第十七話 その妃、飴と鞭と
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 顔を覆う、たった一枚の薄布が息苦しかった。
 目の前の石段が、まるで断崖絶壁のようだった。
 彼らの背中が見えなくなる、その一分一秒が、酷く長かった。
 それ以降は、あまり記憶に残っていない。
 無能の奴等が城門に注目している間に、誰にも見つからぬよう風のようにその場を去り、そして何事もなかったかのように身形を整え、広場へと戻る。
『――言ったでしょう。あなたはあなたの為すべきことをしなさい。まあいない分、多少の手は借りるわよ』
 敵わないと言った表情で苦笑を浮かべた友人は、役目を終えると紙切れに変わる、手製の輿と人型の式神を置いていった。それすらも、主人はわかっていたのだろう。
 わかってもらえる。
 そんな些細な事が羨ましい。
 愚かにも、そんな事が頭をよぎった。
 その事だけは鮮明に覚えていたことに苦笑を漏らしながら、誰にも気付かれぬよう紙切れになったそれを回収する。
 終えた頃には、いつもの喧騒が戻っていた。
「良様良様! 本日は是非金糸雀宮に寄って行ってくださいまし!」
「いいえ。本日こそ桃花宮に」
「美味しいお菓子を取り寄せましたの。花露宮に是非足をお運びくださいな」
 今日は、妙に雑音が耳につく。瞼の裏に残る仲睦まじい姿がちらついて、上手く笑えているかもわからなかった。
 次の瞬間までは。
「良様」
 聞き覚えのある声に、ピリリと背筋が伸びる。
 振り返る頃には、“いつも通り”に戻っていた。
「これはこれは、百舌宮の妃様」
 絢爛豪華な髪飾りに、細い首から鎖骨、肩、胸元まではだけた貴妃服。露になったそこには白粉と、妖艶な雰囲気を引き立たせる化粧。
 扇ではなく煙管を手に持っていたならば、その姿はさながら花魁のようであった。
「本日はいつも以上にお美しい。誰もが貴女様の虜となりましょう」
「嫌味は結構。無駄話も好きではありません」
 パチンと扇を閉じた妃は、そのまま静かに距離を詰めた。
 それはそれは失礼致しましたと、下げようとした頭を、扇で顎ごと掬い上げられる。
「先程の言葉は本物の賛辞かしら」
「勿論。私は嘘などつきませんよ」
「ならば貴方も、今日だけはわたくしの虜ということで間違いないわね」
 近い距離で目が合う。
 言葉を交わさぬまま、しばらくの間見つめあった。
『――取り敢えず、今回は下見を兼ねた都見物だから、あんたもやること済んだら自由にしてなさい』
 妃と見つめ合いながら、思い出すのは主人である自由な妃との会話。
 この人のことだ。
 下見などで済むはずがない。
 そう言いかけた唇は、妃の人差し指で封じられた。
『上手く宮殿に乗り込めたら、褒美をあげるわ。今から何が欲しいか考えておきなさい』
 ――だから、いい子で待ってて。
 ……あの時のような高鳴りなど、微塵もない。
「貴女様の思うままに」
 妖艶と微笑む妃に、一切の態度を変えぬまま微笑みであしらうと、百舌宮の妃はふっとおかしそうに口元に弧を描いた。
「その言葉。後で後悔なさっても知りませんわよ」
「望む所です」
 目の前で、愛しい人が違う男と寄り添って消えていく。
 それ以上に、恐ろしいものなどなかった。
#待ってて/和風ファンタジー/気まぐれ更新
2/13/2024, 4:13:28 PM