あの子は神様のもとに行ったんだ。
だから、忘れるしかないよ。いくらあの子の名前を呼んだって、帰ってくることはないのだから。
……と、言われて諦められるなら、私は今ここにはいないと言い切れる。
黄昏時の空に消えていった片割れの行方は、数多の『異界』を観測してなお不明。それでも私は望みをかけて今日も「生きた探査機」Xを『異界』に送り込む。
しかし、そう、私の目的を知ったXはこう言ったのだ。
「もし、妹さんに出会えたら、何を伝えますか? あなたの存在と、妹さんを探しているお話はもちろんお伝えするつもりですが、言いたいことは、いくらでもあるのでは?」
ごくごく真摯な目で、ごくごく当然のように。
『異界』に潜れるのはXのみ、当然メッセージもXづてでしか伝えることができない、それはもちろんそうなのだが。
「……すぐには、思いつかないわ」
諦めずにはいられたけれど、叶う可能性が出てくるなんて思ってもみなかったから。
私は、未だに片割れにかけるべき言葉を見つけられないままでいる。
20250317 「叶わぬ夢」
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
我々は、数多の『異界』を、「生きた探査機」たる死刑囚Xの目と耳を通して観測する。
ただし、「目と耳」という但し書きが必要な通り、他の感覚器官を通した情報は私に伝わることはない。
だから、『異界』の不思議なティールームで、Xの前のカップになみなみ注がれた茶の香りも、私には判別がつかない、が。
Xの低い声が、呟くように告げる。
「懐かしい、香りがします。春の訪れを告げるような、」
――花の、香り。
Xは意識一つであらゆる『異界』を垣間見るが、その肉体は『こちら側』の研究所から一歩も動いてはいない。そして、潜航を始める以前も数年に渡って拘置所の独房で過ごしていたのだから、春の花の香りはそれこそ「懐かしい」ものに違いない。
遥かに遠くなったもの、『こちら側』では二度と出会うことの無いもの。
私はXではない。だから、Xが何を思ってその言葉を発したのかはわからない。
ただ、その声がひどく穏やかであったと、確かめるだけで。
20250317 「花の香りと共に」
Xはぼんやりしているようで極めて頭の回転が速い男であることは、そろそろわかりはじめていた。
まあ、そうでもなきゃあんな初見殺しの連続である『異界』の観測なんてままならない。『潜航』するのが俺たち研究者の誰かであったなら、Xほど長生きはできなかったに違いない。
特にXが得意としているのは、「ルールを見いだす」ことだ。傍目には混沌としていて理不尽に見えても、大概の『異界』には暗黙のルールがあり、Xは瞬時にそれを見極めて適切な行動を判断する。一体どこで育って何を食えばそんな風になれるんだか。
ただ、その一方で、Xには弱点がいくつかある。
「あの」
リーダーから発言を許されているXがぽつりと言う。茫洋とした目がこちらに向けられて。
「バレンタインデーって、どういう行事なのですか」
「X、そりゃさすがに世間に興味がなさすぎますよ」
「そう、ですか……?」
ぽやっとした顔でクエスチョンマークを浮かべるXに、思わず深々と溜息をつく。
このおっさん、とにかくものを知らないんだよな。一応娑婆にいた時代の方が長いはずなのに、いったいどうやって生きてきたんだか。
20250306 「question」
それじゃあ、また明日。
帰宅を急かすチャイム、暮れゆく赤い空を背に、そう言って手を振るそいつに向けて、俺も「また明日」と手を振り返したのを覚えている。
また明日。他愛ない別れの挨拶。
けれどその言葉が、壊れてしまいそうだった俺をかろうじてつなぎ止めていたのだと、今ならわかる。
そして、きっと、あいつも同じ。
俺たちには、明日がある。また、あいつと会える。
寄る辺のなかった俺たちにとって、それは他の何よりも大切な、たった一つの「約束」だったんだ。
20250304 「約束」
ひらり、目の前に翻ったそれが何なのか、一目ではわからなかった、が。
自然と、落ちてきたそれの出所に目を向ければ、窓から身を乗り出した女が手を振っていた。
「すみませーん、プリントが落ちてしまって」
なるほど、講義か何かの配布物か、と思うが、その女の手には今にもあふれんばかりのプリントが抱えられていて、その時点で嫌な予感しかせず。
「拾っていただけます――わああっ!?」
案の定、ひときわ強い風に、女の手の中にあったそれらが見事なまでに舞い上げられる。
「す、すみません、今から降りて拾いますので!」
「おう、先に拾えるだけ拾っとく」
慌てて窓から顔を引っ込める女に手を振り、ひらひらと落ちてくるそれらの一つを拾い上げる。
「……親父の講義か」
俺の親父はここの教授で、このプリントには俺も見覚えがある。数多の伝承に語られる『異界』にまつわる、ごくごく浅い部分をさらうだけの、教養レベルの講義だ。
が、それよりも俺が目を見張ったのは、そのプリントにはびっしりと走り書きが書かれていて――よくよく見れば、それらは、親父と同じ研究を続けてる俺ですら顔負けの『異界』にまつわる知識の羅列、そしてそれらに対する考察だった。
その一枚だけではない、拾い上げるどれもが同じような調子で、俺はうっすら寒気すら覚える。
――あの女も、親父や俺と同じく、『異界』に魅入られてるのか?
手を振ってこちらに駆けてくる……駆ける、というにはあまりにもどんくさい走り方の女を見ていた俺は、いったいどんな顔をしていただろう?
20250303 「ひらり」