結城斗永

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1/25/2026, 10:50:31 AM

このお話は『過ぎ去った未来』の第二話です。第一話をまだお読みでない方はそちらからどうぞ。

※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
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『過ぎ去った未来』第二話

 五十歳の坂部真一は中堅商社で営業部長という椅子に座り、部下の失敗を肩代わりし、上層部の無理難題を現場が納得する言葉に翻訳する。そんな、砂を噛むような、けれど確かな手応えのある日常を繰り返していた。

 そんな坂部も、もちろん若い頃から仕事ができたわけではない。寧ろ、二十歳の坂部がもしも今の姿を見たら、「いけ好かないヤツ」とバカにして笑い飛ばすかもしれない。それほどまでに二十歳の坂部は酷かった。親の金で大学に通いながら授業は碌に出席もせず、バイトを始めても三日と持たない。将来の展望など一ミリも持たずに、ただ「面倒くさい」という言葉を盾に、部屋の万年床でごろごろと無駄に時間を潰しているような男だった。

 誰にでも『きっかけ』というのは訪れるものだ。三十歳手前で半ば拾われるように入ったバイト先が性に合っていた。叱られながら、殴られながら、それでも続けたいと思える仕事に出会った。そこからは社会の荒波にもまれながら、『責任』を全うすることで『信用』を勝ち取ってきた。今の坂部を作っているのは、そうした時間の重みだった。

 だが、坂部は時々考えるのだ。
 二十歳の自分――自由で責任もない、悩みらしい悩みもなかった『あの頃』に戻りたい、と。

 そんな現実逃避を肴に酒を飲もうと繁華街を彷徨い歩くなか、コンクリートの建物に囲まれた路地裏で、ひときわ異質なレンガ造りの平屋を見つけた。
『たいむましぃん屋』
 木目の浮かぶ板に立派な筆文字で書かれた看板は、小洒落た料理屋のようにも見えた。

 扉をくぐると、カウベルが乾いた音を鳴らし、黴と埃の匂いが外気に舞った。
 坂部は店内をぐるりと見渡す。そこは料理屋でもなんでもなく、アンティークショップとでも呼んだ方がまだしっくりときた。小さなランプの灯りが室内をぼんやりと照らす。はっきりとは見えないが、家具や人形、何に使うのかも分からないオブジェのようなものが所狭しと並んでいるようだ。

「いらっしゃいませ」

 ふと、店の奥から男のか細い声がして、坂部はぞくりと背筋を震わせる。ランプが放つ橙色の薄明りから、じんわりと小柄な男が姿を現した。曲がった腰の後ろで手を組んでいるが、顔を見る限りでは老人と呼ぶほどの歳には見えない。

「お客人とは珍しい。まあ、おかけになってくださいな」

 店主と思しき男は、徐に店に並ぶテーブルから木製の椅子を引き出すと、坂部の顔を見ながら、手でそれを差し示す。

「ここは、何の店なんです?」

 椅子に腰を下ろしながら坂部が尋ねると、店主は落ち着いた声で答える。

「文字通り『たいむましぃん屋』でございます」

 はっきりとしない返答に坂部は若干の苛立ちを覚えながらも、そこは長らく営業を生業としてきたものの気概とでもいうように笑顔を作り、言葉の裏を追いかけながら質問を重ねる。

「ほお。つまりは、時間を移動できるということですか?」

「意識だけ、ですがね」
 店主はコクリと頷いて答える。

「あなたの意識だけを過去に転送して差し上げます。ただし、戻れるのは今から丁度三十年前のあなたの肉体に限ります」

「なんとまあ」
 坂部は大げさに驚いて見せた。
「オカルトじみた話ではあるが、もし本当なら何とも奇遇だ。正にいま、二十歳の頃に戻りたいと考えていたところだよ」

「それは、それは。なんとも丁度よろしいことで」

 店主が首を小さく上下させながら、不敵な笑みを浮かべた。坂部は完全に店主を信じたわけではなかった。しかし、まずは相手の言葉を最後まで聞き、その裏にあるものを探れ。営業としての鉄則である。坂部は辺りを見渡した。この店を構成するすべてのものが、胡散臭さの寄せ集めのようなものだ。もしかすれば詐欺や霊感商法の類かもしれない。過去に行くためだと目隠しでもされて、その隙に金品や個人情報を抜かれる可能性もある。坂部は店主の言葉を待った。

