浜辺 渚

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2/13/2026, 4:21:53 PM

寂れた引き戸を開けると、視界に入ったのは脱ぎ散らかした子供たちの靴。上框の角は黄色く禿げていて、茶色の床とに不和が生じてしまっている。
自分の靴を靴箱に入れようとすると、靴箱の上に飾ってある小さな写真立てに入った牛のイラストと目が合った。
牛は縦に寝っ転がっているように描かれていて、顔だけがこちらを向いていた。おどけたように誇張された顔は何とも愛らしく、また憎らしかった。
靴をしまうと、買い物の荷物を玄関先のマットに置いた。マットは縁の加工がとれ、かなりほつれてしまっていた。最後に洗ったのはいつだろうとふと疑問に思った。
重い荷物を置いて、一度息を整えた。吸った空気には家の親身な香りが感じられ、吐いた空気には微妙な寂寥感の混じりがあった。
手のひらを見ると、ビニール袋を持っていた細い線が消えずに跡になっていた。その新たな手相には刺青のような象徴性があった。また、同時に無邪気さも感ぜられた。

8/31/2025, 12:34:10 PM

8月31日 午後5時

午睡から目を覚ますと、時計の針は午後5時ちょうどをさしていた。30分ほどの小休憩のつもりが、かなり眠ってしまった。今夜は寝付きに苦労するだろうな。
ソファーから起き上がると、首や腰の至る所が痛んだ。
台所でコップ一杯の水を一気に飲み、冷蔵庫から適当な具材を取りだし、即席のサンドウィッチを作った。それを頬張りながら、今日の夜についての簡単な予定を考えていた。予定以上に寝てしまったことで、当初考えていた計画は全て実行出来ないため、今日やるべき事、後回ししていいものとを熱心にわりふっていった。

8/17/2025, 4:54:50 PM

「お盆も開けて、8月ももう終わりね」と小夜は言った。
「小学生の頃はこの時期が1番嫌だったなあ。夏休みが終わって、いよいよ学校が始まるぞって思い始めるの」
小夜は縁側に横になって、風鈴をじっと眺めていた。からん、からん。
「確かに嫌だったわ。終わってない宿題もやらないといけないし。そして、それはだいたい自由研究やら新聞作りやらのめんどくさいやつ」と加奈子は言った。
「わかる。計算ドリルとかは答え移して早めに終わらせるの。でも、自由研究とかの一苦労必要そうなやつはあとにとって置くのよね。私だけじゃなかったのね」
縁側からは放置された雑草が茂っているのが見える。垣根のそばにあるはずの小さな池も今は見えない。
セミの鳴き声ががらんどうの居間にやけに大きく反響する。
「結局、今年も夏らしいこと出来なかったな。仕事でそれどころじゃなかったし。海とか川とか行きたかったな」と小夜は言った。
「私も。でも、最近の残暑なら数年前の真夏ぐらい暑いし、9月いっぱいは海やら川やらは行けるんじゃないの?」
「そうかなあ」
小夜はそう言うと、少し曇った顔をしてひとしきり悩み、何か考えが浮かんだように顔を輝かせた。
「それじゃあ、9月に一緒に行こうよ。海でも川でもプールでも」
「いいわね。今年は珍しく2人とも日本にいるし」
「そうそう。決まりね」

7/29/2025, 3:22:43 PM


「ただいま」と陽介はくたびれた声で言った。シャツは第二ボタンまで外され、ジャケットは腕で抱えていた。
「おかえり」台所に居た加奈子は夕飯を作りながら答えた。
「LINEで牛乳買ってきてって送ったけど、買ってきた?」と加奈子は聞いた。
「雪印のやつ」
「ごめん買ってきてない。スマホの電源切れちゃったんだよね」と陽介は申し訳なさそうに言った。
「まあそれはいいわ、割に遅くに送っちゃったし。今朝言ってた醤油は買ってきたわよね?」
「ごめん忘れてた」と陽介はバツの悪そうな顔で言った。
「忘れてたって?買ってこなかったってこと?信じらんない」と加奈子は半ば呆れたようにそう言った。
「今日の夕飯は海鮮丼よ。じゃあ私たちは一体何ををかければいいのかしら。醤油のない海鮮丼なんて食べても、何も面白くないわ」と口早に加奈子は言った。
「携帯にメモしてたんだけど、今日出先の会社が私用の携帯の競合で日中カバンに入れっぱなしだったんだよ。それに、海鮮丼にはおろしポン酢でも塩でも何でも会うだろ。初めに決めた通りにいかないからって大袈裟すぎる」
加奈子は調理の手を止め、着替えている陽介の前まで詰め寄って言った。
「あのね。海鮮丼の中でも、今日はサーモンがメインなの。おろしポン酢や塩でサーモンの刺身を美味しく食べれると思う?」
「思う。僕の実家なんて醤油はもったいないからって、ほとんどは塩で食べたぜ。」
陽介はワイシャツを脱ぎながらそう言った。ボタンを1つ外す度、彼女の顔色は徐々に歪んでいった。苦虫を噛み潰したような表情になり、そして、パッと元に戻った。
すると、そくさくと台所に戻っていき、調理の続きに戻った。
陽介は下着姿で廊下奥の自室に入り、デスクトップパソコンに電源を入れた。仕事のメールを軽く確認し、近くにあるウィスキーをコップによそった。しかし、メールは何回読んでも頭には入らず、さっきまで自分が言ったことが頭の中に巡っていた。まあ、いいやと思い、メール画面を閉じ、ウィスキーを口いっぱいに含んで飲み込んだ。お腹の中に暖かい海流を感じ、うっとりとして天井を眺めていたが、徐々に視界の天井は黒くなり、何故か体全体は粟立っていた。瞬きをして、何度か頭を回して、もう一度見ると天井は純潔の白に戻っていた。

7/26/2025, 4:52:07 PM

涙の跡は干上がった川に落ちた数滴の雨粒のように肌を濃く染めていた。こんなに悲しく思ってたんだ、とそこで初めて気づいた。
「もうすぐで出発するよ」と母親が遠くの方から呼びかけた。空返事をして、また鏡の自分を仔細に点検した。
目は栄養失調の根っこみたいに充血して、目やにがいくらか溜まっていた。顔全体を見てみると、それは多義性という感じがした。幾つもの入れ子構造になっていて、表情という表情を再現し続けてるかのようだ。
水道で軽く目を洗い、ハンドタオルで雑に顔を拭いて準備に戻った。

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