青波零也

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 変な時間にインターフォンが鳴った。
 宅配を頼んだ覚えはなく、惰眠を貪るという極めて高尚な時間に割って入った無粋な輩に文句の一つでも言ってやろうと、玄関先を映すモニターを覗き込み――。
 
「こんにちは、お父さん!」
 
 そこに立っていた娘の姿を見てしまえば、耳に堪えない文句は喉の奥の奥に押し込まざるを得なかった。


 コーヒーカップもコップも俺一人の分しかないから、ひとまず自分のぶんのコーヒーを淹れ、もらいもんのコーラをコップに注ぐ。
 俺による俺のための椅子は当然娘には大きすぎて、細い足をぶらぶらさせている娘に「ん」とコップを差し出す。
「悪ぃな、菓子やら気の利いたものはうちにはない」
「お構いなくです、連絡もせずお邪魔してごめんなさい」
 まだ十歳かそこらのはずだが、何ともマセた物言いである。当時の俺はそもそもここまでまともな言葉は喋れなかったぞ、それもどうかとは思うが。
 ともあれ、にこにこ嬉しそうにコーラに口を付ける娘。おぼろげな記憶の限りでは全体の印象は母親に似てたはずなんだが、どうも目元が俺に似ていたのか、成長するにつれ着実に俺のツラに近づいていて何とも居心地が悪い。
「こんなとこまで一人で来たのか」
「はい、家出です!」
 家出、という言葉に刹那面食らったが、すぐにその言葉を吟味して問い返す。
「で、お母さんは何時に帰れって?」
「十六時にはここを出て帰ってくるようにと」
「オーケイ?」
 つまりそれは「母親が認識しているお出かけ」であり、「家出」とは程遠い。ただ、あくまで当人の主観では家出の一種なのであろう、という話。
「お母さん、今日もお仕事で寂しくて、どうしてもお父さんに会いたくなっちゃって」
 俺の休暇が一応カレンダー通りってこと、そういや前に教えてたな。
 昔は俺もカレンダーどころか昼夜も怪しい働き方をしてたが、今は研究職に専念してるということもあり、基本的にはカレンダーに従って休みを取るようにしている。
「いいのか、俺なんかに会いに来て。お母さんは嫌な顔しただろ」
「ちょっとだけ。でも止めはしなかったですよ」
「そりゃあ、止めづらいだろうよ」
 目の前に座る子供は確かに俺の血を引いた「娘」ではあるが、しかし俺に親権はない。俺とこいつの母親との間でそういう取り決めになったのが、まだこいつが物心つく前の話。
 つまり、こいつからすれば、俺は「お父さん」どころか、単に定期的に養育費を振り込んでくるだけの知らんおっさんに過ぎないはずなのだ。
 しかし、父親の不在ってのは俺が思うよりずっと堪えるものだったらしく、「お父さんに会いたい」と言い出したということを聞かされてしぶしぶ顔を合わせ、娘のために定期的な会合を設けることに決めたのがつい最近の話。
 で、今に至るわけだが――。
「お父さんにまた会えてうれしいです」
「そうかい」
「……あの、迷惑、ですか?」
「迷惑じゃない。ただ、あー、……慣れてないだけだ」
 お父さん、と呼ばれることも。
 ついでに、単純に「父親」に向けるのとは絶妙に異なる――要は、惚れた男への目をちらちら向けてこられることも。内緒にしてるつもりなのかね、これでも。
 いやはや、やりづらいったらありゃしない。
 つい口をついて出そうになる舌打ちを意識して抑え込んで――それはもう、こいつの「お母さん」から散々言い含められてんだ――、こいつの心が早く俺ではない他の、もっとマシでまともな奴に移ってくれることを祈るのだった。


20250220 「ひそかな想い」

2/20/2025, 1:23:27 PM