「過去へお連れする前に、いくつかお伝えしておくべきことがございます。『重要事項』というやつでしょうか――」

 店主はどこからか一枚のペラ紙を取り出して、坂部の前にひらりと広げて見せる。店主が顔の横で人差し指を立てた。

「ひとつ、転送先ではどんな行動をとっていただいても基本的には自由でございます。ですが、もしも未来が変わったとしても、もともといらっしゃった過去のあなたは、決して肉体を捨てたわけではありません。変わらずあなたのままだということをお忘れなく」

「肉体を捨てたわけではない、というと――」

 坂部は店主の言葉に、妙な回りくどさを感じて、思わず声を挟む。店主ははぐらかすように「あなたは、あなたということです」とだけ付け加えると、次いで人差し指の隣に中指が立った。

「ふたつ、転送先からは戻ろうと願えばいつでも戻ることができます。ですが、皆さま何故だか、向こうに行かれた時点でそういった意識をお忘れになるようです……。肉体は時に本来そこにあった意識の残留でもってあなたを飲み込もうとします。無意識ほど怖いものはございません。くれぐれもご注意くださいませ」

 いつの間にか坂部の顔はわずかに引き攣り、額にはじんわりと汗が滲んでいた。過去の意識に飲み込まれる。二十歳の怠惰をもう一度体験したいと口にしておきながら、その怠惰に飲み込まれるのが恐ろしい。しかし、『若さ』というやつは強いエネルギーを持っている。今の自分を作ってきた過去があるのだ。たとえ飲み込まれようと、その先の未来は如何様にも代えて行けるはずだ。少なくとも、今の私が持っている『経験』と『忍耐』があれば。坂部は小さく頷いた。

「そして、みっつ、これが一番重要なのですが――」店主が三本目の指を立て、にやりと笑う。坂部は唾を飲み込む。「基本的に、転送先にはどれだけいてもかまいません。時間の制限はありませんのでね。ですが、あまり長時間の滞在はお勧めしません。時間というものはいつも危険を孕んでいますから、予期せぬ事態が起こる可能性ももちろんございます」

 店主はそこで腕を降ろし、重要事項は以上です、と告げてまた口角を上げた。

 すべてを聞き終えた坂部は、頭の中で店主の言葉を反芻する。思考を巡らせ、今現在と二十歳の自分を天秤にかける。『自由』、『責任』、『経験』、『余白』。ラベリングされた分銅を置くたびに、天秤の腕が小さく揺れ動きながらも均衡を保つ。しかし、そこに『若さ』という分銅を乗せたところで一気に腕が傾く。

「どうされますか?」

 坂部の沈黙に痺れを切らしたように、店主の声が思考を遮った。

「お願いします」坂部は落ち着いた口調で答える。「戻してください。私を二十歳のあの頃へ」

「わかりました。少々お待ちを――」

 店主が近くの古びた箪笥から懐中時計を取り出し、長い鎖を指に掛ける。だらん、と坂部の目の前に時計の文字盤がぶら下がった。

「この時計の針をしっかりと見つめてください」

 店主がそう言って腕を小さく左右に動かすと、時計が振り子のように大きく揺れた。時計のチクタクという音が、坂部の鼓動と重なっていく。次第に坂部の視界がぼんやりと霞み、世界が光に包まれた。

  『過ぎ去った未来』第三話に続く

1/24/2026, 12:31:45 PM

本日から7日間はお題とは関係なく、全7話の掌編小説を投稿します。
(1/22お題『タイムマシーン』から着想を得たものです)

※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
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タイトル『過ぎ去った未来』第一話

 八十歳を迎える老人にとって、冬の冷たい風は命をも奪いかねない厳しい試練である。
 坂部真一は、ところどころ穴の開いたぼろぼろのコートを深めに着込み、都会の路地裏でうずくまっていた。

 この三十年で科学技術は大きく進歩した。パソコンや『エーアイ』と呼ばれるものは、人々の生活をどんどんと豊かにしていく。
 その一方で人間は怠けることを覚えた。自ら考えることをやめ、すべてをこの『エーアイ』とやらに頼る生活。それまで時間とお金をかけて生み出されていたものが、ほんの一瞬で生成される。なおかつそのクオリティも元より高いとなれば、当然ながら単価は下がっていく。なにも『エーアイ』で作られた物の単価だけが下がるわけではない。世の中は連動している。
 加えて、人口が減少していく情勢は、安い労働力を外から招き入れることでしか補うことはかなわず、世の中の賃金体系もそこに倣っていく。
 
