あー、これこれ。これを食べるために今日も一日頑張った。
私は唐揚げを笑顔で頬張った。とたんに口いっぱいに広がる肉の脂と醤油の香ばしい香り。思わず顔がだらしなく緩んでいく。
仕事場近くにある馴染みの食堂は今日も大賑わいだった。安くて、早くて、何よりとびきり美味しいご飯を出す。そんなこの店は私をはじめとした客の心をガッチリ掴んで離さない。
私が注文したのは唐揚げ定食だ。ご飯に味噌汁、おしんこ。なんと言っても、大皿には刻みキャベツと子供の拳よりも大きい唐揚げが4つも載せられている。追加料金を払えば、さらに唐揚げを追加可能な嬉しいオプション付き。このご時世、ご飯と味噌汁も無料でおかわり可能なのもポイントが高い。
箸で唐揚げをつかんだ。ジジジ、と揚げたて特有の細かい振動が箸を通して指先に伝わってくる。髪を耳にかけて、唐揚げに息を吹きかけた。小さく一口齧り付く。アツアツの衣と肉を口の中で転がすように堪能する。ここで大きく齧り付くと、口の中が大変なことになるのは経験済みだ。なにせこの唐揚げ、中身は肉汁爆弾なので。
さっとご飯を口に放り込む。肉汁がご飯に絡み、幸せの味へと変化していく。
次にキャベツを口に放り込む。口の中の脂っぽさをリセットするためだ。シャキシャキした食感が楽しい。テーブルの上のフレンチドレッシングはもうちょっと後でかけよう。今は生キャベツのサッパリ感が重要だ。
味噌汁を一口。白味噌のまろやかな味わいが、仕事で疲れた体をホッと癒してくれる。
これだけのボリュームでお値段税込639円。ちょっと採算が心配になるレベルである。でもまあ、美味しいからいいや。もし値上げしても、この内容なら喜んで払える。
美味しいものを食べてる時、私は生きてて良かったと強く実感する。我ながら安い女だとは思うが、美味いは正義だ。食べたものが血となり肉となり、明日への活力となる。そういうシンプルな考えでいいと思っている。
昔はずっとお腹が減っていた。家がそこまで裕福ではなく、母が料理嫌いだったのだ。毎日繰り出される薄味の同じ節約メニュー。飽きる段階を通り越して、ひたすら『無』の感情で栄養を摂取する日々。今だからこそ理解できる。あれは食に対する冒涜だ。
悲しいかな、学校は給食が無く、お弁当持参だったのも食への渇望を強める一因になった。友人の美味しそうで華やかなお弁当は、当時の私の憧れそのものだった。
そんな経験を積んできたからこそ、その反動で美味しいものが大好きなのかもしれない。
その日あった嫌なことも、苦しいことも、美味しいものを食べている時は忘れられる。それが食事の素晴らしいところだ。正しく、私の生きる糧になっている。
そろそろ思考をこの素晴らしい唐揚げに戻そう。こんな極上の唐揚げを前にして、益体もないことを考えるのは唐揚げに失礼というもの。
私はまた一口、私の生きる意味にかじりついた。
テーマ「生きる意味」
唐揚げ定食を掻き込む女の話
弟の怒りに満ちた罵声が聞こえた。何事かと自室の窓からひょいと顔を出して、声の出所を探す。団地の敷地内にある子供の遊び場にて、弟とその友人が取っ組み合いの喧嘩をしていた。
「おい、何やってんだ!」
慌てて部屋を飛び出し、団地の階段を駆け降りた。弟はのんびりしている方で、ちょっと短気な友人のシンヤ君とは取っ組み合いどころか喧嘩すらした事なかったのに。内心動揺したまま遊び場へ駆けつけると、二人は擦り傷だらけで息も絶え絶えのまま、地面に転がっていた。
「あーあー、こんな怪我してよぉ……なんでこんな事をしたんだ?」
二人の服についた土を払いながら、喧嘩の理由を問う。二人は互いに睨み合ったまま押し黙った。「ヒロム」と語気を強くして弟の名を呼ぶと、低く唸りながら弟が口を開く。
「兄ちゃん、シンヤ君が!」
「うん」
「ブラックナイトが一番格好いいって!」
「うん?」
よくよく話を聞いてみると、二人が大好きな戦隊ヒーロー『ナイツレンジャー』で「誰が一番格好いいか」が喧嘩の理由だった。初めは軽い言い争いだったそうだが、口喧嘩がヒートアップして取っ組み合いになったらしい。
弟は主人公のレッドナイトが一番格好いいと言い、シンヤ君は最近登場したブラックナイトが一番強くて格好いいと譲らず。話は平行線になってしまったようだった。
思わず肩の力が抜ける。もっと深刻な理由を想像していた。そう言えば二人とも戦隊モノ好きだったな。弟に付き合わされて何回もナイツレンジャーを見ていたので、喧嘩の理由についてすぐに理解できたのは僥倖だった。
