俺たち異界研究者は魔法という言葉が好きではない。定義しがたい、と言った方が実態に近いか。
俺たちのいる『こちら側』ではあり得ない現象も、ここではない場所である『異界』の中では当然のものかもしれないわけで、「起こりえないこと」を示す「魔法」という言葉は相応しくない。
仮に『異界』の不思議が『こちら側』に持ち込まれても、それは「異界の理」であり魔法ではない……、とまあ、俺たち異界研究者という人種は総じてクソめんどくさい思考の持ち主ってわけだ。
さて、そんな俺たちでも「魔法」と定義するものがあるとすれば、あらゆる『異界』を自在に渡り歩く連中の能力なわけだが。
もう一つ、俺が個人的に「魔法」と思っているものがある。
「なあ、X?」
「何ですか?」
リーダーに発言を許可されている「生きた探査機」異界潜航サンプルXは、左右でちぐはぐな色をした目をこちらに向ける。
その日本人らしからぬ琥珀色の左目にはどうも魔法が篭められているらしいのだが、Xに使いこなせないとかなんとか。
だから、俺が「魔法」だというのは、全く別のところであって。
「どうして、言ってもいない俺の住所と彼女の住所を特定できるんすかね……?」
「伺った、お話の中で、特徴的なランドマークがいくつかあり、移動時間と乗り物から、距離の推定が可能でしたので。……不愉快に思われたなら、すみません」
恐縮、を体現するかのように身を縮ませるXに、思わず溜息をつく。感嘆の吐息と言いかえた方がいいかもしれない。
この、俺は名前も背景も知らない、ただ生まれも育ちも『こちら側』のはずの「生きた探査機」が、時折見せる人並みはずれた推理力。
俺の知る中でもっとも不可思議なそれを、こっそり「魔法」と呼んだところで、きっとXを知る誰もが否定はしないだろう。そういうことだ。
20250223 「魔法」
止まない雨はないという。
けれど、僕の心には長らく雨が降り続けている。
その結果僕の中の不安も焦燥もわだかまりも何もかもを押し流してくれるならいいが、閉ざされた空間に降り続く雨は、ただただ澱んだ思いを飲み込んだ暗い池を作り出すばかり。
どうして足元ばかり見ているんだ、とあいつは笑うだろうか。
いつかの仕事明けの朝、ちょうど雨が上がったばかりの空を指差して、あいつは朗らかに言った。
「ほら、見ろよ、虹が出てる!」
その言葉に目を上げれば、確かに見事な虹がかかっていた。僕の記憶の中では、初めて見る自然の虹だったかもしれない。
今もなお、その鮮やかな色は僕の脳裏に焼き付いている。
僕の心の中にも、あの虹が架かる日が来てくれるのだろうか。
でも、あいつはもうここにはいないから、雨が止んで虹が出たことにも気づけないかもしれないな。
今日も、雨は止まない。
20250223 「君と見た虹」
高らかに鈴の音が響く。
星々瞬く夜空を駆けるのは橇を引くトナカイたち、そして橇の上でトナカイたちの手綱を引くのは、白い縁取りの赤い衣装に身を包んだXだ。
私――『こちら側』からすれば季節はずれで、なおかつ物語の中でしかありえない光景も、少し位相のずれた『異界』なら「本当に起こりうる」ことであって。
腰を痛めたサンタクロースに代わり、その役目を請け負った親切なXは、初めてとは思えぬ手綱さばきでトナカイたちを駆り立て、橇を虚空に走らせていた。
橇の上いっぱいに積まれたプレゼントの配り先はトナカイたちが知っている、らしいけれど、本当だろうか?