 時代が進み、化学技術がどれだけ進歩しても、生きるために必要なコストは変わらないどころか、上がり続ける。数字を作れない者、道具を使いこなせない者、怠惰に生きる者らは、ことごとく社会から取り残されていく。
 家もなく、家族もなく、日々の食事も這うようにして探さなければならない。今の坂部は、そんな老いぼれとして今日という日をなんとか生きながらえていた。

 坂部は膝に顔をうずめながら、毎日のように過去への後悔を嘆き続けていた。
 あの時、ああしていれば、こうしていれば。思い当たる節はいくつもある。そのすべてが自らの怠惰からくるものだということも分かりきっている。しかし、それでも坂部は、あの『失われた三十年』がなければ、今よりもっとマシな生活ができていたのでは、と感じていた。
 坂部がまだ今よりも随分と若い頃、突然降って湧いたような身に余る大金は、自堕落に生きてきた男にとって天からの恵みに等しかった。
 それまで責任や信用という言葉とは無縁だった男は、その金をあっという間に使い果たし、突然現れた妻や子供からも見放され、一人虚しく負の連鎖に陥っていく他なかったのである。
 坂部は自分の身に起きた不可思議な現象を、今の今まで誰にも話さずに生きてきた。
 
 ――こんなウソみたいな話、誰も信じてはくれまい。
 
 時間が意味も持たずに気づけば流れているというのは、非常に恐ろしいものである。そして、その不可思議な三十年の空白が、坂部の人生を大きく狂わせたことは言うまでもない。

 坂部がふと顔を上げると、視線の先にぼんやりと明かりが灯っていた。
 とうとう神様がお迎えでもよこしたか。坂部は腰を上げ、光を目指して歩く。
 これは夢か幻か。

 あらかじめ言っておくが、この物語は常に過去に執着し、未来への選択を間違え続ける男の話である。
 間違えるのは己のせいか、この世界が悪いのか。それとも、自分とは異なる時空を生きる何者かの悪戯なのか。
 ただ一つ言えるのは、今の己を形作っているのは、過去の自分の生き方である、ということだ。 

  第二話に続く

※第二話は1/25に投稿します。

1/22/2026, 11:33:21 PM

1/21お題『特別な夜』への寄稿です。
本日のお題『タイムマシーン』へとお話はまた改めて投稿します。

4000字を超えてしまいました。
かなり長文ですが、最後まで読んでもらえたら嬉しいです。

※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
タイトル『何も起こらない特別な夜』

 片田舎のローカルコンビニ、ましてや深夜の滅多に客も来ないような時間に、人生の何たるかなんてことに思考を巡らすのは、単に虚しさが募るだけなのでよしておいたほうがいい。
 とはいえ、ワンオペ業務の合間のふとした手持ち無沙汰な時間になれば、考えなくてもいいことを考えてしまうのは仕方がないことだ。どこからともなく不安や期待のようなものが、煙のようにえんらえんらと立ち昇り、空っぽの頭の中でぐるぐると漂い始める。

 ここはなんとも平和だ。人もまばらで、外の世界とはまるで時間の流れが違う。最低限のコミュニケーションで何となく社会と繋がり、考えて動くことはあまり必要とせず、決められた時間に決められたことを、毎日同じように始めて終わらせればいい。ましてや三年も同じ環境にいれば、業務も手慣れたもので、今では、この淡々と過ぎていく時間が生活リズムそのものになっている。それはとても心地のいいリズムだ。
 
 レジカウンター越しに、冷蔵ケースのうえでぽっかりと浮かんだ満月のような壁掛け時計を眺める。午前零時の十分前。節目はただ静かに訪れようとしている。
 
 ――特別なこともないままに、またひとつ歳をとってしまうのか……。
 
 長い独り言が声にもならず、誰もいない店内の照明に溶けていった。スマートフォンがパンツの後ろポケットで数回震えたが、もはや画面を見る必要も感じない。
 バースデーソングの代わりにスピーカーから流れてくるのは、名前も知らないアイドルの歌声。もう数時間前から何度も繰り返し聴いた『夢はいつでもプライスレス』みたいな歌詞は、まるで観客を置き去りにしたパフォーマンスのように、モップがけを終えたばかりの床へと落ちていく。

