信号が変わるまでの三分間、僕はずっと横断歩道の向こうに立っている君のことを考えていた。
夏休みが終わったばかりの九月の初め。
交差点には陽炎が立ち昇っていたが、対して僕の心はひどく冷え込んでいた。
横断歩道の向こうに固まる群衆の中に君の姿を見つけた瞬間から、胸がざわつき、呼吸が浅くなる。
横にいる同級生の男子と腕を組みながら、楽し気に話し込んでいる君の姿を、僕はまっすぐ見ていられなかった。
夏休みが空けたら渡そうと、カバンの中に忍ばせた手紙のことを思い返す。
月並みの言葉で「好きだ」というようなことを書き連ねた不器用な手紙。
書き直しては何度も読み返し、そのたびに、恥ずかしさが寄せた。
まだカバンから出せずにいるその手紙は、二度と君の手に渡ることはないだろう。
もしもこの手紙を君に渡してしまったら、僕と君は友達ですらいられなくなってしまうかもしれない。
そう思うと、渡せなかった自分への劣等感と、渡さなくてよかったと安堵する気持ちが、同時に押し寄せる。
信号が青に変わり、人々が一斉に陽炎立ち昇る交差点へと流れ出す。
押されるように人の波の中を進みながら、僕の心が「待て」と囁き、歩みが止まる。
後ろから寄せる人々が肩をぶつけ、舌打ち混じりで遠ざかっていく。
もし、いまここで君と顔を合わせることになったとして、僕はどんな表情を君に見せればいいのだろう。
考えもまとまらないうちに、群衆の波に溺れる僕の横を、君は静かな風のように通り過ぎていった。
僕の方には目もくれず、隣を歩く男の顔を、僕に見せたことのない笑顔で見つめたまま……。
信号が再び赤に変わったとき、僕は交差点の真ん中に呆然と立ち尽くしていた。
クラクションの音に頭をはたかれ、恥ずかしさと惨めさから、そそくさと歩道へはける。
君は明日からも僕を友達として見てくれるだろうか。
それとも僕は君にとって恋人以外の異性になってしまうんだろうか。
結論は出ないまま、信号機は二度目の青を灯す。
僕はぼやけた輪郭の決意を胸にしまう。
今までと変わらず、友達として君に話しかけようと思う。
たとえ手紙は渡せなくても、君のために手紙を書いていたあの時間は消えることはない。
その時間は、これからの僕にとっても大切であり続けるだろうから。
「私って本当に意気地なし……」
駆けるようにして校門の外に出た途端、我慢していたため息がふっと漏れた。
想いを寄せるマサトに、今日こそは言おうと決めていた『第二ボタンをください』の一言を、とうとう私は口に出すことができなかった。
初めて会った一年生のあの日から、彼のことが気になって仕方がなかった。でも、彼の周りにはいつも女の子が集まっていて、気づけばほとんど話すこともなく今日まで来てしまった。
卒業式が最後のチャンス。ここで声をかけられなければ、もう一生言葉をかわすこともないかもしれない。そんなのは嫌だった。
何日も前から、シミュレーションをして、鏡に向かって発声練習もした。式が終わって彼のもとに向かう途中も、言うべき言葉を心の中で何度も繰り返した。
でも、私が声をかけようとしたときには、すでにいつもの女子たちがマサトを取り囲んでいた。チラリと見えた彼の胸元にボタンがないのを見つけて、気づいたら、彼に背を向けていた。
こんなはずじゃなかったのに。
突きつけられた現実から一刻も早く逃げ出したくて、彼から離れるように踏み出した一歩が、歩数を重ねるごとに速くなる。
どうして、あんなに練習したじゃない。
ボタンはもらえなくても、想いだけは伝えるべきだった? でも、もう遅い。私は逃げた。
バカ、バカ、バカ……。私のバカ……。
悔しくて、自分の心に何度も拳をぶつけた。
校門の外でふっと息が漏れた瞬間、心の堤防が一気に崩れ去る。涙が漏れないようにぐっと目をつむっても、溜め込まれて圧力を増した涙は止めどなく溢れて流れていく。
その場にしゃがみ込んでしばらく泣いた。制服の袖が涙でびしょびしょになるくらい……泣いた。
――ミサキ――さん。
マサトが私を呼ぶ声。
とうとう幻聴まで聞こえてきたみたい。
「ミサキさん?」
さっきより輪郭がはっきりした声に顔を上げると、そこには両手からこぼれそうなほどの花束を抱えたマサトがいた。
マサトは私の顔を心配そうに見つめると、すっと私の隣にしゃがみ込んで、抱えていた花束をひとつ差し出す。
「ちょっと持ってて」
半ば強引に突きつけられた花束を無意識に受け取ると、マサトの空いた左手は制服のポケットに滑り込んでいく。