私はついそう思わずにはいられないが、Xに迷いはないだろう。愚直なまでに言葉通りに与えられた役目をこなす、それがXのあり方であり、彼の美徳でもあったから。
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
我々は今日も、「生きた探査機」死刑囚Xの目を通して、『異界』を観測する。
Xの視界を映すディスプレイには、やがて子供たちの眠る街が見えてくる。
あちこちに灯るあたたかな明かりが、夜空の星々に負けず煌めいていた。
20250222 「夜空を駆ける」
変な時間にインターフォンが鳴った。
宅配を頼んだ覚えはなく、惰眠を貪るという極めて高尚な時間に割って入った無粋な輩に文句の一つでも言ってやろうと、玄関先を映すモニターを覗き込み――。
「こんにちは、お父さん!」
そこに立っていた娘の姿を見てしまえば、耳に堪えない文句は喉の奥の奥に押し込まざるを得なかった。
コーヒーカップもコップも俺一人の分しかないから、ひとまず自分のぶんのコーヒーを淹れ、もらいもんのコーラをコップに注ぐ。
俺による俺のための椅子は当然娘には大きすぎて、細い足をぶらぶらさせている娘に「ん」とコップを差し出す。
「悪ぃな、菓子やら気の利いたものはうちにはない」
「お構いなくです、連絡もせずお邪魔してごめんなさい」
まだ十歳かそこらのはずだが、何ともマセた物言いである。当時の俺はそもそもここまでまともな言葉は喋れなかったぞ、それもどうかとは思うが。
ともあれ、にこにこ嬉しそうにコーラに口を付ける娘。おぼろげな記憶の限りでは全体の印象は母親に似てたはずなんだが、どうも目元が俺に似ていたのか、成長するにつれ着実に俺のツラに近づいていて何とも居心地が悪い。
「こんなとこまで一人で来たのか」
「はい、家出です!」
家出、という言葉に刹那面食らったが、すぐにその言葉を吟味して問い返す。
「で、お母さんは何時に帰れって?」
「十六時にはここを出て帰ってくるようにと」
「オーケイ?」
つまりそれは「母親が認識しているお出かけ」であり、「家出」とは程遠い。ただ、あくまで当人の主観では家出の一種なのであろう、という話。
「お母さん、今日もお仕事で寂しくて、どうしてもお父さんに会いたくなっちゃって」
俺の休暇が一応カレンダー通りってこと、そういや前に教えてたな。
昔は俺もカレンダーどころか昼夜も怪しい働き方をしてたが、今は研究職に専念してるということもあり、基本的にはカレンダーに従って休みを取るようにしている。
「いいのか、俺なんかに会いに来て。お母さんは嫌な顔しただろ」
「ちょっとだけ。でも止めはしなかったですよ」
「そりゃあ、止めづらいだろうよ」
目の前に座る子供は確かに俺の血を引いた「娘」ではあるが、しかし俺に親権はない。俺とこいつの母親との間でそういう取り決めになったのが、まだこいつが物心つく前の話。
つまり、こいつからすれば、俺は「お父さん」どころか、単に定期的に養育費を振り込んでくるだけの知らんおっさんに過ぎないはずなのだ。
しかし、父親の不在ってのは俺が思うよりずっと堪えるものだったらしく、「お父さんに会いたい」と言い出したということを聞かされてしぶしぶ顔を合わせ、娘のために定期的な会合を設けることに決めたのがつい最近の話。
で、今に至るわけだが――。
「お父さんにまた会えてうれしいです」
「そうかい」
「……あの、迷惑、ですか?」
「迷惑じゃない。ただ、あー、……慣れてないだけだ」
お父さん、と呼ばれることも。
ついでに、単純に「父親」に向けるのとは絶妙に異なる――要は、惚れた男への目をちらちら向けてこられることも。内緒にしてるつもりなのかね、これでも。
いやはや、やりづらいったらありゃしない。
つい口をついて出そうになる舌打ちを意識して抑え込んで――それはもう、こいつの「お母さん」から散々言い含められてんだ――、こいつの心が早く俺ではない他の、もっとマシでまともな奴に移ってくれることを祈るのだった。
20250220 「ひそかな想い」
次に意識を取り戻した――と、アタシが認識したときには全てが終わっていたらしい。
知らない天井、知らないベッド、視界のあちこちから顔を出す形容しがたいなんらか、でも今までよりずっとすっきりした頭。
きっとアタシはとんでもないことをしでかした、そんな確信だけがはっきりある。でも詳しいところを確認しようにもアタシの頭と体は不自由すぎて、結局、そいつと顔を合わせるまではろくな話もできやしなかった。
アタシが意識を取り戻してから初めて病室を訪れたそいつは、綺麗な黒髪を頭の後ろで結った美人さんで、でも美人特有のキツさはなくて、なんだろうな、愛嬌のある猫ちゃんみたいな顔で、アタシに話しかけてきたものだった。
「具合はどうですか?」
「まあ、ぼちぼち?」
「ならよかったです。嫌がるあなたを無理に家から引き離すことは難しかったので。手を取ってくださってよかった」
どうも、そいつの話によると、そいつがアタシの家に訪れたときにはアタシはもう完全におかしくて、でも、他でもない「おかしくなったアタシ」の手を借りるためにアタシを訪ねてきたのだという。
「あなたには、ここではないどこかが見えている。そうですよね?」
確信に満ちた言葉。それは多分、あの見るに堪えない惨状の部屋の中でもアタシに投げかけてくれた言葉だったに違いない。
その時のアタシには、もう、現実とそれ以外の境目がすっかり見えなくなってて、まともな現実に戻るなんて考えることもできなくなってて、だけど――。
「私には、あなたの目と、それから、あなたの頭の中にある知識が必要なんです」
アタシの狂気をこそ必要としてくれるそいつが現れたことで、アタシは頭をぶん殴られるような衝撃とともに、そいつの手を握ったのだった。
結果として、アタシは、そいつに引き上げられて、今はかろうじて正気と狂気の狭間にいるわけだけど……。
「一つだけ、聞かせてくれないかしら」
「何ですか?」
多分、既に何度も聞いたことだとは思うのだけど、なにしろ今のアタシは覚えてなかったから。
「あんた誰? お名前、教えてくれないかしら」
そして、アタシから何度も同じことを聞かれてるであろうそいつは、嫌な顔一つせず、にこりと完璧な笑みを浮かべて。
「私は、」
20250219 「あなたは誰」