 二十四歳とはなんとも中途半端な歳だ。四捨五入してもまだ二十歳の年。大人にもなりきれず、かと言って、もう子どもと呼ばれるのも憚られる歳の頃。
 一年という区切りを迎えるたび、疎ましさが胸に沈む。年齢の物差しは毎年確実に数字を重ねていくというのに、何ら劇的なことも起こらず、この内側には波風ひとつ立ちはしない。たとえ今この時に人生が終わったとしても、百の歳まで生きようとも、見えてる景色はほとんど変わらないのではとすら思えてくる。ぞぞぞと胸騒ぎがする。

 不意に入店音が鳴り、条件反射のように脊髄から昇ってきた声が、頭のなかの煙を蹴散らしたあとで口から出ていく。
「らっしゃっせー」
 それはもはや声というより意味が乗っただけの音だった。
 いつもならその届く先まで追うこともないのだが、今日は珍しく、自動ドアから冷気とともに入り込んできたその客人に、思わず目がいった。

 この場所にはあまりに不釣り合いな、仕立ての良いチャコールグレーのコートを羽織り、ポケットに左手を突っ込んだまま、右手では、白髪をのぞかせる布帛のソフトハットの縁を静かに撫でている。ピカピカに磨かれた革靴は、床のセラミックタイルをコツコツと小気味よく叩く。

 老紳士がまっすぐレジカウンターの前を通り過ぎると、コロンの香りが鼻先をかすめた。自然と背筋がぴんと伸びる。
 この片田舎にもあんな紳士がいるんだな、と感心してまもなく、いてもおかしくはないか、と自己完結をする。

「はて……」
 老紳士がふと何かを思い出したように立ち止まり、こちらを振り返る。
「私の欲しいものは何だったかな……?」
 老紳士は棚を巡る風でもなくこちらに歩み寄り、まるで私を古い友人か何かのように見つめたあとで、静かに口を開いた。
「最近は物忘れが酷くてまったく困ったものだ。よければ、思い出すまで少し話を聞いてもらえませんかな」
 老紳士は、喉の奥にコントラバスかバリトンサックスでも隠し持っているかのように、低く落ち着いた声をしていた。
 私は困惑しながらも、その重厚な空気に呑まれて「はぁ」と気の抜けた返事をした。
「ところで、君は何のために働いているのかね?」
 老紳士の唐突な問いに重なるように、窓の外で大型トラックのライトが通り過ぎた。この世界はあまりにも速い。こちらの脚力などお構いなしに、気づけば遥かに遠く先にいってしまう。私はそのまま世界から取り残されて、特にしたいことも夢もなく、ただ何となくこの場所に落ち着いているだけだ。
「……まあ、普通に、生活するため……というか」
 端折りすぎて短くなったにも関わらず、まったくまとまらない言葉。老紳士は、ほお、と短く息を吐き、視線を宙に漂わせた。
「なるほど、生活のためか。では、もしも砂漠にある砂の粒を数えるだけで、生活に充分な給料がもらえるとしたら、君はその仕事に魅力を感じるかね?」
 彼の言っている意味が分からなかったが、黙々と単調な作業を続けるのは嫌いではない。
「何も考えなくていいなら、それでもいいかもしれません」
「見た目以上に地味で厳しい仕事だ。砂の粒は風が吹けば飛ばされて、ついさっき数えた一粒がどれだったかなんて分からなくなってしまう。途方もない数だ。今数えている一粒は、昨日すでに数えている粒かもしれない。何とも不毛だとは思わないかね」
 老紳士の言わんとしていることは分かる。しかし、そんな不毛な生き方しかできない人間はどうしたらいいのか。自分のなかに目的を定めて、進む道を切り開いていく。何とも理想的な言葉だ。でも、私の今の経済状況では、先の見えない暗闇を歩けるほどの度胸は生まれない。
「そういえば、こんな話もある」
 老紳士はこちらの返事も待たずに次の『思いつき』を口にする。
「とある男が、世界中にあるすべての金を溶かして巨大なスプーンを作ったそうな。ところが、いざ食卓についても食べるものが何ひとつない。食材を買うための金はすべてスプーンのために使ってしまったのでね。スプーンがどれほど輝いていようが、喉を通るのは己の唾液だけ。皮肉なことだと思わないかね?」
 私は何と答えてよいやら見当もつかなかった。あまりに支離滅裂で脈略がない。
「あの……、さっきから何を……」
 私は堪らず尋ねた。一体彼は何を求めてやってきたのか。この一見脈絡のない四方山話が示すものが、この店の棚に並んでいるというのだろうか。