「いいかぁ? シンヤ君にとってはブラックナイトが、ヒロムにとってはレッドナイトが一番格好いいんだろ?」
二人は頷いた。
「ならそれでいいんだよ。誰かが絶対に正しい、みたいなのは無いんだ。善いとか悪いとか人それぞれなんだから。相手の言うことだけはダメって言うなよな。自分がされたらムカつくだろ?」
二人とも自分の意見を否定されたら、と想像したようだ。一拍の間が開いた後、また頷いた。
「みんな違って、みんないい。それでみんなハッピーだろ? ほら、仲直りのごめんなさいは?」
二人は互いにおずおずと声を小さくごめんなさい、と謝った。この年頃は素直で助かる。
一件落着だな、と自室に戻ろうとした時、服の裾が軽く引っ張られる感触がした。見下ろすと、シンヤ君が俺の服の裾を控えめに掴んでいた。
「ヒロムのお兄さんは、誰が一番格好いいと思ってるの?」
「あー……」
単純な好奇心による質問だろう。弟と一緒に興味津々な目で俺を見上げてきた。目をすっと逸らし、頰を掻いた。
「俺はホワイトナイトが可愛くてカッコいい、と思、う、ぞ……」
瞬間、二人は「マジかよ」と言わんばかりの目で俺を見た。なんだよ。いいだろ、紅一点のホワイトナイト。
テーマ「善悪」
子供の喧嘩と第三勢力の話
今日も客は来ない。売り物の安酒を引っかけ、私は赤字だらけの帳簿にペンを走らせた。私が経営するこの酒場は、まさに「場末の」という修飾詞がピッタリだった。このままでは、そう遠くないうちに店が差し押さえられるかもしれない。大きなため息が意図せず口から飛び出した。
「失礼、まだ開いてる?」
「あ、はい。いらっしゃいませ!」
珍しい。久しぶりの客だ。
高級そうな帽子を目深に被った女性客は、恐々と店内を見渡した。私以外に誰もいない事を確認すると、わずかに見える口元が安心したように小さく微笑む。
長く店を開いているが、初めての客だった。旅の人だろうか。
「何になさいますか?」
「……じゃあ、この店でとびっきり強い酒を」
注文に合わせて度数の強い酒を選んでいると、「あれは?」と彼女が質問してくる。女性客が顔を向けた先には小さな舞台とアップライトピアノがあった。
「昔はこの店で演奏を行ってましたので、その名残です。今はピアノの演奏者も歌手もいませんが」
半年前までは常連客たちの賑わい、ピアノと歌声の旋律、乾杯する音に満ちていたのに。近所に酒を提供するチェーン店ができてから少しずつ客を奪われていき、やがてパフォーマーには暇を出さざるを得なくなった。給金を払えなくなったからだ。
「お待たせしました。こちらの銘柄はいかがですか?」
ラベルが見えるように酒瓶を掲げると、女性客は大きく頷こうとして途中で固まった。やがて口がへの字に歪んでいく。
「待って! 注文を変えるわ。温かいお茶はあるかしら?」
「お茶の提供もございます。ですが少し時間をいただきますよ?」
「構わないわ。……ねえ、あのピアノを触っても?」
「いくらでもどうぞ」
女性客はピアノの前に立つと、色褪せた鍵盤を恐る恐る叩いた。ポーン、と繊細な音が店内に響く。再度、今度は違う鍵盤を叩いた。懐かしそうに一つ一つ丁寧に音を鳴らしていく。やがて一つ一つの音は美しい旋律となり、小さくためらいがちな声が重なる。しっとりした歌声は、人生の酸いも甘いも噛み締めるように、抒情的に歌い上げた。名曲『星に願いを』だ。
茶葉を用意する手がピタリと止まる。私は彼女の歌声に聞き覚えがあった。
「メ、メテオラ?」
「あなた私を知ってるの?」
驚いたようにメテオラが私を振り返った。
「そりゃあ、もちろん。貴女有名だもの」
「スキャンダルで?」
「いいえ。当代最高のシャンソン歌手としてよ」
スーパースターがどうしてこんな場末の酒場に、と考えてかぶりを振る。彼女が今言ったことが全てだった。スキャンダルをパパラッチにすっぱ抜かれたのだ。テレビやラジオから彼女の歌声が急に消え、密かに残念に思っていた。
帽子を脱いだ彼女は、やはりメテオラ本人だった。自嘲気味に笑った彼女は、私に質問を投げかてくる。
「喉を気にして酒に溺れられないのも困りものね。私はこの店の客にもなれないのかしら?」
「ここは客が来ないもの。客じゃなくて、貴女の秘密のステージとして好きに歌えば良いわ」
まあ、ほとぼりが冷めた頃にでも客を呼び込んでくれると嬉しいけど、と私は彼女に願いを掛ける。それを聴いて、ようやくメテオラは彼女本来の美しい笑みで応えてくれた。
テーマ「流れ星に願いを」
