないのに――……
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第十五話 その妃、登城す
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規則正しきは玉響の音色か。
都の人々は皆、一様に足を止めた。
顔に布をかけた和装の男たちが抱えるのは、質素ながらも上品な輿。必要最低限な装飾にもかかわらず、気品で溢れている。
下ろされた御簾に隠された今度の姫はさて、どれほど美しいのだろう。もしや、今度こそ帝の寵妃なのではないか。
この噂は忽ち広がり、人々はその姿を一目見ようと挙って広間へと集まった。
外朝の大臣たちも、後宮の妃や侍女たちも、宮殿で働いている者たちも、皆がその手を足を止めた。
静かに、門の前で止まった輿が、ゆっくりと下ろされていく。御簾が上げられ、そこから現れた姫に一同、息を呑んだ。
街の安価な簪が一本と、白い生花が数輪。
そして、夕暮れ空に、まるで鮮血でも飛び散ったかのような貴妃服。
この都で【赤】とは、帝とその妃のみが用いることを許可された禁色。
白い肌と黒髪でよく映えてはいるが、国外の姫かと人々の視線からは忽ち興味が薄れ、そして。
「陛下へ御目通り願いたく参りました」
瞬く間に軽蔑へと変わる。
見た目だけの美しさだけで、教養は疎か礼儀もなっていない姫の前へ、気位の高い人間や仕事を全うしようとする武官たちが立ちはだかった。
そして槍の雨のように、姫への指摘が降りかかってくる。けれど姫は、ただ目元に微笑みを浮かべ、毅然な態度でこう答えた。
「何度ご連絡差し上げても訪れがないものですから、こうして此方から出向いたまでのこと」
そこで、その存在を知る者たちは、一度口を噤んだ。
この二連黒子の姫は、新たに召し上げられたのではなく、我々の存ぜぬ離宮にて幽閉されている、例の妃だと気がついたからだ。
しかし、それも数える程度のこと。加えて礼儀がなっていなければ、妃の立場を知らぬ非難の声はそう簡単には止まなかった。
「何事だ」
遅れてやってきたこの国の帝は、声を上げながら険しい顔で階下の妃を見下ろした。
「どの宮にも用はない。後宮など要らぬと、我は何度も言ったはずだが」
帝の圧力に、その場の誰もが顔を上げることが叶わなかった。たった一人を除いて。
「陛下の城を騒がしてしまったこと、深く謝罪致します」
「……そなたは」
「小鳥の名は『ホトトギス』。火急のため、陛下の広い御心でお許しください」
「……ああ、そなたか」
階段を降りた帝は、唯一顔を上げるその妃の手を、そっと取った。
「そなたの方からわざわざ我を訪れたのだ。余程のことなのだろう?」
その問いに対し、口元に笑みを浮かべながら「ええ」と答えた妃はゆっくりと立ち上がる。
「この場では到底口になど出せませんわ」
そして、未だ顔を上げることすら許されていないその場の全員を見下ろした。
「何も弁えない下品な者が群がる、このような場所では。同じ空気を吸っていると考えるだけで、気分が悪いですもの」
その返しに満足したのか。帝は「そうか」と笑いながら手を引いて、宮殿の中へと妃を迎えた。
その背後から、帝を止める声が降り注いだが、彼はそれを一切聞き入れはしなかった。
「立場を弁えなかった者の処遇については、追って処遇を言い渡す」
そして腕を組んで歩く二人の姿は、宮殿の中へ仲睦まじく消えていった。
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