止まない雨はないという。
けれど、僕の心には長らく雨が降り続けている。
その結果僕の中の不安も焦燥もわだかまりも何もかもを押し流してくれるならいいが、閉ざされた空間に降り続く雨は、ただただ澱んだ思いを飲み込んだ暗い池を作り出すばかり。
どうして足元ばかり見ているんだ、とあいつは笑うだろうか。
いつかの仕事明けの朝、ちょうど雨が上がったばかりの空を指差して、あいつは朗らかに言った。
「ほら、見ろよ、虹が出てる!」
その言葉に目を上げれば、確かに見事な虹がかかっていた。僕の記憶の中では、初めて見る自然の虹だったかもしれない。
今もなお、その鮮やかな色は僕の脳裏に焼き付いている。
僕の心の中にも、あの虹が架かる日が来てくれるのだろうか。
でも、あいつはもうここにはいないから、雨が止んで虹が出たことにも気づけないかもしれないな。
今日も、雨は止まない。
20250223 「君と見た虹」
高らかに鈴の音が響く。
星々瞬く夜空を駆けるのは橇を引くトナカイたち、そして橇の上でトナカイたちの手綱を引くのは、白い縁取りの赤い衣装に身を包んだXだ。
私――『こちら側』からすれば季節はずれで、なおかつ物語の中でしかありえない光景も、少し位相のずれた『異界』なら「本当に起こりうる」ことであって。
腰を痛めたサンタクロースに代わり、その役目を請け負った親切なXは、初めてとは思えぬ手綱さばきでトナカイたちを駆り立て、橇を虚空に走らせていた。
橇の上いっぱいに積まれたプレゼントの配り先はトナカイたちが知っている、らしいけれど、本当だろうか?
私はついそう思わずにはいられないが、Xに迷いはないだろう。愚直なまでに言葉通りに与えられた役目をこなす、それがXのあり方であり、彼の美徳でもあったから。
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
我々は今日も、「生きた探査機」死刑囚Xの目を通して、『異界』を観測する。
Xの視界を映すディスプレイには、やがて子供たちの眠る街が見えてくる。
あちこちに灯るあたたかな明かりが、夜空の星々に負けず煌めいていた。
20250222 「夜空を駆ける」
変な時間にインターフォンが鳴った。
宅配を頼んだ覚えはなく、惰眠を貪るという極めて高尚な時間に割って入った無粋な輩に文句の一つでも言ってやろうと、玄関先を映すモニターを覗き込み――。
「こんにちは、お父さん!」
そこに立っていた娘の姿を見てしまえば、耳に堪えない文句は喉の奥の奥に押し込まざるを得なかった。
コーヒーカップもコップも俺一人の分しかないから、ひとまず自分のぶんのコーヒーを淹れ、もらいもんのコーラをコップに注ぐ。
俺による俺のための椅子は当然娘には大きすぎて、細い足をぶらぶらさせている娘に「ん」とコップを差し出す。
「悪ぃな、菓子やら気の利いたものはうちにはない」
「お構いなくです、連絡もせずお邪魔してごめんなさい」
まだ十歳かそこらのはずだが、何ともマセた物言いである。当時の俺はそもそもここまでまともな言葉は喋れなかったぞ、それもどうかとは思うが。
ともあれ、にこにこ嬉しそうにコーラに口を付ける娘。おぼろげな記憶の限りでは全体の印象は母親に似てたはずなんだが、どうも目元が俺に似ていたのか、成長するにつれ着実に俺のツラに近づいていて何とも居心地が悪い。
「こんなとこまで一人で来たのか」
「はい、家出です!」
家出、という言葉に刹那面食らったが、すぐにその言葉を吟味して問い返す。
「で、お母さんは何時に帰れって?」
「十六時にはここを出て帰ってくるようにと」
「オーケイ?」
つまりそれは「母親が認識しているお出かけ」であり、「家出」とは程遠い。ただ、あくまで当人の主観では家出の一種なのであろう、という話。
「お母さん、今日もお仕事で寂しくて、どうしてもお父さんに会いたくなっちゃって」
俺の休暇が一応カレンダー通りってこと、そういや前に教えてたな。
昔は俺もカレンダーどころか昼夜も怪しい働き方をしてたが、今は研究職に専念してるということもあり、基本的にはカレンダーに従って休みを取るようにしている。
「いいのか、俺なんかに会いに来て。お母さんは嫌な顔しただろ」
「ちょっとだけ。でも止めはしなかったですよ」
「そりゃあ、止めづらいだろうよ」
目の前に座る子供は確かに俺の血を引いた「娘」ではあるが、しかし俺に親権はない。俺とこいつの母親との間でそういう取り決めになったのが、まだこいつが物心つく前の話。
つまり、こいつからすれば、俺は「お父さん」どころか、単に定期的に養育費を振り込んでくるだけの知らんおっさんに過ぎないはずなのだ。
しかし、父親の不在ってのは俺が思うよりずっと堪えるものだったらしく、「お父さんに会いたい」と言い出したということを聞かされてしぶしぶ顔を合わせ、娘のために定期的な会合を設けることに決めたのがつい最近の話。
で、今に至るわけだが――。
「お父さんにまた会えてうれしいです」
「そうかい」
