まあ、でもそういうもんだ。どうにか立て直さなくちゃならない。理不尽と思うかもしれないけど、そんなのは誰もが日常的に経験してることだ。世界の僕だけが不幸を背負ってる訳じゃない。残念ながら、社会は僕に寄り添い待っててはくれないんだ。残酷だけど、この体をどうにか前に引きずって生きていかなくちゃらない。確かに、歩かなくても明日は近づいてくる。でも、これ以上受け身になってどうする。1度その場で止まってしまったら、リズムは崩れ、感覚は麻痺し、次の1歩はより重いものになる。せめて、明日には自分から向かって歩かなくちゃならない。この体は陽の光を求めている。震えてる足を温めなくちゃならない。1歩ずつでいい、大地を全ての指で鷲掴んで歩くんだ。
でも、今までだってこうやって自分を鼓舞してきた。でも、鼓舞しただけで満足して、結局同じ失敗を繰り返してたんだ。これだけじゃまだ足りない。いつまで同じ失敗をしているんだ。鼓舞して、暗闇から抜け出して、そこからがスタートじゃないのか。そうだ。あくまでこれは現実的な人生なんだ。アニメや漫画とは違う。顔を上げたなら、そこに映る現実を網膜に焼きつける必要がある。熱い心で身体を溶かし、冷めた頭で現実を捉えよう。
抽象的な自信と具体的な行動だ。
僕は変わっていたんだと思う。
高校生活という短いようで、実際に短いトンネルをくぐっている時に、気づいたら僕だけがそこを歩いていたんだ。車の通りもなく、僕の足音だけがやけに誇張されていた。まるで、誰かが小さ洞窟で木魚を鳴らしているみたいに響いた。
それは、思春期特有の自意識の肥大にしてはあまりにも長く強いものだったし、あるいは、それは思春期特有と言うよりかは、人が常に持つ本来的な性質なのかもしれないが、そうだとしても、僕は自分が変わっているという考えをどんな方法でも反証出来なかった。
変わっていると言っても、アーティストとして磨きあげられたら個性という程ではないし、ちょっとした魅力になるほどのチャームさもない。柄が短くて、刃先がやけに長いから、誰もそれを上手く使いこなせないし、そもそも見た目が不格好だから使おうとしなかったんだろう。
それでも、そんな僕を好きなってくれた人がいた。名前は覚えていないが、確かにいたはずだ。
その人は僕の異質さを異質さとして受け入れてくれた。そんなもの気にならないと強気に言った後に耐えられなくなったり、私はもっと変わっていると言って、つかの間の期待を抱かせたり、そういうことをしなかった。それに僕は本当に救われたんだ。
世界を一対81億で分けていた僕の手を彼女だけは握ってくれた。
あれから10年は経ったような気も、1年すら経ってないような気もするけど、確かにそれは記憶の中の、埃被ったお道具箱に大事にしまわれてしまった。
仕事の転勤で海辺のアパートに引っ越すことになった。どうして、僕が選ばれたかはよく分からないが、恐らく、人間関係を上手く築けていなかったからだろう。少なくとも、僕に大きな期待を寄せて選んだという訳ではなさそうだった。
転勤先での業務は太平洋の水をティーカップで空にしようとするようなあまりに無茶な内容だ。無茶で無駄で無謀だ。やっていくにつれ自分の中の大事なものが擦り切れている感覚がある。元々僕の中にそれほど強固なものは無かったが、どうにか保っていた泥団子すらも、ダイヤモンドやすりで削られているような感覚だ。
それでも、生きてくためにはやっていかないといけない。逃げることも出来るのかもしれないけど、正直逃げることが正しい選択なのかを考える余裕すらも今は無い。なんだか、矛盾のようにも思えるかもしれないけど、誰だって多かれ少なかれの矛盾を抱えているものだ。
海辺のアパートで暮らすようになってから2ヶ月ほど経った。僕には仕事終わりに、30分ほど海辺で散歩する習慣が出来上がっていた。そして、今日も僕は海辺を歩いていた。
