「ねぇ、本当に行っちゃうの?」
「うん。僕に行かないなんて選択肢は与えられていないんだ。この国に生まれて、育ってきたからには、命を賭して守る義務があるんだ」
「嫌だ!死んじゃ嫌!」と娘は怒鳴った。
「大丈夫。あくまでそういう心づもりを持っているというだけだよ。そもそもお父さんが行くのは、戦線のかなり後ろの方なんだ。戦ってる人の支援をするのがお父さんの仕事なんだよ」
「絶対死なない?」
「死なないさ。お父さんはあまり良い奴じゃないからね。太宰治の『斜陽』でも書かれてたけど、悪いやつは中々に図太く生きるのさ」
「約束して。指切りげんまん」と娘は言って、小指を僕の方に伸ばしてきた。
僕はしゃがんで、その小指に自分の子指を絡ませた。
「「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます」」
ひらりはらりと舞い落ちる葉を横目に、今日も僕は公園で本を読んでいた。平日の午前中は人が少なく、30代無職の僕でも気兼ねなく利用できる。昼過ぎになってくると、幼児とその親が遊具を使い、3時を超えると小学生が占有する。誤ってその時間帯に公園に居てしまった時には、不審者として通報されてしまうかもしれない。特に僕は髭を剃るのが苦手で、かれこれ1年は髭を伸ばし、顔はサンタクロースのようになっている。
今日は天気もが良く、風も気持ちいい。プルーストの「失われた時を求めて」もそろそろ折り返しで、何気ない達成感みたいなのがあった。仕事もせず、実用的じゃない方向での自尊心の慰めが僕をどこにも連れていかないのは知っていたが、それでも、それすら辞めた時の僕の人生を想像するのがあまりにも怖くて、僕は本を読み続けた。
ひらりと葉が舞い落ちる。今年もまた1年が終わる。
その日、仕事から帰ってくると、部屋の鍵が空いていた。ドアの前で今朝鍵を閉めたかどうかを熱心に思い出そうとしたが、徐々に鍵を閉めた情景が本当に今日のものかどうかが分からなくなっていった。ただ、私の住んでいる地域で空き巣事件は聞いたことも無いし、私自身ストーカーをされるほど魅力的な女性でもない。恐らく、何か考え事をしていて閉め忘れたんだと思った。
そう思いつつも、少し慎重にドアを開け、真っ暗闇の玄関の中で電気スイッチを探した。電気をつけると、それまでの恐怖はスっとひいていき、いつも通り夕飯の準備にとりかかった。時刻は既に22.00時で明日も6.30には起きないといけない。夕飯といっても、できる限り早く、多くを追求した名誉社会人フードだ。それを簡単に済ませると、風呂でシャワーを浴び、その他残りの家事を無心で行った。1DKのため、寝室と生活スペースを兼用していて、実家暮らしに慣れていた私にとっては、秘密基地のような感覚があった。
リモコンで部屋の電気を落とすと、私は今日の仕事について考えた。もっと上手いやり方があったとか、あれは私の責任ではなかったとか。そして、漠然とした将来への不安が頭によぎった。何歳までに結婚するべきか、そもそも結婚はしないといけないものなのか、果たして私が出来るのか。そんな事を考えていると、どんどん睡眠から離れていってる感覚がした。まるで、海底にあるベッドから息づきのためにうるさい地上に近づいてるみたいに。
諦めて、リモコンで電気をつけ、体を起こしてみると、玄関の前に人影があった。ギョっとして、体を硬直させたまま、目を凝らしてみると、そこには白い髭を生やした、老人が私の方を向いて立っていた。先が白く丸い、赤色の三角帽子に、赤色のベルベット生地のジャケット。ジャケットの中心は白いボアの生地で両側の赤の境界線を生み出していた。そして、やはり赤と白のズボンに長い黒のブーツ。白いずた袋を肩から下げており、袋は中に入ってるものに押し出され、所々角張っていた。
私は急いで、携帯の電源をいれ、今日の日時を確認した。
『12月25日 水曜日』
やれやれ。
3月になった。真冬は追い越しつつあり、気温は日に日に上がっている。ダウンジャケットを着て歩いていると、少し汗ばんでくる程度だ。風は冷気と言うよりは、暖かみのある空気を体に押し付けてきた。僕はこの時期になると、いつも中学生の終業式を思い出す。春休みは何をして遊ぶのか、来年のクラスはどんな感じになるのか、そういったことを考えて短縮授業を受けていた。とても希望に満ち溢れていたと今では思う。小学生の頃はそれほど強い記憶は無いし、高校生ではコロナウイルスによって新学期の象徴性のようなものは意味をなしていなかったから、必然的に僕にとっての新学期のイメージは中学生になる。別に今だって、そういう雰囲気に身を包めない訳では無いが、20代になると分かりやすさをそのまま受け入れるのが少し気恥ずかしくなる。そういう時期なのだ。髪型やファッションのように、僕の10代の感性が順をめぐって戻ってくることを祈るしかない。
高校生の頃、僕に初めてガールフレンドが出来た。1年生の夏に僕から告白した。彼女は特別美人という訳では無かったが、愛らしい顔をしていたし、何より表情が素敵だった。百面相のように、コロコロ変わる表情は僕の話したいという気持ちを留まらさせてはくれなかった。彼女が僕のどこを気に入ってくれていたのかは今になっても分からないけど、メッセージアプリでOKの返事が来た時には何ものにも変え難い喜びがあった。まるで、それまでの晴れが気象庁によって曇りにされてしまうぐらい、比類無きものだった。付き合って2ヶ月ほど経った時に、そろそろ学校でも一緒に居ていいんじゃないかと打診してみた。そうすると、彼女はまるで初めからそうするのが当然と思っていたかのように、喜んで受け入れてくれた。
12.40に授業が終わり、12.45に同じ階で待ち合わせる。そこから、屋上に移動して13.10分まで一緒に昼飯を食べた。屋上は飛び降り防止の白い柵に囲まれていて、大きさは教室1分ほどと小さかった。僕らはいつも、影にならない場所を選んで、陽に照らされて過ごしていた。
「ねえ、なんだかこういうのって凄く恋人っぽいことじゃない?」
「そうかもしれないな。僕は君が初めてだけど、ドラマとかで見てきた恋人像はまさにこんな感じだ」
「やっぱりそうよね」と彼女は楽しそうに笑った。
いつも、僕と彼女の会話は何気無い叙情で終始していた。一見、会話が長続きしないカップルだと思われるかもしれないが、僕らはそれが心地よかったし、それが当然だと思っていた。