 この紳士は、いわゆるボケ老人というやつなのだろうか。しかし、声の輪郭とは似ても似つかぬ、力の漲った眼光は、湿り気を帯びた深い知性を湛えていた。
「私ね、あの時計が午前零時を指す頃には齢八十を迎えるんです」
 老紳士が壁掛け時計を指差した。分針は数字の十一を指している。まさか。この珍客との間に生じた妙な偶然に、私は胸の奥がじくじくとした。
「明日が誕生日ですか。私もです」
「それは奇遇ですな。お互い、何とも劇的な夜になりそうだ……」
 老紳士がふっと小さな笑いを漏らした。劇的な夜という意味が理解できないでいると、老紳士は視線を少しだけ天井の方に持ち上げて話を続けた。 
「誕生日を迎える瞬間というのは、螺旋階段をぐるりと登って、一段上の窓から外を眺めるような心地がしませんか。私はとても高いところに来てしまいましたから、見える景色もさほど変わりませんがね。私がまだあなたほどの頃は全く気づきもしませんでしたが、今になってみれば、その景色はあまりにも違いすぎる。そして、あの頃見ていた景色が無性に恋しくなるんです。あの頃に戻ったら、まず何をしようかとね」
 ちょうど店内に再び流れ始めたあの曲が、私の胸を軋ませる。――夢はいつでもプライスレス。
「若いころに経験するものの価値は測りきれないほどに尊い。それは、まるで大きな卵に夢を詰め込んでいく過程のようだ。都会の空気に溶け込んだ透明なカラスが、夜の闇の中で産み落とす虹色の卵。その中には、昨日までの夢と明日見る夢がブラックホールのように圧縮されて詰められていく。しかし、中身を見るためには卵を割らなきゃならない。とても覚悟のいることだ。もしも割らずに中身を見られる道具を天秤に乗せれば、天秤は己の測っているものの均衡も忘れて、単なるヤジロベエに成り下がってしまうでしょうな。いざ、卵を割ったとして、その中身をすべて掬うためには、どれほど大きなスプーンが必要なのでしょうね」
 老紳士の声が一層低い響きを持って店内の空気に混じっていく。心なしかLEDの照明も光を僅かに失っているようにすら感じる。
 老紳士はずっとコートのポケットに入っていた左手を静かに差し出した。ガサガサと乾いた摩擦音を立て、皺だらけのビニール袋がカウンターに姿を現す。ストロング缶が六本ほど入りそうな大きさ。紳士のきちんとした身なりとはあまりに対照的で、言いようのない不穏さを覚える。
 これは何の時間だ。壁の時計を見る。随分と長い時間が過ぎたように思えたが、短針も長針も、まだ僅かに真上を指してはいない。秒針がチクタクと誕生日前日のラストランを始めたところだった。

「そうこうしているうちに、もうこんな時間になってしまった。そろそろ家に帰ってパーティーの準備をしなければ。ようやく思い出しましたよ。ここに来た理由を――」
 老紳士が徐にコートの内ポケットへと手を差し入れ、穏やかで慈愛に満ちた笑みを浮かべた。まるで誕生日ケーキの蝋燭を吹き消す前の祈りのような、静かな決意が滲んでいた。
 店内のBGMはいつしかおすすめ商品の紹介に変わっていたが、内容がまったく耳に入ってこなかった。
「誕生日には金のスプーンで食事をしたくて、螺旋階段を降りてきたところまではよかったが、如何せん、『材料』が少しばかり足りなくてね……」
 引き抜かれた老紳士の手元には鈍い光を放つナイフが握られていた。刃先がカウンターに置かれていた皺だらけのビニールを指し示し、老紳士の静かで穏やかな低い声がその上に落ちる。
 パンツの後ろポケットがまた小さく震える。今になって画面を確認したくて仕方がないが、私の手はまるで石のように固まっている。
 老紳士が不敵に笑う。
「この袋に詰められるだけでいい。その箱に入った『スプーンの材料』を詰めていただけるかね……」 
 ナイフの刃先がすいと持ち上がり、私の硬直した体と無機質なレジの機械を行き来する。
 決して変わらないと思っていた私の視界が、一気に様相を変えて、ぐわんと大きく歪む。何も起こらないはずの夜が、一転、劇的な夜に変わろうとしていた。
 