6月が終わり、本格的に夏が始まろうとしてる。夜の海辺は程よい気温で散歩にはもってこいだ。海風が強くなびいて、湿った空気が体中にまとわりつく。それは何も持たない僕をコーティングして、守ってくれているような気がした。
海辺を歩いて、空を見上げると、そこには一面の星空が輝いていた。何度見ても見慣れない絶景だった。
どこに焦点を決めるでもなくぼんやりと眺めていると、夜空は宇宙の広がりに従うように遠く離れていき、徐々に星の光が小さくなっていった。瞬きをすると、星の位置は元に戻っていた。その一時的な錯覚は僕が現実に括り付けられているという気をいっそう強めた。僕に星は手に入らないんだ。
そんな気持ちを抱えながら、目線を海に下げてみると、そこにはまた違う星空が広がっていた。ウミホタルだ。ウミホタルが海という大きな土台に青白く存在を主張していた。
「綺麗だ」僕は思わずそう呟いた。
興味本位で波際に行き、しゃがんで近くから観察してみると、そこには無数の米粒のような生き物があちらこちらに泳ぎ回っていた。
両手を入れてみると、ウミホタルが手にぶつかる感覚があった。くすぐったくて、手を引こうとしたが、試しにそれらを手ですくいあげてみた。
すると、そこには宇宙が広がっていた。ウミホタルの光が海の水を透明に照らし、舞っている木屑は惑星のように光った。手のひらの3次元空間では、それは夜空と言うよりも宇宙のように見えた。
その手のひらの可能性に何かを見出した訳では無いが、何となく、現実との距離が遠くなったような気がした。
僕は彼に温室に来て欲しいと言われた。
「どうも、お世話になっております」温室の入口に立ってそう言った。
「どうも」彼は不機嫌そうにそう言った。顔の深い皺と老眼鏡がお互いを引き立たせていた。
「それで、要件はなんでしょうか?」
「不思議なことなんだがね、最近うちの温室の鉢植えが勝手に消えてしまうんだ。朝に水をあげようと見てみると、明らかに1つか2つ減っていってるんだ」
「なるほど、鉢植えが消えてしまうんですね。何か心当たりとかはあるんですか?」と僕は尋ねた。
「何かが起こっているのは夜に違いない」重要な宣言をするみたいに、ハッキリとした口調でそう言った。
「私は基本的に起床してから、就寝するまでのほとんどをここで過ごしている。何かが起こっているなら、夜に違いない」
「なるほど」と僕は言った。
「それでだ。夜っていうのは、老人とは相容れない時間帯なんだ。私たちは死に近づく度に、徐々に世界から追い出されてしまうんだ」彼はガラス窓に反射する陽光を手で抑えながらそう言った。
「そこで君には、夜の温室を見張っていて欲しいんだ。君の歳じゃあ、ヘマを犯さない限り、まだ世界に受け入れられてるはずだ」と彼は言った。
「分かりました。夜の温室の中で鉢植えを見守っていればいいんですね?」と僕は言った。
「そうだ」と彼は言った。
「早速、今日の20.00から頼むよ。急だとは思うが、それが君の仕事で、私は対価を支払っているからね」
「もちろんです。早速今日から見張らせてもらいます」
3時間ほど屋内で雑務を行い、20.00の時間を確認して温室に向かった。
夜の温室は幻想的だった。室内に入ると、人感センサーが反応し、等間隔に置かれているスポットライトがくっきりとした光の筋を放った。暗闇という大きな力に、勇敢に立ち向かうような力強さを帯びた光だった。少し歩くと、デッキチェアがあり、そこに腰をかけ鉢植えを見守った。
30分ほど経ったころ。暇つぶしに本を読んでいた時、視界の端で何かが動いたような感じがした。ガサガサ、ごそごそ。明らかにそこには何かがいた。心臓が急激に早く動き、頭が少しクラっとした。唾を飲み込むと、その音はスピーカーを通したように大きく響いた。おそるおそる、横に置いてあったライトを持ち、その何かを照らしてみた。
