時間は待ってくれないから、とそいつは笑った。
「だから、今、できる限りのことをしたいの」
まだ、俺たちにできないことは多い。俺たちにさんざん力を貸してくれた一人が消えてからは、なおさら。
だが、それを理由に足を止める気は、そいつにはさらさらないらしい。
背筋を伸ばし、長い黒髪を靡かせ歩くその姿は威風堂々としたものだが――。
「どこに行くつもりだ、そっちは逆のホームだぞ」
「あっ」
全く、俺がいなきゃどう生きてくつもりなんだ、こいつは。
20250519「まって」
――もういいんだ。
と、君は言った。
そんな諦めの言葉なんてほしくなかった。いや、僕一人が空回りしてることに気づかされてしまったという方が正しかったのだと今ならわかる。
君の方から手を離された、そんな風に感じていたけれど、そう思いこんで君の手を離したのは僕だ。
君は僕を慮ってくれていたのだろう。君のために全てを捧げていた僕が、そのまま闇雲にあらぬ方向に向かわないように、「もういい」のだと言ってくれたのだろう。
その時の僕は、それに気づくことができなかった。
ただ、君だけが僕を理解しようとしてくれていたのだと、君の手を離してから気づいたのだ。
20250513「ただ君だけ」
あの子は神様のもとに行ったんだ。
だから、忘れるしかないよ。いくらあの子の名前を呼んだって、帰ってくることはないのだから。
……と、言われて諦められるなら、私は今ここにはいないと言い切れる。
黄昏時の空に消えていった片割れの行方は、数多の『異界』を観測してなお不明。それでも私は望みをかけて今日も「生きた探査機」Xを『異界』に送り込む。
しかし、そう、私の目的を知ったXはこう言ったのだ。
「もし、妹さんに出会えたら、何を伝えますか? あなたの存在と、妹さんを探しているお話はもちろんお伝えするつもりですが、言いたいことは、いくらでもあるのでは?」
ごくごく真摯な目で、ごくごく当然のように。
『異界』に潜れるのはXのみ、当然メッセージもXづてでしか伝えることができない、それはもちろんそうなのだが。
「……すぐには、思いつかないわ」
諦めずにはいられたけれど、叶う可能性が出てくるなんて思ってもみなかったから。
私は、未だに片割れにかけるべき言葉を見つけられないままでいる。
20250317 「叶わぬ夢」
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
我々は、数多の『異界』を、「生きた探査機」たる死刑囚Xの目と耳を通して観測する。
ただし、「目と耳」という但し書きが必要な通り、他の感覚器官を通した情報は私に伝わることはない。
だから、『異界』の不思議なティールームで、Xの前のカップになみなみ注がれた茶の香りも、私には判別がつかない、が。
Xの低い声が、呟くように告げる。
「懐かしい、香りがします。春の訪れを告げるような、」
――花の、香り。
Xは意識一つであらゆる『異界』を垣間見るが、その肉体は『こちら側』の研究所から一歩も動いてはいない。そして、潜航を始める以前も数年に渡って拘置所の独房で過ごしていたのだから、春の花の香りはそれこそ「懐かしい」ものに違いない。
遥かに遠くなったもの、『こちら側』では二度と出会うことの無いもの。
私はXではない。だから、Xが何を思ってその言葉を発したのかはわからない。
ただ、その声がひどく穏やかであったと、確かめるだけで。
20250317 「花の香りと共に」
Xはぼんやりしているようで極めて頭の回転が速い男であることは、そろそろわかりはじめていた。
まあ、そうでもなきゃあんな初見殺しの連続である『異界』の観測なんてままならない。『潜航』するのが俺たち研究者の誰かであったなら、Xほど長生きはできなかったに違いない。
特にXが得意としているのは、「ルールを見いだす」ことだ。傍目には混沌としていて理不尽に見えても、大概の『異界』には暗黙のルールがあり、Xは瞬時にそれを見極めて適切な行動を判断する。一体どこで育って何を食えばそんな風になれるんだか。
ただ、その一方で、Xには弱点がいくつかある。
「あの」
リーダーから発言を許されているXがぽつりと言う。茫洋とした目がこちらに向けられて。
「バレンタインデーって、どういう行事なのですか」
「X、そりゃさすがに世間に興味がなさすぎますよ」
「そう、ですか……?」
ぽやっとした顔でクエスチョンマークを浮かべるXに、思わず深々と溜息をつく。
このおっさん、とにかくものを知らないんだよな。一応娑婆にいた時代の方が長いはずなのに、いったいどうやって生きてきたんだか。
20250306 「question」