第十話 その妃、微笑む時
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ゆっくりと、意識と感覚が戻って来る。
目の奥が怠い。熱があるのか。そういえば頭痛もする。
身体も鈍く重い。指一本動かすのでさえやっとだ。
「目が覚めたなら起きなさい、このお馬鹿」
視界が潤んでぼやける。妃の輪郭は何とか認識できるが、顔までははっきりとわからない。
耳も、恐らく正常ではないのだろう。ねっとりと貼り付くようで不快なはずなのに、妃の声にしてはやけに柔らかく聞こえるから。
新しい香でも焚いているのか、熟れた果実のような甘い匂いがする。……酷く、喉が渇いた。
「さてと。事態は飲み込めているのかしら」
「……おおむね、は」
掠れた、甘ったるい声が出て確信する。
先の妃に、一服盛られたのだ。
「媚薬の一種ね。安心しなさい、不能にはなっていないみたいよ」
「……どうして、ですか……」
「そこまで面倒見るつもりはないから、後は自分で勝手にしなさい」
「ちが……。そうじゃ、なくて……」
何故、この妃は何も言わないのだろうか。
どのような態度で出迎えられ、何の茶が出てくるのか、焚かれている香の種類や、それこそ薬を盛られることまで。
瑠璃宮へ訪れる前の注意事項や対処法は、事前に叩き込まれていた。最悪の事態にも備え、解毒薬や嘔吐剤まで持たされていたのだ。
けれど、この妃は初めから全て知っていたのだろう。
今、目の前に横たわる男が、全てを無視した結果、吸い飲みで白湯を飲ませるような事態になることを。水蜜と、煎じた薬まで用意して。
「……どう、して……。怒って、いないんですか……」
「怒る必要ないもの」
「……それも、わかっていたからですか……」
「あんたがそう思うならそうなんじゃない?」
「……なんなんですか、それ……」
拗ねた唇に、一口大に切られた水蜜が運ばれる。口を開けるのさえ億劫で、一つ目は上手く入らないまま転がり落ちた。
そして「少し大きかったわね」と、口元を拭ってくれるその人は、何故か今にも噴き出しそうな顔で笑いを堪えていた。
「……なんで、笑うんですか」
「あんたが弟みたいでかわいいから」
そう言って、今度は小さめに切られた水蜜がやって来る。ただ口を開けて、少し噛んで飲み込んだだけなのに、まるで幼い子を褒めるように頭を撫でられた。
「……うれしくないんですけど」
「これに懲りたら、もう二度と口にしないことね」
それは、媚薬をか。
それとも……『妹』と、言ったことにか。
口ではなんだかんだと文句を言いつつ、苦悶の表情を浮かべる愚かな男にも、妃は慈悲を与えるように甲斐甲斐しく世話をしてくれる。
……やられてばかりは性に合わない。
それなのに、それが嫌じゃない。ついさっきまで、子供扱いされたことに納得できなかったはずなのに。
「……御蔭様で、二度と言える気がしません」
「あらよかったじゃない。これ以上被害者が増えなくて」
悔しいが、きっかけなんかいくらでもある。被虐趣味ではない。ただこの人が狡いのだ。
粗末に扱ったかと思ったら、すごく意地悪だし、その上嫌がらせまでしてくるのに、本当は優しくて、とことん甘やかしてくるなんて。
そして、決定打は彼女の笑顔だ。捨ててしまった心を呼び戻したから。
単純だと言われてしまえばそれまで。それでもこの、溢れてくる気持ちは治ることを知らない。
「……ジュファ様。桃、もうひとつください」
「甘えてんじゃないわよ」
薬の影響がなくなった時、今までと同じようにいられる自信は、全くと言っていいほどなかった。
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第九話 その妃、正鵠を射る
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瑠璃宮の妃――雨華《ユーファ》妃。
現後宮で最も歴が長く、家柄や教養も申し分がないことから、正妃に最も有力と高官たちが噂している人物だ。
容姿は申し分ないが、性格は非情に冷徹冷酷。礼儀作法には特に厳しく、それがたとえどのような身分の人間であろうと容赦はしない。
「つまり、この耳飾りに心当たりはないと」