転落した歌手と酒場の主人の話
ダンボールが乱雑に置かれた部屋の中、僕は咳払いをした。買い物袋の中から新品のホワイトボードを取り出す。
「これから一緒に住むんだ。約束事を決めないか?」
食後の緑茶を飲みながら一息ついていた彼女は、不思議そうに目を瞬いた。
「約束事?」
「そう。例えば、君が得意な料理を担当する代わりに僕は掃除を担当する、とか。もちろん怪我や病気、どうしても気分が乗らない時みたいな例外はあるけれどね」
今まで違う家庭で生活してたんだ。どうしても価値観の相違はあるだろう。価値観をすり合わせることで僕たちが互いを尊重し、支え合うことができるように。僕たちのルールを決めたい、と彼女に伝えた。
「いいね。面白そう!」
明るく笑った彼女に安堵の息をつく。束縛っぽいと嫌がられたらと懸念していたが、どうやら要らぬ心配だったようだ。
「やりにくいと感じたなら2人で相談してルールを変えよう。そうやって僕たちの生活を育んでいくんだ。とりあえず、今日はざっくりと生活リズムについて決めようか」
「わかった。それじゃあ起床時間についてなんだけど、私朝型だからだいたい四時には起きてるの!」
「ちょっと待って」
両手で「T」の形を作った。四時だって? 最近朝のウォーキングにハマり始めた僕のじいちゃんよりも早いぞ。
「……オーケー。続けて?」
「それでね、朝早くに起きるから、寝るのも早くて」
「健康的でいいね。何時に寝るの?」
「九時前には」
「タイム!」
再び両手で「T」を形作る。九時前に就寝。幼稚園に行っている僕の姪より寝るのが早いとは。恐れ入った。
どうやら僕らの同居生活は前途多難になりそうだった。
テーマ「ルール」
同居初日のカップルの話
今日は高校の時から付き合っていた彼氏とのデートの日だ。社会人になってもう数年。そろそろ結婚を意識し始めた私に、大事な話がしたいとデートに誘ってくれた彼。彼好みの服、化粧、アクセサリーで身を整え、新しくできたカフェで待ち合わせた。
彼のプロポーズの言葉は何だろう? あれやこれやと妄想してはニヤつきながら彼を待った。彼氏が到着するなりソワソワと『大事な話』を促す私に、彼は言った。
「すまん! 他に好きな人ができちまったんだ。別れてくれ!」
「はぁ?」
一瞬、何を言われたか脳が理解を拒否した。
二度、三度と彼に言われた言葉を反覆するうち、幸せな気持ちが急速に萎えていった。その代わりに腹の奥底からフツフツとしたものが込み上げてくる。
私は貼り付けた笑顔で「そう」と静かに答えた。目の前の男の軽薄な顔が引き攣った。この男を好きだった数分前の自分がまるで信じられなかった。恋の力って本当に偉大だ。
無言で席を立ち、店を後にする。ゆっくりとした歩みはやがて早歩きとなり、走り出した。その足で最寄りのブティックに駆け込み、私好みの服を買う。それまで身につけていた服やアクセサリーは紙袋に入れてもらい、古着屋に二束三文で売り払った。
行きつけの居酒屋に入店する頃には、もう日は暮れていた。ビールジョッキを片手に別れた男についての管を巻く。店の大将はこんな私でも優しく迎え入れてくれた。
「もうホンット信じられない。こうなるぐらいならさっさと別れて欲しかったんだけど!」
「けど、お客さん。そんな男が好きだったんだろ?」
「……」
図星だ。彼に別れ話を切り出される直前まで、心から彼のことが好きだった。
下唇を噛み締める。顎がわななく。片手で目を覆うと、喉の奥がカッと熱くなった。心臓がギュッと握られているように苦しい。しばらくその体勢で心の整理をつけていると、知らない声が耳に飛び込んできた。
「お待たせしました」
振り返ると、エプロンをつけた青年がいた。胸のネームプレートには「新人バイト」の文字。その手に持った皿にはやげん軟骨。先程注文したまま忘れていた。
「あ……どうも」
「あの、その……良ければおしぼりもどうぞ」
ぎこちなく差し出されたおしぼりはほんのり温かい。最近は暑くなってきたから、おしぼりは冷やしていたはず。わざわざ温めてくれたのか。
「あ、ありがとうございます」
「あと、コレもどうぞ」
目の前に置かれた皿には抹茶プリンが載っていた。注文していない商品だ。注文の取り違えだろうか?
「嫌なことがあったら、甘いものが一番ですよね」
僕からのサービスです、と控えめに笑う表情が目に焼きついて離れない。私の目は自然と青年の背を追っていた。
テーマ「今日の心模様」
惚れっぽい女の喜怒哀楽の話