そこには、透明の膜のようなものが渦巻いていた。僕にはライスペーパーがヒラヒラ踊っているように見えた。あれは、風だ。僕が今まで見たどの風とも違うが、直感的にそれは風であるということは分かった。風が鉢植えを奪いさろうとしているんだ。でも何故だ?どうして、風が鉢植えを取らなくちゃならないんだろう。それに、温室の窓は閉まっている。風の通り道は無いはずだ。
風は私には気づかず、鉢植えを持ち上げ、そのままどこかに去ろうとしていた。
どうにかしないといけないとは思いつつも、僕の頭はとっくに容量を向かえていた。まあいい、僕の使命は鉢植えを守ることでは無い、原因を追求することだ。申し訳ないとは思うが、どうにかその鉢植えには風と仲良くやって欲しい。
風が去るのを待ってから、僕はその風があった場所を目で捉えつつ恐る恐る温室を出ていった。
外の冷えた空気を吸い、呼吸を整えた。思い返すと、あれは僕が見た夢だったのでは無いかという気がしてきた。しかし、外からガラス越しに温室の内側を見てみると、確かに鉢植えは消えていた。まるで、カッターでくり抜かれたかのように不自然にそこにだけが空いていた。
まあいいさ。よく分からないが、あのモヤモヤが風であったことは分かる。果たして、今までの消えた鉢植えもそうだったのか、今回だけ風が請け負ったのかは僕の知るところではない。常習犯かどうかなんてのは分からないし、明日は風のいたずらとだけ報告しておこう。
涙が1粒2粒と雨樋から溢れ出る雨水のようにこぼれ落ちた。その時、僕はその湿った頬の感触に酷く驚いた。なぜなら、僕はここ20年ほど泣いたことがなかったからだ。最後に泣いたのは、小学2年生の発表会で衣装に躓いて転んでしまったときだと記憶している。そこから、ピタリと今の今まで僕の涙腺は働かなくなってしまったのだ。だから、今自分が涙を流しているという現実を上手く受け止められなかった。まるで、誰かが僕のまぶたの内側に入って、古びた蛇口を無理やり捻っているような感覚だった。
「泣いているの?」と彼女は聞いてきた。
「どうやら、そうみたいだ」と僕は言った。
「悲しいことがあったのね、可哀想」
僕は見知らぬ涙の戸惑いからひどく顔をこわばらせていたみたいだ。しかし、特段悲しいことがあった訳ではなかった。
「悲しいことなんていさ。ただ、冬眠をあけたリスのように頃合だと思って出てきたんだろう」と僕は言った。
「いいや、あなたにはきっと悲しいことがあったはずだわ。そんな気がするの。私そう言うのって結構当たるのよ」彼女は僕の目を見つめてそう言った。
「けど、仮に悲しいことがあったとして、その悲しいことが涙を流させたかどうかというのは僕には判断できないな。少なくとも、僕が涙を流すべきであった出来事はどれも涙無しで過ぎ去っていってしまったし」少し早口に僕は言った。数秒の沈黙が自分の居場所を見つけたかのようにとどまっていた。
「なら涙の代わりは何かあったの?涙っていうのはわりに重要な役割を持っていると思うの」と彼女は切り出した。
「綺麗な赤色の血さ。君の考える涙の役割っていうのは分からないが、僕はこの綺麗な血一つで不自由なく人生の舵を取ってきたんだ。特に僕の血は昔から綺麗だったんだ」
「綺麗な血と流れない涙」彼女が呟いた。
「そういうことになるな。綺麗なものが体を巡っているというのは心強いものだよ。僕自身の穢れを常に見張っていて、見つけたらすぐに浄化してくれるんだ」
「そういうものかしら。けれど、確かにあなたの涙はとても綺麗だわ。何一つ穢れのない透明な涙だもの」彼女は目の奥に隠されたヒントを解き明かすように僕を見つめてそう言った。