「見た事も御座いませんわね」
「なら、瑠璃宮の侍女たちに話を伺っても」
「結果は同じでしょう。貴殿の御手を煩わせるわけには参りません」
陰陽師の男はつくづく、この場にあの妃がいなくてよかったと、安堵のため息を吐いていた。でなければ今頃、女たちの口喧嘩に巻き込まれていただろうから。
「では妃は、わざわざ青色の石で耳飾りを作る酔狂な者が瑠璃宮の外にいると」
「そもそも貴殿は、この後宮にまともな思考を持った女がいるとお思いなのかしら」
「ということはあなたもその一人だと」
「少なくとも、貴方と会話はできているつもりだけれど」
「……下女が一人行方不明になっていることについてはどうお考えに」
「運が無かった。それだけね」
それから、何度か聞き取りをしてから男は席を立つ。
すると、「少しいいかしら」と声をかけられた。話をしていた陰陽師にではなく、その御付きである宦官にだ。
「何故宦官に? 貴方ほどの美貌があれば、引くて数多だったでしょうに」
「こんなにも美しい方に残念がっていただけるとは」
その先を問う妃の視線に耐えかね、男は微笑を浮かべながら応えた。
「この道を選んだのは、あくまでも私の意志ですので」
それでは、本日はこれにて失礼致します。
そうして静かに頭を垂れ出て行こうとするが、妃は必死さをおくびにも出さない様子で再度引き止める。
「耳飾りについて、どう思っていらっしゃるのかしら」
問いにどのような意図があるのか。
何故陰陽師ではなくただの宦官に問うのか。
男たちは一度視線を合わせ、微かに合図を送り合った。
「その耳飾りがもし贈り物であるならば、贈り主は相手をとても大切に思っていたのではないでしょうか」
「……そう思う理由は」
「耳飾りの宝石は、恐らく藍方石。過去との決別や慰め、励ましなどの石言葉があります」
「……相手に、その心はなかったと」
「妹のようには愛していたかと」
「……口付けまでしても、妹でしかなかったと」
「かわいい妹の頼みを断る兄はいないでしょう」
その答えを最後に、今度こそ二人は颯爽と瑠璃宮を出ていった。
「……藍方石? 誰がどう見ても瑠璃だと思うけど」
「だねー。僕もそう思うよ」
城内では好奇や白眼の目で見られる陰陽師も、ひとたび後宮を訪れれば、その端麗な容姿に女たちは心を奪われる。
その付き人兼案内役として側に仕える、優姿の男もまたその一人。その風貌に微笑みを携え、形の良い唇からは、耳心地の良い言葉がこぼれ落ちてくる。たとえ宦官でも、その腕に一度は抱かれたいと、そう思う女は少なくない。
「……他に、僕に何か言うことは」
「ん? 何もないけど、敢えて言うなら……」
暗黙に口を閉ざされているが、無論妃も例外ではない。
帝の寵愛を受けられぬのならと、牽制し合う女たちは大勢いる。何とも愚かで、そして何とも傍迷惑な話であろうか。
「……こうなることは全て、とある方にはわかっていた、とだけ」
そのような事態にもかかわらず、彼等はこの場を訪れていた。
とある妃が蒔いた『種』に、水をやるために――。
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第八話 その妃、覆される
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「幽鬼が出たくらいで、この国の人間たちは騒ぐわけ?」
「常人ともあれば多少なり驚くものですよ」
「そんなことで逐一感情を振り回すだなんて大変ね。それとも暇なのかしら」
「それか、愚かにも国の平安が永遠に続くと思っているのでしょう」
あら、言うようになったじゃない。
そんな風に視線を流してみれば、眦に庭をとらえながら「ある程度は強く言っとかないと、どんな嫌がらせをされるかわかりませんからね」なんて言いたげに肩を竦めて見せる。
「それはそうと、幽鬼とは?」
「城に出入りしてるのに知らないのね」
それは、後宮のとある井戸にまつわる話である。
“日付が変わる頃に行ってはならぬ”
“男の霊に連れ去られてしまうから”
後宮にいる女で、その噂を知らぬ者はいなかった。
けれど先日、とある下女が、夜も更けた頃にその場所へ向かってしまったのだという。何でも、失せ物を探していたとか。