 『何も起こらない特別な夜』―完―
 

1/20/2026, 10:18:39 PM

しばらく時が空いてしまいました。
お題×3を1作にまとめて投稿します。
#閉ざされた日記
#君に会いたくて
#海の底

※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。

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タイトル『拝啓、乙姫様』

拝啓、僕の乙姫様。

君が『少し深いところまで行ってくる』と潜水艇に乗り込んでから、三ヶ月が経とうとしています。時間の流れというものはあまりにも早くて残酷です。

僕はいま、この文章を誰に見せるためでもなくだらだらと綴っています。宛先のない手紙を書くように、僕の心に浮かぶ言葉をつぶやくように、ただただ指の動くまま筆を走らせています。
この文章が君の目に触れることがあるのか、いまの僕にはよくわかりません。あまりに気恥ずかしくて、もしかしたら永遠に本棚の奥に隠しておくのかもしれません。

ただ、今日のように寒い夜は、どうしても筆を執らずにはいられないのです。
君が見ている世界は、この夜空よりももっと深く、暗く、寒いのでしょうか。見上げた空が、君のいる場所とつながっていると知りながらも、そこに君との遠い距離を思わずにはいられません。

君が潜水士という過酷な職業を選んだその日から、僕はこうして君と離れることが多くなるのだろうと、覚悟をしていたつもりでした。しかし、それはあまりに時間的にも、物理的にも、とてもとても遠い距離でした。

重いボンベを背負い、冷たい水圧に身をゆだねながら、深い海の底に潜っていく君の姿を想像して、まるで竜宮城へ帰っていく乙姫様のように感じるときがあります。
君が帰ってくるその日に、僕は君よりも幾分か歳を重ねている気がしてなりません。
けれど、それも君が選んだ道であり、ようやく叶った夢なのですから、僕はその背中をきちんと見守ってあげるべきなのだと自らに言い聞かせる毎日です。

君がいなくなったこの部屋は、静かすぎて退屈です。もしかしたら君がいる深い海の方がまだ賑やかなのかもしれません。
君から話を聞くまで、太陽の光も届かない海の底というのは、外界から遮断された神域のような静寂なのだと思っていました。
でも、君はいつも言っていましたね。
『海の中は思ったよりたくさんの音に溢れている』と。
高い圧力に包まれた暗い海の底で、君はいま、どんな音を聴いているのでしょう。
たまに目を瞑って、君のいる世界を想像します。海の底でも風の音は聴こえるでしょうか。船舶が海の上を進む音も沈んでくるのでしょうか。クジラやイルカは君の話し相手になってくれているのでしょうか。
空を飛ぶカモメの鳴き声に思いを馳せる時があるでしょうか。

君と僕の間には、何万リットルという水の層が深く分厚く横たわっています。
それは物理的な厚み以上に、決して越えられない境界線のように感じられます。
僕はこうして陸の上で、何不自由なく呼吸し、温かいコーヒーを飲み、夜になれば静かに眠りにつく。
けれど君は深い海の底で、呼吸もボンベに頼らざるを得ず、昼が夜かも判別のつかない闇の中を漂うように泳いでいるのでしょう。
同じ星にいるはずなのに、君と僕のいる場所には、まったく違う物理法則がはたらいているように思えます。時間の流れすらも超越した全く異なる世界のように。

時々、良くない思考が僕の頭を支配します。
君がそのまま深海の静寂に魅せられて、地上の騒がしさを忘れてしまうのではないかと。君の夢が海水に圧縮されてしずんでいるようなあの場所で、君の心までが水の密度に溶けて、二度と浮上してこないのではないかと。
そんな心に留めておけない不安を、僕はこうして文字に起こすことで、心の外に追い出そうとしているのかもしれません。
君にはいつも、夢に触れていてほしいからこそ、僕はただただ自分のためにこうして言葉を綴るのです。

君に会いたい。
そんな短い言葉でさえ、この遠い距離と時間の壁を前にして、君に届くのかと不安に思えます。それは言葉というより、ただの祈りのようです。
君がいない部屋は、まるで空気が抜けた真空のようです。君が笑うときに細める目や、明るい声、手の温もりに、海の香りを秘めた髪の匂い。君がいない時間の中で、それら全てが、僕にとっては酸素そのものだったのだと思い返して、胸が苦しくなるときがあります。
でも同時に、僕がまだ、それらをありありと思い出せていることが、まだ救いのようにも思えます。

いま、再び夜空を見上げると、遠くの方で小さな星がわずかに瞬いたのが見えました。
この地球を取り囲む空気の層の向こう側に、はるか彼方まで広がる宇宙もまた、君のいる世界とよく似ているのかもしれませんね。
そう考えれば、果てしない宇宙より。底のある海の方が、まだ近くに感じられるような気もします。

