それじゃあ、また明日。
帰宅を急かすチャイム、暮れゆく赤い空を背に、そう言って手を振るそいつに向けて、俺も「また明日」と手を振り返したのを覚えている。
また明日。他愛ない別れの挨拶。
けれどその言葉が、壊れてしまいそうだった俺をかろうじてつなぎ止めていたのだと、今ならわかる。
そして、きっと、あいつも同じ。
俺たちには、明日がある。また、あいつと会える。
寄る辺のなかった俺たちにとって、それは他の何よりも大切な、たった一つの「約束」だったんだ。
20250304 「約束」
ひらり、目の前に翻ったそれが何なのか、一目ではわからなかった、が。
自然と、落ちてきたそれの出所に目を向ければ、窓から身を乗り出した女が手を振っていた。
「すみませーん、プリントが落ちてしまって」
なるほど、講義か何かの配布物か、と思うが、その女の手には今にもあふれんばかりのプリントが抱えられていて、その時点で嫌な予感しかせず。
「拾っていただけます――わああっ!?」
案の定、ひときわ強い風に、女の手の中にあったそれらが見事なまでに舞い上げられる。
「す、すみません、今から降りて拾いますので!」
「おう、先に拾えるだけ拾っとく」
慌てて窓から顔を引っ込める女に手を振り、ひらひらと落ちてくるそれらの一つを拾い上げる。
「……親父の講義か」
俺の親父はここの教授で、このプリントには俺も見覚えがある。数多の伝承に語られる『異界』にまつわる、ごくごく浅い部分をさらうだけの、教養レベルの講義だ。
が、それよりも俺が目を見張ったのは、そのプリントにはびっしりと走り書きが書かれていて――よくよく見れば、それらは、親父と同じ研究を続けてる俺ですら顔負けの『異界』にまつわる知識の羅列、そしてそれらに対する考察だった。
その一枚だけではない、拾い上げるどれもが同じような調子で、俺はうっすら寒気すら覚える。
――あの女も、親父や俺と同じく、『異界』に魅入られてるのか?
手を振ってこちらに駆けてくる……駆ける、というにはあまりにもどんくさい走り方の女を見ていた俺は、いったいどんな顔をしていただろう?
20250303 「ひらり」
誰かしら?
扉の鍵、閉まってなかったかしら、まあいいわ。だって是非とも誰かに見てもらいたかったから!
この子は何かって? いい質問ね、これは「ここではないどこか」への扉をこじ開ける装置よ。これさえあればどこにだって行ける、おとぎの国にも、伝承の土地にも、あの世にだって!
あら、眉唾って顔してる? みんなそう、アタシのことお友達だって言ってくれたやつだって、アタシのこと頭がおかしいって決めつけて、病院に行こうって手を引いて。
嫌よ、絶対に嫌! この子を置いてなんていけない、やっとここまで辿りついたんだから。
他の世界の扉なんていくらでも見えてるのに、アタシの手では開くことはできない。向こう側に消えたあいつを追いかけることもできないのに、扉から漏れ出てくるものがうるさくて、まともに前も見えなくて、あんたの後ろにいるやつと目を合わせたら絶対にアタシがアタシでいられなくなる。
嫌、嫌よ、アタシはおかしくない、おかしいのは何にも気づいてないそっちじゃない、あんただってそうでしょ。
疑ってない? もっと聞かせて欲しい?
――アタシの力が、必要?
どういうことか、詳しく、聞かせてほしいのだけど。
その前に、えっと……、あなた、誰だったかしら?
20250302 「誰かしら?」
ここではないどこか。此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
そういうものを、僕らは十把一絡げに『異界』と呼ぶ。
一般的には夢物語とされているそれは、『異界』の影響を監視する家系に生まれついた僕にとっては極めて身近なものだ。
ただ、『こちら側』から積極的に『異界』に干渉するすべは、それこそこの国の歴史が記された頃から存在するとされる本家ですら持ち得ないとされていた。
だが、限定的にではあるが積極的な『異界』への渡航を可能とした研究者のチームが現れた。
彼らが正しく『異界』へのアプローチを深めていくならよし。しかし『異界』の事物を用いて『こちら側』に混乱をもたらすならば――。
かくして僕は「監査官」としてここにいる。
とはいえ、彼らはいたって真面目な研究者であり、また自らの立場もよくよく理解しているように見えている。今のところは。
だから僕は今日も、まだ見ぬ『異界』への第一歩――僕らの歴史の中でも稀なる異界研究の芽吹きを彼らと共に見つめているのだ。
20250301 「芽吹きのとき」
僕の左目は契約の証。
一握りの魔法の引き替えに、僕の片方の視界を大切なあなたに。
そうして交換した左目は、その人が僕の前からいなくなってから光を映すこともなければ、魔法の気配もすっかりなくなってしまった。
それでも僕にとっては命より大事なもので、いなくなってしまったその人の存在証明で、ただ、今はもうそれだけだと思っていた、けれど。
そうではないのだ、と彼は言う。
「あんたのその目が、今もなお色づいているってことは――」
まだ、僕の大切なひとは、本当の意味でいなくなったわけではない。魔法はまだここにある。魔法の使い手もまた然り。
ここからどれだけ手を延ばしても届かない、遥か遠くのことであったとしても、それは「無い」ということを意味しない。
その人はどこかにいるのだ。今も、この無数の世界のどこかに。
彼はきっと正しくて、だから、僕は前を向くことに決めた。
いくつもの世界を渡り、今の僕に与えられた「役割」を果たしながら、
あの日の温もりを、追いかけている。
20250228 「あの日の温もり」