下女はいつものようにその日の仕事をこなし、終わった後にその場所へと向かった。
そして悲鳴と片割れの耳飾りを残して、姿を消してしまったのだそう。
「……言われてみれば、一つだけ使われていない枯れ井戸がありますね」
「噂好きな女の話が時間をかけて、妃と武官の悲恋の物語にまで捻じ曲がったんでしょ。ま、人攫っておいて千年も成仏しないとか、完全に男の片想いだし、粘着質にも程があるけど」
「そもそも千年の恋だなんて、女性は嘘臭いと思わないのでしょうか」
「はっ。口から生まれてきたような男がよく言うわ。千年先も、僕の心は君のものだよ〜とか、あんたならそこら中の女に言って回ってそうよ?」
「僕だってやる時はやるんですよ」
「まあ、そんな気色の悪いあんたを見る機会だけは、一生なさそうだから安心ね」
深く、青みがかった石の付いた耳飾りを手に取ったジュファは、そのまま自分の耳へと付けていく。
片方だけして満足そうに微笑んだ彼女に、リアンは複雑そうに顔を歪めた。
「……この状況に、僕はどう反応したらいいのでしょうか」
「勿論、あんたの想像に任せるわ」
もし仮に、この耳飾りが噂のそれだとしても、大した興味も示さないだろう。本当に幽鬼が現れたとしても、何の脅威にもならないだろう。
目の前にいる男は、そういう男だ。
そもそも、噂自体信じていないだろうが。
「入れ違いに、友人が登城していました。……僕に内緒で、計画を進めようとしていましたね」
「今知ったんだからいいでしょ」
だから、少し意外だった。
「それについてはもう何も言いません。けど、その耳飾りは僕が預からせていただきます」
「あら、拗ねたの?」
「僕の心の安寧のためには必要だからです」
真剣な表情で、少し強引にそれを奪っていったのが。
……心配そうに、まるで壊れ物にでも触れるかのように、耳朶をそっと撫でたのが。
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第七話 その妃、褒美を取らす
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湯浴み後の長い黒髪を拭いながら、宦官の男はそれは大層大袈裟に溜息を吐いた。
「はあ。一時はどうなることかと。僕の寿命は確実に縮みました」
男は見せびらかす様に、片手で自身の髪の毛先をいじってみせる。そこは、少しだけ焼け焦げていた。
「結果良ければ全てよしって、よく言うじゃない」
「だからって、効果抜群に煽らなくても……」
目を走らせると、至る所には爆発の痕跡、そこら中は水浸し、大きな穴の空いた屋根には、今にも落ちてきそうなほどの満天の星――……
『……全て聞かなかったことにしておきましょう。それが御身の為故なれば』
『理由を述べよ』
『理があれば勝ち、理がなければ負ける。闘いとは、そういうものです』
『ほう。妾の話には理が全くなかったと?』
『無茶苦茶にした後は全て天に丸投げ。……それの何処に理があると? これは遊びではないのです』
『ではおぬしは、このまま愛しの妻と御子が死ぬのをただ指を咥えて見ているとよい』
『……はあ?』
思い出しただけで肌が泡立つ。
彼の者は、確実にこの首を取りにきていた。
「あれは、絶対に敵に回してはいけない類の人間ですからね。鬼となれば、都など容易に焼き払ってしまいます」
「味方になってくれたんだからいいじゃない」
「簡単に言ってくれますけどねぇ」
容易でないことは百も承知。味方にならなければそれまで。あの時、あの場で陰陽師にこの命を差し出したまでのこと。
「これだけの被害で収まったことを、僕は存分に褒めていただきたいくらいですよ」
辺りに何もなかったからこそ、男の言う通り最小限で事は済んでいる。
それでも尚、今こうしてこの首が繋がっているのは、何処かの愚か者が、爆風からその身を挺して守ったせいだ。
「御蔭様で、襤褸屋の風通しはかなり良くなったわね。御礼に今度花でも贈ろうかしら」
「そうですねえ。僕個人としては桜と藤は外せません。あとは……そうだなー」
そして、濡れ羽色の髪を解くように梳きながら、男はどこか甘えるように囁く。