「……あの、迷惑、ですか?」
「迷惑じゃない。ただ、あー、……慣れてないだけだ」
お父さん、と呼ばれることも。
ついでに、単純に「父親」に向けるのとは絶妙に異なる――要は、惚れた男への目をちらちら向けてこられることも。内緒にしてるつもりなのかね、これでも。
いやはや、やりづらいったらありゃしない。
つい口をついて出そうになる舌打ちを意識して抑え込んで――それはもう、こいつの「お母さん」から散々言い含められてんだ――、こいつの心が早く俺ではない他の、もっとマシでまともな奴に移ってくれることを祈るのだった。
20250220 「ひそかな想い」
次に意識を取り戻した――と、アタシが認識したときには全てが終わっていたらしい。
知らない天井、知らないベッド、視界のあちこちから顔を出す形容しがたいなんらか、でも今までよりずっとすっきりした頭。
きっとアタシはとんでもないことをしでかした、そんな確信だけがはっきりある。でも詳しいところを確認しようにもアタシの頭と体は不自由すぎて、結局、そいつと顔を合わせるまではろくな話もできやしなかった。
アタシが意識を取り戻してから初めて病室を訪れたそいつは、綺麗な黒髪を頭の後ろで結った美人さんで、でも美人特有のキツさはなくて、なんだろうな、愛嬌のある猫ちゃんみたいな顔で、アタシに話しかけてきたものだった。
「具合はどうですか?」
「まあ、ぼちぼち?」
「ならよかったです。嫌がるあなたを無理に家から引き離すことは難しかったので。手を取ってくださってよかった」
どうも、そいつの話によると、そいつがアタシの家に訪れたときにはアタシはもう完全におかしくて、でも、他でもない「おかしくなったアタシ」の手を借りるためにアタシを訪ねてきたのだという。
「あなたには、ここではないどこかが見えている。そうですよね?」
確信に満ちた言葉。それは多分、あの見るに堪えない惨状の部屋の中でもアタシに投げかけてくれた言葉だったに違いない。
その時のアタシには、もう、現実とそれ以外の境目がすっかり見えなくなってて、まともな現実に戻るなんて考えることもできなくなってて、だけど――。
「私には、あなたの目と、それから、あなたの頭の中にある知識が必要なんです」
アタシの狂気をこそ必要としてくれるそいつが現れたことで、アタシは頭をぶん殴られるような衝撃とともに、そいつの手を握ったのだった。
結果として、アタシは、そいつに引き上げられて、今はかろうじて正気と狂気の狭間にいるわけだけど……。
「一つだけ、聞かせてくれないかしら」
「何ですか?」
多分、既に何度も聞いたことだとは思うのだけど、なにしろ今のアタシは覚えてなかったから。
「あんた誰? お名前、教えてくれないかしら」
そして、アタシから何度も同じことを聞かれてるであろうそいつは、嫌な顔一つせず、にこりと完璧な笑みを浮かべて。
「私は、」
20250219 「あなたは誰」
僕宛に手紙が届いた。
店の住所、そして僕の名前が綺麗な文字で書かれた、何の変哲もない封筒。
差出人の名前はない。
そもそも僕がここにいることは誰も知らないはずで、なのに店の主である彼女ではなく僕を名指しにして送られてきた手紙。
一体僕に何の用事なのだろう、手で封を開けかけたところで、
「不用心にすぎる」
と、彼女のしらじらとした指が僕の手から封筒を取り上げる。
「見るくらいなら、と思って」
「それが不用心だと言ってるんだ。封を開ける、あるいは文面を視認する、それを条件に降りかかる魔法だってある」
ああ、と、僕もやっと合点が行く。
そうだ、彼女は魔女であり、僕もまた彼女の魔法をひとかけら預けられた身。魔法に、僕の常識が通用するとは限らないのだった。
彼女はつまんだ封筒をためつすがめつしながら言う。
「こいつはトロイの木馬だな」
「コンピューターウイルスの?」
「お前は事件性のあるものにだけは詳しいな。とはいえ、これに限ってはその通り、古代ギリシアの伝承ではなく、かのウイルスのそれだ」
無害な手紙を装い、封を開けた瞬間に、開けた人間の脳裏に焼き付くウイルスめいた魔法なのだと彼女は言う。
「その結果、ウイルスがどういう活動をするかはここから見ただけではわからない、が、ろくなものではないだろうな」
「それが、どうして僕に?」
さあな、と彼女は笑う。魔女や魔法使いの恨みを買ったか、単に「遊び相手」に選ばれただけか。お前に心当たりがないなら私にわかるはずがあるまい、と。
「ただ、これは私が預かっておこう。お前には『まだ』手に負えない」
魔法の使い方もろくにわかっていないお前には。
そう言って、彼女は封筒とともに店の奥に消えた。
それきり、あの手紙の行方はわからない。僕宛の手紙も届かなくなった。
それは当然、僕の居場所なんて、彼女以外の誰も知らないはずなのだから――。
あの手紙をきっかけに、彼女から「お守り」として預けられた、羽の形のレターオープナーを手の中で回し、僕は今日の仕事を始める。
20250218 「手紙の行方」