雷に撃たれたような。
そんな、そんな衝撃が私の全身に走りました。
カッと頬が暑くなって、喉も渇いて、眩暈がする。
体の芯がぐらついて、不快感は無いが、平静という感覚は、私の中から抜け落ちました。
一体全体どういうことだろう。
そう首を傾げて、己に起こった異常事態の原因を考えますが、どうやら心当たりは一つしかないようでした。
胸が苦しい。
はち切れんばかりに脈打つそれを、掻きむしるように押さえ付け、私は、目の前に立つあなたを見つめるのです。
『胸の鼓動』
私の母は決して人当たりが悪い訳ではありませんでしたが、どうやら他人を手の平の上で操ろうとする節がありました。
頭ごなしに怒鳴り付けるようなことはしないのですが、自分の思い通りにならないと、途端に不機嫌になるのです。静かに不満を態度で表し、それでも思い通りにならない時には、涙を浮かべることさえありました。
こちらは感情的になった訳でも、理不尽な要求を押し付けた訳でもない。
ただ、母に自分の要望を伝えただけなのに、泣かれてしまうとどうにも弱くて、何故か悪いことをしてしまったような気がして、私は慌てて謝るのです。
小学校も、中学校も、高校も、私は母の顔色を伺いながら選びました。
父はどうだったかと言うと、完全に母の味方でした。
厳しい父というより、母を心の底から愛していて、私が少しでも母の機嫌を損ねようものなら、すぐに拳が飛んできました。
母はそれを止めるどころか、私が父に怯えて自分の意見を取り下げると、機嫌を良くするばかりです。
そんなこんなで、私はいい年になっても反抗という言葉を知りませんでした。
思考を放棄するというのは、とても楽なことでしたが、親の望みだけで形成された人生は、とても味気ない物でした。
だから精々、鳥籠の中で踊るように、呼吸をするのです。
『踊るように』
毎朝五時に私の家の前を通るあなたは、一体どこに向かうのでしょうか。
私は朝起きて、二階の書斎の窓から外の景色を眺め、珈琲を飲むのがルーティーンなのです。
外の景色と言っても、見えるのは薄暗い空と、ろくに車が通っていない道路と、犬の散歩をしている人間ぐらいで、大した面白みはないのですが。
代わり映えの無い日常の中、唯一毛色が違うのは、あなたでした。
仕事に向かう様子でもなく、犬を連れている訳でもなく、ただ毎日毎朝同じ時間に、一分たりとも時間のずれなど無しに、私の家の前を横切るのです。
おかげで、あなたの歩く姿を見かければ、時計など見なくても五時の訪れを知ることができるのです。
『時を告げる』
私には双子の兄が居ましたが、この兄は、大層愚かな兄でした。
学生の頃から飲酒と喫煙を繰り返し、教師から目を付けられる。近所からの評判も悪く、姿形が瓜二つの私も、外を歩けば白い目で見られる日々でした。
兄のせいで私はかなりの迷惑を被っていた訳ですが、私は兄のことを愚かだとは思えど、嫌いだとは思わないのです。
思い返せば、兄は幼少期から私に優しかった。
私が母に叱られ、押し入れで声を押し殺して泣いていた時にも、兄はそっと近所の駄菓子で売られている駄菓子を、押し入れのふすまの隙間から差し込んでくれました。
きっと兄のことなので、その駄菓子は買った物ではなく、盗んだ物だろうと子供ながらに察していました。
当時は私達は、小遣いをほとんど持ち合わせていなかったからです。
母は普段から厳しい人でしたが、特に、金に関してはうるさかったのです。
その厳しさは、兄のせいで増していましたから、兄が弟のために僅かな自分の金を使って駄菓子を買うということは、考えにくいことでした。
しばらくして、私達は二人きりになりました。母が死んだからです。父は、随分昔に家を出ていってしまっていました。
母というストッパーが消えたことで、兄の素行不良は日に日に酷くなっていました。誰かに手を上げただとか、カツアゲをしているだとか、女を孕ませただとか、そういう噂が私の耳にも届きました。
その結果、私から友と呼べる人間が居なくなったことは、言うまでもないでしょう。
それでも、依然として、兄は私に対して噂通りの鬼畜ぶりは見せませんでした。
ふと、私は幼い頃に訪れた海のことを思い出しました。その砂浜に埋まっていた、小さな貝のことです。二枚の貝殻で、自分の身を守る、小さな小さな貝のことです。
私に兄以外の拠り所がなくなったように、兄にとっての最後の拠り所も、私だったのでしょう。
唯一の家族、唯一の肉親。
元は一つの肉塊だった私達は、あの貝のように、二枚重なって空虚な中身を守っているのでしょう。
『貝殻』
私は、努力というものをしなくなっていました。
足掻こうとも届かない壁を、知っていたからです。
自分の才能なんてたかが知れると、そう言って切り捨てた未来を、もし切り捨てていなければ、一体どのような結果を実らせたのでしょうか。
若者は、絶望と、手を伸ばそうとも届かない虚しさを知らない。
その瞳のきらめきは、どうやら私には眩しすぎるようでした。
『きらめき』