「これ……、受け取ってくれる?」
目の前で開かれたマサトの手のひらには、鈍い黄金色に光る制服のボタンがあった。
「えっ、これって……」
思わずマサトの顔に目を向けると、彼はまっすぐ私を見つめていた。目が合った瞬間、彼は少し目を伏せて小さく咳払いをする。
「明日からも一緒にいてほしい」
マサトの言葉で頭が真っ白になる。すべての言葉を忘れてしまったように言葉が出ない。
「ずっと言い出せなかった。一年生の時、初めて君を見かけた日から、いつか言わなきゃって思ってた」
私は差し出された彼の手にそっと自分の手を重ねる。
「……私も」
ようやく口から出た一言が震えていた。それを聞いてマサトがホッとしたように笑みを浮かべる。
マサトが私の手を握る。私も彼に笑みを返す。第二ボタンの冷たい感触を溶かしていくような彼の手のひらの温度に、私の心もじんわりと温かくなっていた。
#言い出せなかった「」
桃から生まれたとなれば、鬼を退治しに行くしかありません。それがこの世界の定説であり桃太郎に課せられた役割だからです。しかし、いまの桃太郎はそれどころではありません。なぜなら、その鬼と心が通じてしまったからです。
桃太郎が鬼ヶ島で鬼姫と出会ったのは、初めての鬼退治の日でした。火照ったような赤い顔に、頭から生えた二本のツノ、そして、笑った時に覗く八重歯に桃太郎は一目惚れしてしまいました。彼女の親は鬼族の長でしたが、彼が無類の登山好きだと知った桃太郎は、鬼ヶ島に行くたびに長と一緒に鬼山に登っては交流を深めました。
そうして、桃太郎は鬼退治を口実に何度も鬼ヶ島を訪れては、鬼姫との秘密の関係を深めていったのです。
桃太郎は、村人に「今日も鬼退治は順調に進んでいる」と報告していましたが、いつまでも成果が出なければ、村人も黙ってはいません。「こんな無能な桃太郎を、これ以上鬼ヶ島に行かせても意味がない」という声が出てきたころから桃太郎は焦りはじめます。
これは桃太郎にとっても大問題。鬼ヶ島に行けないということは、彼女に会えなくなるということを意味します。
そこで桃太郎はとある作戦を企てました。まずは犬、猿、雉をきび団子で釣り、仲間に引き入れます。犬は村内では正直者として最も信頼されていました。猿は巧みな話術で人を垂らし込むのが得意。雉は偵察のプロで情報操作が得意でした。
目的はもちろん、村中に桃太郎の英雄譚を広めて回らせるためです。
次に桃太郎は鬼ヶ島に出向き、鬼に協力を要請しました。犬の前で一芝居打ってもらい、桃太郎は鬼と戦っていると信じ込ませました。転んで頭をぶつけた鬼から、ツノの欠片を分けてもらい、猿に渡して村一番の目利きに証拠として届けさせます。猿の話術に、目利きはあることないこと全て信じてしまいました。そして、村の波止場に雉を配置し、島を出ようとする村人に、鬼ヶ島の恐ろしさを吹き込ませたのです。
最後に、桃太郎は鬼ヶ島に通い続ける口実をつくるために、鬼たちに農業を教え、産業を与えました。鬼は自給自足で生きられるようになり、村を襲わなくなりました。鬼山で採れる資源を使って、農作業用の道具や民芸品を作り、それを村に輸出することで、村人も大いに喜びました。
そうして、村も鬼ヶ島もともに潤い、世界は平和になったのでした。
それからしばらくして、桃太郎と鬼姫は村人や鬼たちに祝福されながら、めでたく結婚することとなりました。犬、猿、雉が結婚式の余興に披露した、桃太郎と鬼姫の秘密の恋のお話は、大いに式場を沸かせましたとさ。
めでたしめでたし。
#secret love
放課後になると、いつもこの図書館に来てくれるあなた。
あなたが初めてこの図書館を訪れたとき、私の心は大きく弾んだ。
そしてあの日から、いつもあなたのことばかり考えてしまうの。
あなたが私の存在に気付いてくれなくても、私はいつでもあなたを見てる。
でも、私はあなたに触れられない。あなたの温もりをこの肌で感じられない。
触れようとしてもすり抜けてしまう感覚。それがとてももどかしい。
あなたと一緒になれる日を思いながら、書き始めた小説。
今日、ようやくあなたはこの本を手に取ってくれた。
今この瞬間も、私はあなたを見ているわ。
ページをめくるたびに震えるあなたの指先。額に浮かぶ汗。
なんて愛しいの。すべてが、私だけの宝物。
このまま、あなたがこの本を読み進めて
最後のページをめくったとき、私が後ろから優しく抱きしめてあげる。
そしてあなたは、私と一緒にこの本の住人になるの。
ページをめくるのが怖い?