君が戻ってくるまで、あと一ヶ月ほどでしょうか。調査の進捗によっては延長される可能性もあると聞きました。
もし、このノートが最後のページまで埋まってしまったら、僕はどうすればいいのでしょうか。新しいノートを買うべきか、それとも海へ向かってこの日記のような拙い想いを投げ捨てるべきか。
これを君が目にする日は来るのか分かりませんが、僕はいつも君のことを考えています。君のことを見守っています。
君が帰ってきた時には、両手で君のことを深く抱きしめて、君と離れていた時間を取り戻すように、この胸で君のすべてを噛みしめるでしょう。
どうか無事で帰ってきてください。
そしてまた、今よりも賑やかになったこの部屋で、二人向かい合って温かいコーヒーを飲みましょう。また君が見た世界の話を聞かせてください。それだけが僕の楽しみです。


敬具

まだ玉手箱を開けられずにいる浦島太郎より

追伸
僕の乙姫様。たとえ君が戻ってきた時に、僕がよぼよぼのお爺さんになっていたとしても、その時は笑わないでくださいね。

1/17/2026, 8:49:03 PM

※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
※暴力的な表現、流血表現を含みます。苦手な方はご注意ください。
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タイトル『木枯らしに疼く古傷』

 冬の冷たい風が街を抉(えぐ)っている。
 木の葉を吹き散らす風を、人は情緒的に木枯らしと呼ぶが、その実態はただの暴力だ。通り魔のように街を荒らし、剥き出しの肌を突き刺し、生きる者の体温を容赦なく削ぎ落としていく。

 俺は、その暴力の吹き溜まりのような路地裏で、辛うじてコンクリートの冷たい壁との境を保っていた。
 右脇腹の熱は、とうに失われ、じくじくとした鈍い痛みだけが俺の意識を繋ぎ止めるように響いている。
 コートの上から傷口を圧迫していた左手は、すでに自分のものとは思えないほど冷え、しばらく指の隙間から溢れていた鮮血は生気を捨て、不快な粘り気とともに腐った泥のような茶黒い塊へと変貌していた。まるで運命に抗う行為そのものが、冬の風に嘲笑われているようにさえ思えた。
 
 皮肉なものだ。まさか十年前につけられた古傷のすぐ脇に、奇しくもその血縁による傷を受けることになろうとは。

 ほんの数十分前、ここで俺の腹にナイフを突き立てたのは、まだ歳の頃は十六、七の少年だった。
 組織の連中が彼に吹き込んだ嘘は、若く軟弱な少年の脳を『復讐』という劇薬で焼き切るには十分だった。
『あんたが唆(そそのか)さなければ、親父は死なずに済んだんだ――』
 過程はどうあれ、結果は似たようなものだ。そこに関しては弁解の余地はない。
 彼が振りかざしたナイフの軌道は、稚拙で不安に満ちていた。恐らく刃先を人に向けたのさえ初めてだったのだろう。その目に滲む殺意は手の震えに呼応するように大きく揺れていた。
 彼は、俺の脇腹から溢れ出る赤黒いものを見るやいなや、絶叫と共にナイフを放り出し、暗がりの向こうへ逃げていった。

 新しくできた傷は、もはや古傷の場所を隠すように覆い被さり、まるで傷が互いに手を取り合うように、忘れようにも到底拭い去れない過去が疼き出す。
 今から十年前、俺がまだ二十歳そこそこで組織の構成員だった頃。兄貴分だった『兼元(かねもと)』という男と協力して、組織が事務所に隠していた裏金を密かに持ち出した。
 組織から逃れるため、人目につかない漁港の陰で兼元と待ち合わせた。身を切るような寒さの中、兼元は札束の詰まったドラムバッグを手に、俺から目線を逸らすように静かに言い放った。
『すまねぇ……。俺には、堅気の世界で育てなきゃいけないガキがいるんだ』
 兼元が俺に体重を預けるように寄りかかった直後、脇腹に熱が集まっていくのを感じた。そのまま蹴り飛ばされるように冬の冷たい海へと放り出された。
 俺は闇に沈みながら、自分の体温が海水の中に溶け出し、やがて冷徹な無に変わっていくのを感じていた。

