青波零也

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 ――『異界』。
 ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
 我々は、数多の『異界』を、「生きた探査機」たる死刑囚Xの目と耳を通して観測する。
 ただし、「目と耳」という但し書きが必要な通り、他の感覚器官を通した情報は私に伝わることはない。
 だから、『異界』の不思議なティールームで、Xの前のカップになみなみ注がれた茶の香りも、私には判別がつかない、が。
 Xの低い声が、呟くように告げる。
「懐かしい、香りがします。春の訪れを告げるような、」
 ――花の、香り。
 Xは意識一つであらゆる『異界』を垣間見るが、その肉体は『こちら側』の研究所から一歩も動いてはいない。そして、潜航を始める以前も数年に渡って拘置所の独房で過ごしていたのだから、春の花の香りはそれこそ「懐かしい」ものに違いない。
 遥かに遠くなったもの、『こちら側』では二度と出会うことの無いもの。
 私はXではない。だから、Xが何を思ってその言葉を発したのかはわからない。
 ただ、その声がひどく穏やかであったと、確かめるだけで。


20250317 「花の香りと共に」

3/17/2025, 9:19:11 AM