小説の練習中

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4/22/2026, 12:33:12 PM

 もうやめねえか、と震える声で親友が言った。半泣きだった。

「いいや、ダメだ」

 たとえ俺が間違っていたとしても、ここまで来てしまった以上、もう後戻りはできなかった。ここに来るまで散々迷ったが、結局俺はここにいる。
 夜の雑木林の中。懐中電灯の細い灯りを頼りに、道なき道を進んでいる中での出来事だった。

「腹ァくくれよ。これで成功すれば、俺たちヒーローだぜ」

 来ない方が良かったか、なんて考えは捨てた。失敗すれば失うものは大きい。俺がこれまで築いた名声、信頼、全てを失うだろう。もちろん、それは一緒にいる親友も同じだ。だがそのハイリスクを背負ってなお、有り余るほどのリターンがあった。

「思ったより高いな」

 雑木林を抜けた先、目的地の前には障壁がそびえ立っていた。それは前々から分かっていた事だが、予想より高さがある。想定外だ。自分の顔がさっと曇り、親友の顔がわずかに明るくなった。

「これじゃ仕方ねえって。戻ろうぜ」

 俺を諌めようと、これ幸いに親友が説得を始めた。こんな壁登れるはずがない、仕方ない、ともったいぶった理由をつけて。
 ここで諦めるのは簡単だ。だが、こんな絶好の機会はいつ訪れる? 次に今日この時と同じようなチャンスが巡ってくるとは、とても思えなかった。
 父がいつか言っていた。男には退いちゃいけない時があると。俺にしてみれば、それは今だ。

「お前はそこで見ていろよ。壁がなんだってんだ。俺はこの先に行ってやるぜ」
「ナカジマ、お前……」

 消極的な姿勢の親友に声をかける。計画段階では親友も乗り気だった。けれども土壇場で冷静になってしまうのが、親友の長所であり短所でもある。
 壁を登り始めた俺に、親友はもう何も言わなかった。俺の行く末を見届けるつもりのようだ。壁さえ登ればこっちのもんだ。あんなに高く、遠くに見えた壁の最上部がだんだん近づいてきた。俺の期待もどんどん膨らんでいく。
 両手がついに壁の淵にかかった。腹筋に力を入れると、体が持ち上がる。そして俺は高鳴る胸を深呼吸で落ち着かせ、壁の向こうを覗き込んだ。


 ハゲだ。ハゲがいる。
 壁の向こうは、俺が予想していた女の花園ではなかった。むさ苦しい男の掃き溜めだった。

「コラァ! ナカジマァ! そんな所で何やっとるんだ!!」

 俺を見つけたハゲの怒鳴り声が浴場にこだました。
 そういえば、と思い出す。この合宿施設の風呂場は一箇所しかないから、時間帯で男湯と女湯が入れ替わるんだったっけ。どうやら必死になって俺が壁を登っている間に、女湯から男湯への交代時間を迎えたようだった。俺は女湯覗きの計画失敗を悟った。
 こうして俺と親友は呆気なく御用となった。この後にはハゲこと生活指導の先生の説教が控えている。俺はため息をついて天を仰いだのだった。

テーマ「たとえ間違いだったとしても」
男子学生の能動的スケベバカ話

4/22/2026, 9:52:50 AM

 紅茶をカップに注ぐとき、最後の一雫をベストドロップと呼ぶ。紅茶の旨みを最大限抽出したその一滴が無ければ、せっかくの紅茶が台無しなんだよ、と姉は言った。

「最後の一滴がカップに落ちるまで待てないと、美味しい紅茶は飲めない。だからさ、私は何かを求めるなら、それ相応の忍耐が必要だと思うの」

 差し出されたカップに紅茶が注がれた。わずかに波打つ紅茶は、やがて水面が静かになる。蛍光灯を背に、情けない顔を晒す僕がカップの中に映った。

「アンタは忍耐が足りなかったのよ。きっとね」
「姉ちゃん。それ傷心の弟に向ける言葉?」
「鉄は熱いうちに叩かなきゃ意味ないでしょ。アンタは好きな子を蔑ろにしたの。反省なさい」

 ピシャリと言い返し、姉はマグカップを口に当てて傾けた。僕はカップに口をつけず、頭を抱えた。
 今日は好きだった子との初デートだった。何日も前から準備して、綿密なデートプランを組んでいた。
 おそらく彼女とは両想いだった、と思う。僕があの子を見るのと同じくらい、あの子が僕を見る目に熱がこもっていたのは確かだった。
 相手に迷惑じゃないか考えすぎるあまり、近いようで遠い絶妙な距離感が僕たちの間にはあった。その距離感を保ったまま、バスに乗り込んだ。映画館に行く予定だった。
 ああ、クソ。鬱になりそうだ。
 バスの中には仲の良いクラスメイトがいた。彼は目ざとく僕らに気付き、ちょっかいをかけてきた。おう奇遇だな、その子は? へえ! 映画館! いいねいいね、そういえば映画館で思い出したんだけどさぁ。

 正直なことを言えば、ちょっぴり気恥ずかしかった。クラスメイトの登場に助かったと思ったのも確かだった。彼女に話しかけもせずに、ずっとクラスメイトと話し込む僕の姿は、彼女の目にどう映っただろうか。想像に難くない。
 目的地のアナウンスが流れ、ようやく僕は彼女の存在を思い出した。慌てて振り返ると、彼女と目が合う。未だかつて見たことがないような、冷え切った眼だった。そこから先は頭が真っ白になって、何も覚えていない。
 ぽちゃりと小さな水音がした。視線を下ろすと、カップの中の僕はゆらゆらと揺れている。また小さな水音がして、僕の目から流れた雫がカップの中に入っていくのが分かった。

「僕が悪かった」

 言葉を口に出すことで、過ちを受け入れられる気がした。

「照れ臭さなんか我慢すれば良かった。他にもっとやるべき事があったのに。気をつかうべきだったんだ」

 僕がクラスメイトとの会話に夢中になっている間、ずっと黙ったままだった彼女。彼女の期待を裏切ったのは僕だった。その結果が、あの冷え切った目で。ああ、トラウマ決定だ。
 姉は無言で席を立った。僕の手の届く範囲に置かれたボックスティッシュこそ、これ以上何も言わない姉の少し不器用な優しさだった。

 僕は鼻をすすり、カップの中にある紅茶を一口飲んでみた。優しい紅茶の香りと、ほんのちょっぴりの塩辛さ。喉を通りすぎる熱い紅茶の雫が、後悔で凍りついた僕の心を温めてくれるような気がした。

テーマ「雫」
紅茶と後悔の話