 一命を取り留めたのは奇跡だった。
 俺は名前も戸籍も捨てて新たな人生を歩みだした。とはいえ、金もなければ行く当てもない。途方に暮れるなか、風の噂で兼元が交通事故に巻き込まれて命を落としたというニュースを目にした。
 組織が当時小学生だった息子の身柄を引き取ったと知ったのもその時だった。あいつが俺を裏切ってまで守ろうとした存在が、泥水の中に引きずり込まれんとしている。俺にはどうしようもなく我慢ならなかった。彼に会わなくては、と気づけば足が動いていた。

 それがまさかこんな結末になろうとは。
 組織が描いたシナリオは、低俗だが極めて論理的だ。俺という『過去の遺物』を裏切り者の息子という『未来の駒』に片付けさせる。これ以上のコストパフォーマンスはあるまい。

 ふと、乾いた足音が、路地の入口から聞こえてきた。先ほど俺を刺して逃げていった、兼元の息子。
「まだ、生きてたのかよ……」
 闇に消え入るような声で呟いた彼の目は、生きる屍でも見るように恐怖に慄いていた。
 なぜ戻ってきたのかは想像がつく。どうせ組織の奴らに念でも押されたのだろう。生死は確認したのか。証拠を残すな。すべてはお前がやったことだ、落とし前は自分でつけろと。
 少年は地面に落ちたままになっていたナイフを震える手で拾い上げた。構え直した刃先は宙を泳いでいる。
 俺にはもう動く力も残っていない。やるならやれ。どうせ俺には帰るところもない。
「俺をあいつのところに連れて行け」
 乾いた唇を無理やりに動かし、掠れる声を何とか絞り出す。少年の腕に力が入る。アスファルトを踏みしめる足が僅かに音を立てる。
「確実にやるなら、次はもっと心臓の近くを狙え……」
 俺は自らの胸に指を突き立てて、彼の行く先を示してやる。
「うあ゙ぁぁぁぁ――!!」
 彼の怯えるような叫び声が路地に響いた。もはやそこに彼自身の意思など感じられなかった。どうしようもない感情の行き場をただただ放り投げるような、自分以外の何かにすべての責任をなすりつけるような衝動が彼を動かしているように見えた。

 振り下ろされたナイフが、俺の胸まであと一寸のところでピタリと止まる。その瞬間、彼の手首はこれまで以上に大きく震え、やがて力が抜けたようにナイフを手放した。
 地面に乾いた金属音が響き、少年はまるで催眠でも解かれたように、その場にへたりこんだ。
「親父……、俺にはできないよ」
 鼻をすする泣き音を纏って闇に浮かぶのは、まだあどけない十六歳の輪郭だった。
 
 俺は尽きかけている力の限りを振り絞り、這いつくばるように彼の元へと身を寄せた。体を動かすたび、思い出したように傷口へと激痛が走り、乾いた塊を上塗りするように赤々とした鮮血が滲む。
 俺は少年の手を取り、自らの傷口に引き寄せた。彼の手は柔らかく温かかった。俺の体から流れ出る熱が少年の体温と混ざっていく。
 少年が涙や鼻水でぐしゃぐしゃになった赤子のような顔をその手に向けた。
「この熱を覚えておけ……」
 赤く染まっていく手に彼は何を見ているのかは分からない。だが、俺はどうしても伝えたかった。命を懸けてお前を守ろうとした人間がいたことを。そして、お前にはまだ輝かしい未来が待っていることを。
 俺の肺機能は限界を迎えようとしていた。一息吐くごとに血の混じった鉄の味が込み上げてくる。
「逃げろ……」
 それ以上の声は出なかった。
 彼は俺の手を振りほどくように立ち上がり、俺を刺した時と同じような顔で、闇の向こうへと走り去っていった。
 過去の裏切りだとか、恨みの連鎖だとか、そんなものはもうどうでもよかった。

 神様、どうかあいつを守り抜いてやってくれ――。

 木枯らしが路地を吹き抜けた。それは神の承諾か、それとも蔑むような笑い声か。
 やがて俺の肉体から溢れ出した熱は完全に失われ、コンクリートの壁との境が曖昧になる。視界が、ゆっくりと黒く塗り潰されていく。

 日が明ける頃、きっと俺は乾いて石化した黒いシミになっているに違いない。そこに俺がいた痕跡などはありはしない。コンクリートの路地の片隅で、ただの汚れとして、冬の街に溶けて消えるのだ。
 ただ、あの少年の行く先には明るい道が続いていることを願うばかりだ。もはや痛みすら感じなくなった俺の体には、兼元が残した古い傷の疼きだけがずっと熱を持ち続けていた。

 『木枯らしに疼く古傷』―完―

#木枯らし

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