「……勿忘草がいい」
「いつ誰が、あんたの好みを聞いたのかしら」
「因みにあなたは何の花がいいですか?」
まるで何かを隠すように、いつもの薄っぺらい笑みで取り繕う。
そんな、哀れな男を束の間じっと睨んでから、溜息を吐くように呟いた。
「橘花《ジュファ》」
「……はい?」
「あんたもよく覚えておきなさい。そしてよく見ていなさい。これからどれだけの人間がこの名に怯え、そして震え上がるかをねえ」
呆気に取られたのも一瞬のこと。
ハハッと年相応の表情で一頻り笑った後、宦官に成り済ましたその男は、ゆっくりと頭を垂れた。
「良《リアン》。必要があれば、その名でお呼びください」
「あら。勿忘草《ウーワンツァオ》でなくていいのかしら」
「長いですし」
「そう。でも褒美は変わらないわよ」
「……褒美ですか?」
「その胡散臭い顔に見飽きた頃だったの。丁度よかったわ」
せっかくだから、庭に植えようかしらねえ。
そう言うと男は、少し困ったように苦笑を浮かべた。
「僕の褒美だったのでは?」
「この庭をあげると言っているようなものよ? 何処に不満があるのかしら」
「……わかりました。じゃあいつ植えてくれるのですか」
「あんたの勝手にどうぞ」
「そんなことだろうと思いましたよ」
ふっと口元に弧を描いた男――リアンは静かに跪いて、それを受け取った。
『勿忘草の記憶』がいつの日か、『嫌がらせ』と言う名の笑い話に変わることも知らずに。
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第六話 その妃、関わらず
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黄昏時の小さな公園に、幼い影が二つ伸びている。
キーコーと、静かにブランコを止めた女の子が『あのね』と囁いた。
『わたし、――くんのおよめさんになりたい』
『えっ、うわ⁉︎』
驚きのあまりブランコからひっくり返った少年は、その場に思い切り尻餅をついた。さらには、追い討ちをかけるように帰ってきたブランコにも攻撃を受ける。
『い、たた……』
少年はゆっくりと警戒しながら体を起こした。そして、ブランコが完全に止まったのを確認してから、身の回りの状況を一つずつ把握していく。
土まみれの学生服に、丸まったちいさな背中。夕暮れのように真っ赤に染まるちいさな耳と、そして、タイミングよくアホーと鳴くカラス。
苦笑を浮かべながら土を払い、女の子の前へとしゃがみ込んだ。
『――ちゃんは、僕のことが好きなのかな』
恥ずかしそうに俯いた女の子は、顔を真っ赤にしながらもこくりと頷く。
その必死な様子に、少年は『ありがとう』と微笑んだ。
『……なら。もしも――ちゃんが、大人になっても僕のことが好きだったなら。……僕のお嫁さんになってくれる?』
『――‼︎ ……うんっ』
遠慮がちにそっと絡むちいさな小指。
微笑ましい、幼い二人の思い出。
それは、誰かにとってとても大切な約束で。そして誰かにとっては――……
* * *
「……それで、言い寄っていたら、いつの間にか踏み潰されていたと。馬鹿じゃないの」
首の痛さに思わず目を覚ます。
いつまでも続きそうなくだらない話に目を閉じていたら、いつの間にかすっかり眠っていたようだ。
「だから、それは誤解だよ。ただ好みのタイプとか、好みの男の仕草とか、恋人に求める条件とか聞いてただけで」
「それを普通は言い寄るっていうんだよ馬鹿」
「仲を深めるための雑談だってば」
どうやら、未だに白熱な闘いを繰り広げている様子。完全に、起きる時を間違えてしまったらしい。
離宮の妃は、再び目を閉じることにした。
争い事には関わらないのが一番。
それを、よく知っているからだ。わかっているからだ。
いやというほどに、懲りているからだ。
(……これが、本当に最後だから……)
そうしてまた、起きる前同様宦官男の肩を借りることにした。
少しでも、あの夢の続きが見られればと。
見られなくても、何か面白い夢が見られればと。
そんな、些細な望みを胸に抱きながら。
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