でも、あなたはもう好奇心を止められない。
最後のページに何が書かれているのか、気になってしょうがないはずよ。
ああ、あなたがこの状況を理解していくその過程がたまらない。
気味悪さと恐怖を感じながらも、あなたはもう私から目が離せなくなってる。
さあ、最後のページにすすみましょう。
あなたの震える指先にそっと手を添えて、一緒にページをめくる。
あなたがこちらの世界にやってくる。初めて感じるあなたの温もり。
もうあなたを離さない。これからはずっと一緒にいてあげる。
#ページをめくる
「はぁ、もう見つからないのかな……」
新学期初日だというのに、朝食はまったく手に付かなかった。
私はテーブルに頬杖をつきながら、小さな天使のキーホルダーを目の前で揺らす。
根元についた鈴のチリンという音があの夏祭りの記憶を呼び起こす。
一週間前の夏祭りは多くの人で賑わっていた。人混みの中を、浴衣に履きなれない下駄姿で歩いていた私は、ふとした拍子に地面に足を突っかけてバランスを崩してしまった。
その時、私の背中を、男の子の大きな腕が支えてくれた。
耳元でチリンと小さく鳴った鈴の音に合わせて、私の心臓もトクンと音を立てた。
「大丈夫?」
優しく声をかけてくれた彼に、どう答えたのかは思い出せない。彼と目が合った瞬間、耳の端まで熱くなってそれどころじゃなくなってたから。
「気をつけて」
そう言って立ち去る彼を、放心状態で見送った私が、ふと足元を見下ろすと、天使のキーホルダーが落ちていた。
名前も聞けなかったし、どこに住んでるかも分からない。私を支えていた腕の感触と温もりが、まだほんのりと残っているだけ。
何度か、あの公園にも行ってみたけど、祭りの終わった公園に彼の姿があるはずもなく……。
もうあれから一週間が経って、気づけば夏休みも昨日で終わり。時間が経てば経つほど、再会も難しくなるんだろうな……なんて思いながら、それでもこのキーホルダーを手放せないでいる。
なんだか自分の心が、紐に繋がれた風船のように、中心から離れたところでふわふわと浮いているような感じがする。
「ねえ、天使さん。あなたの持ち主はどこにいるのかしら」
私は目の前にぶら下がる天使に問いかける。
朝礼前の教室は賑やかだった。久しぶりに顔を合わせる友達とのおしゃべりに花が咲くなか、ガラガラ……と教室のドアが開いて担任が入ってくる。
その後ろをついてくる長身で整った顔立ちの男の子を見てハッとした。
転校生として紹介された彼は、紛れもなく、夏祭りで出会ったあの彼だった。
「えっ、運命……?」
心の声が思わず外に出てしまう。
私はとっさにポケットのキーホルダー取り出して、チラリと彼の方にかざして見せる。
それを見つけて、驚いたような表情で嬉しそうに笑う彼の顔が、こと更に愛おしくて、思わず笑みが溢れる。
天使さん。あなたの持ち主、やっと見つかったね。そして、ありがとう。
九月の風に揺られて、天使の鈴がチリンと音を立てる。こうして私たちの新学期が幕を開けたのだった。
#夏の忘れ物を探しに