端的に言いますと、私はいま幾ばくかの力を持つ外部的な存在を必要としています。この悲惨な現状を何かしら変え、どこかしらに連れていってくれる具体的な力です。どうにも、私一人では何をどうすればいいのかが分からず、こうして手紙を書くのが精一杯なのです。この内容だけじゃ、何をして欲しいか分からないとあなたは思うかもしれませんが、こういう風にしか今の私には説明できないのです。頭の中で色んな物事が混沌としていて、絵の具のパレットのように、それが元々どんな色なのか分からなくなってしまいました。突然の連絡になってしまい困惑していると思いますが、つまり、そういうことです。1人で生きるというのは、光という性質を失った太陽と常に隣り合わせにいるような圧迫感を感じます。どうにか、この手紙があなたのもとへ届き、私を救ってくださることを願っています。
僕はそっと生きることを人生の軸のようなものに設定している。内向的なハリネズミのハリを1つずつ丁寧に確認しながら撫でるようにそっと。どうしてそうなったのかは今では定かではないが、恐らく、小学生の頃にあらかたの反そっと的な生き方を経験してしまったからだろうと思う。生まれつき、運動神経が人並み以上に良く、その上、九州の小さな村に生まれた考え方に錆が残っている運動好きの父親を持ったことで、僕の運動能力は学年でも1位か2位を争うほどだった。小学校という純粋さが擦り切れて居ない社会では、人はまだ資本主義的な生産性には囚われず、むしろ狩猟採取的な運動能力に価値を置くのである。それにより、僕は小学校の1年生から5年生を常に最低限の注目を浴びて生活を送った。リレーではアンカーだし、跳び箱ではクラスで1番高くを飛んだ。外部の写真家を雇って行う運動会の写真展示では僕の走る姿がそこらじゅうに貼ってあった。当然、告白を受けることもあったし、同性からもリーダー的な存在として憧れられていた。風というのは一方向にしか吹かないのかと錯覚するほどに順風満帆だった。しかし、小学五年生の頃にクラス内で天然パーマの子と喧嘩をする事件が起こってしまった。喧嘩と言っても、口喧嘩で、発端はその子が僕のホクロの多さをバカにしてきたことである。僕は言い返して、その子の髪の毛のダイナミックさについてバカにした。そうすると、直ぐにその子は泣き出して先生にバカにされたと話し、先生は頭の血管が領土を拡大しようとするみたいに青筋を立て、僕にイジメをするなと怒鳴った。どうやら、僕は彼をいじめたことになっていたらしい。僕の認識ではいじめは一体一では起こらないものであり、悪口を言われ、言い返すのは口喧嘩の範疇であると思っていたが、正しさの擬人である先生によるとそれはイジメということだった。その事件が僕の人格を変えるほど大きな理不尽さを秘めているかと言われたら勿論そうでは無いし、単によくある話で済ませられる類のものであるが、僕はその事件を契機に徐々に僕が支払っていた代償について気づくようになった。小学生6年生では収支決算を黒字にするように目立つことは控えて残りの学校生活を送った。それから、中学生、高校生と今に至るまで、目立たず、息を自分の持ち物に潜め、 そっと学生生活を送っていった。
僕は高校生の頃、多くの高校生がそうであるように、無謀な挑戦というものをしていた。それは無謀の中でも、ヒエラルキーが1番高い純粋な無謀さであった。そして、その時よく聞いていたのが、「登る壁は高ければ高いほど、登った後に見える景色は絶景である」という言葉だ。当時の僕は、その景色が気になって仕方なかった。まるで、地球の外に何があるのかが気になるインドガンのように。しかし、現実というものは一般的認知の通り残酷で、とうとう僕がその壁を登り切ることは無かった。あまりにも高いものだから、自分があとどのぐらいで登り切れたかすらも分からなかった。ただ、数年の時間を経て考え着いたのは、壁というのはミクロ的なものとマクロな的なものがあり、それは包含関係にあるということだ。つまり、頂きが分からないミクロ的な壁への途中経過でも、人生という全体の壁に対しての距離には少なからず貢献しているということである。しかし、そうなると人生という壁を超えるという行為についての意味を考えなくてはならず、それが意味することが死なのか、解脱なのかは僕には手に負えない議題であった。見切り発車でメタファーに乗り込んでも、停まるところを知らなければそれはただの戯言になってしまう。