小説の練習中

Open App

 今日も客は来ない。売り物の安酒を引っかけ、私は赤字だらけの帳簿にペンを走らせた。私が経営するこの酒場は、まさに「場末の」という修飾詞がピッタリだった。このままでは、そう遠くないうちに店が差し押さえられるかもしれない。大きなため息が意図せず口から飛び出した。

「失礼、まだ開いてる?」
「あ、はい。いらっしゃいませ!」

 珍しい。久しぶりの客だ。
 高級そうな帽子を目深に被った女性客は、恐々と店内を見渡した。私以外に誰もいない事を確認すると、わずかに見える口元が安心したように小さく微笑む。
 長く店を開いているが、初めての客だった。旅の人だろうか。

「何になさいますか?」
「……じゃあ、この店でとびっきり強い酒を」

 注文に合わせて度数の強い酒を選んでいると、「あれは?」と彼女が質問してくる。女性客が顔を向けた先には小さな舞台とアップライトピアノがあった。

「昔はこの店で演奏を行ってましたので、その名残です。今はピアノの演奏者も歌手もいませんが」

 半年前までは常連客たちの賑わい、ピアノと歌声の旋律、乾杯する音に満ちていたのに。近所に酒を提供するチェーン店ができてから少しずつ客を奪われていき、やがてパフォーマーには暇を出さざるを得なくなった。給金を払えなくなったからだ。

「お待たせしました。こちらの銘柄はいかがですか?」

 ラベルが見えるように酒瓶を掲げると、女性客は大きく頷こうとして途中で固まった。やがて口がへの字に歪んでいく。

「待って! 注文を変えるわ。温かいお茶はあるかしら?」
「お茶の提供もございます。ですが少し時間をいただきますよ?」
「構わないわ。……ねえ、あのピアノを触っても?」
「いくらでもどうぞ」

 女性客はピアノの前に立つと、色褪せた鍵盤を恐る恐る叩いた。ポーン、と繊細な音が店内に響く。再度、今度は違う鍵盤を叩いた。懐かしそうに一つ一つ丁寧に音を鳴らしていく。やがて一つ一つの音は美しい旋律となり、小さくためらいがちな声が重なる。しっとりした歌声は、人生の酸いも甘いも噛み締めるように、抒情的に歌い上げた。名曲『星に願いを』だ。
 茶葉を用意する手がピタリと止まる。私は彼女の歌声に聞き覚えがあった。

「メ、メテオラ?」
「あなた私を知ってるの?」

 驚いたようにメテオラが私を振り返った。

「そりゃあ、もちろん。貴女有名だもの」
「スキャンダルで?」
「いいえ。当代最高のシャンソン歌手としてよ」

 スーパースターがどうしてこんな場末の酒場に、と考えてかぶりを振る。彼女が今言ったことが全てだった。スキャンダルをパパラッチにすっぱ抜かれたのだ。テレビやラジオから彼女の歌声が急に消え、密かに残念に思っていた。
 帽子を脱いだ彼女は、やはりメテオラ本人だった。自嘲気味に笑った彼女は、私に質問を投げかてくる。

「喉を気にして酒に溺れられないのも困りものね。私はこの店の客にもなれないのかしら?」
「ここは客が来ないもの。客じゃなくて、貴女の秘密のステージとして好きに歌えば良いわ」

 まあ、ほとぼりが冷めた頃にでも客を呼び込んでくれると嬉しいけど、と私は彼女に願いを掛ける。それを聴いて、ようやくメテオラは彼女本来の美しい笑みで応えてくれた。

テーマ「流れ星に願いを」
転落した歌手と酒場の主人の話

4/25/2026, 4:50:49 PM