しばらく時が空いてしまいました。
お題×3を1作にまとめて投稿します。
#閉ざされた日記
#君に会いたくて
#海の底
※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
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タイトル『拝啓、乙姫様』
拝啓、僕の乙姫様。
君が『少し深いところまで行ってくる』と潜水艇に乗り込んでから、三ヶ月が経とうとしています。時間の流れというものはあまりにも早くて残酷です。
僕はいま、この文章を誰に見せるためでもなくだらだらと綴っています。宛先のない手紙を書くように、僕の心に浮かぶ言葉をつぶやくように、ただただ指の動くまま筆を走らせています。
この文章が君の目に触れることがあるのか、いまの僕にはよくわかりません。あまりに気恥ずかしくて、もしかしたら永遠に本棚の奥に隠しておくのかもしれません。
ただ、今日のように寒い夜は、どうしても筆を執らずにはいられないのです。
君が見ている世界は、この夜空よりももっと深く、暗く、寒いのでしょうか。見上げた空が、君のいる場所とつながっていると知りながらも、そこに君との遠い距離を思わずにはいられません。
君が潜水士という過酷な職業を選んだその日から、僕はこうして君と離れることが多くなるのだろうと、覚悟をしていたつもりでした。しかし、それはあまりに時間的にも、物理的にも、とてもとても遠い距離でした。
重いボンベを背負い、冷たい水圧に身をゆだねながら、深い海の底に潜っていく君の姿を想像して、まるで竜宮城へ帰っていく乙姫様のように感じるときがあります。
君が帰ってくるその日に、僕は君よりも幾分か歳を重ねている気がしてなりません。
けれど、それも君が選んだ道であり、ようやく叶った夢なのですから、僕はその背中をきちんと見守ってあげるべきなのだと自らに言い聞かせる毎日です。
君がいなくなったこの部屋は、静かすぎて退屈です。もしかしたら君がいる深い海の方がまだ賑やかなのかもしれません。
君から話を聞くまで、太陽の光も届かない海の底というのは、外界から遮断された神域のような静寂なのだと思っていました。
でも、君はいつも言っていましたね。
『海の中は思ったよりたくさんの音に溢れている』と。
高い圧力に包まれた暗い海の底で、君はいま、どんな音を聴いているのでしょう。
たまに目を瞑って、君のいる世界を想像します。海の底でも風の音は聴こえるでしょうか。船舶が海の上を進む音も沈んでくるのでしょうか。クジラやイルカは君の話し相手になってくれているのでしょうか。
空を飛ぶカモメの鳴き声に思いを馳せる時があるでしょうか。
君と僕の間には、何万リットルという水の層が深く分厚く横たわっています。
それは物理的な厚み以上に、決して越えられない境界線のように感じられます。
僕はこうして陸の上で、何不自由なく呼吸し、温かいコーヒーを飲み、夜になれば静かに眠りにつく。
けれど君は深い海の底で、呼吸もボンベに頼らざるを得ず、昼が夜かも判別のつかない闇の中を漂うように泳いでいるのでしょう。
同じ星にいるはずなのに、君と僕のいる場所には、まったく違う物理法則がはたらいているように思えます。時間の流れすらも超越した全く異なる世界のように。
時々、良くない思考が僕の頭を支配します。
君がそのまま深海の静寂に魅せられて、地上の騒がしさを忘れてしまうのではないかと。君の夢が海水に圧縮されてしずんでいるようなあの場所で、君の心までが水の密度に溶けて、二度と浮上してこないのではないかと。
そんな心に留めておけない不安を、僕はこうして文字に起こすことで、心の外に追い出そうとしているのかもしれません。
君にはいつも、夢に触れていてほしいからこそ、僕はただただ自分のためにこうして言葉を綴るのです。
君に会いたい。
そんな短い言葉でさえ、この遠い距離と時間の壁を前にして、君に届くのかと不安に思えます。それは言葉というより、ただの祈りのようです。
君がいない部屋は、まるで空気が抜けた真空のようです。君が笑うときに細める目や、明るい声、手の温もりに、海の香りを秘めた髪の匂い。君がいない時間の中で、それら全てが、僕にとっては酸素そのものだったのだと思い返して、胸が苦しくなるときがあります。
でも同時に、僕がまだ、それらをありありと思い出せていることが、まだ救いのようにも思えます。
いま、再び夜空を見上げると、遠くの方で小さな星がわずかに瞬いたのが見えました。
この地球を取り囲む空気の層の向こう側に、はるか彼方まで広がる宇宙もまた、君のいる世界とよく似ているのかもしれませんね。
そう考えれば、果てしない宇宙より。底のある海の方が、まだ近くに感じられるような気もします。
君が戻ってくるまで、あと一ヶ月ほどでしょうか。調査の進捗によっては延長される可能性もあると聞きました。
もし、このノートが最後のページまで埋まってしまったら、僕はどうすればいいのでしょうか。新しいノートを買うべきか、それとも海へ向かってこの日記のような拙い想いを投げ捨てるべきか。
これを君が目にする日は来るのか分かりませんが、僕はいつも君のことを考えています。君のことを見守っています。
君が帰ってきた時には、両手で君のことを深く抱きしめて、君と離れていた時間を取り戻すように、この胸で君のすべてを噛みしめるでしょう。
どうか無事で帰ってきてください。
そしてまた、今よりも賑やかになったこの部屋で、二人向かい合って温かいコーヒーを飲みましょう。また君が見た世界の話を聞かせてください。それだけが僕の楽しみです。
敬具
まだ玉手箱を開けられずにいる浦島太郎より
追伸
僕の乙姫様。たとえ君が戻ってきた時に、僕がよぼよぼのお爺さんになっていたとしても、その時は笑わないでくださいね。
1/20/2026, 10:18:39 PM