結城斗永

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1/22/2026, 11:33:21 PM

1/21お題『特別な夜』への寄稿です。
本日のお題『タイムマシーン』へとお話はまた改めて投稿します。

4000字を超えてしまいました。
かなり長文ですが、最後まで読んでもらえたら嬉しいです。

※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
タイトル『何も起こらない特別な夜』

 片田舎のローカルコンビニ、ましてや深夜の滅多に客も来ないような時間に、人生の何たるかなんてことに思考を巡らすのは、単に虚しさが募るだけなのでよしておいたほうがいい。
 とはいえ、ワンオペ業務の合間のふとした手持ち無沙汰な時間になれば、考えなくてもいいことを考えてしまうのは仕方がないことだ。どこからともなく不安や期待のようなものが、煙のようにえんらえんらと立ち昇り、空っぽの頭の中でぐるぐると漂い始める。

 ここはなんとも平和だ。人もまばらで、外の世界とはまるで時間の流れが違う。最低限のコミュニケーションで何となく社会と繋がり、考えて動くことはあまり必要とせず、決められた時間に決められたことを、毎日同じように始めて終わらせればいい。ましてや三年も同じ環境にいれば、業務も手慣れたもので、今では、この淡々と過ぎていく時間が生活リズムそのものになっている。それはとても心地のいいリズムだ。
 
 レジカウンター越しに、冷蔵ケースのうえでぽっかりと浮かんだ満月のような壁掛け時計を眺める。午前零時の十分前。節目はただ静かに訪れようとしている。
 
 ――特別なこともないままに、またひとつ歳をとってしまうのか……。
 
 長い独り言が声にもならず、誰もいない店内の照明に溶けていった。スマートフォンがパンツの後ろポケットで数回震えたが、もはや画面を見る必要も感じない。
 バースデーソングの代わりにスピーカーから流れてくるのは、名前も知らないアイドルの歌声。もう数時間前から何度も繰り返し聴いた『夢はいつでもプライスレス』みたいな歌詞は、まるで観客を置き去りにしたパフォーマンスのように、モップがけを終えたばかりの床へと落ちていく。

 二十四歳とはなんとも中途半端な歳だ。四捨五入してもまだ二十歳の年。大人にもなりきれず、かと言って、もう子どもと呼ばれるのも憚られる歳の頃。
 一年という区切りを迎えるたび、疎ましさが胸に沈む。年齢の物差しは毎年確実に数字を重ねていくというのに、何ら劇的なことも起こらず、この内側には波風ひとつ立ちはしない。たとえ今この時に人生が終わったとしても、百の歳まで生きようとも、見えてる景色はほとんど変わらないのではとすら思えてくる。ぞぞぞと胸騒ぎがする。

 不意に入店音が鳴り、条件反射のように脊髄から昇ってきた声が、頭のなかの煙を蹴散らしたあとで口から出ていく。
「らっしゃっせー」
 それはもはや声というより意味が乗っただけの音だった。
 いつもならその届く先まで追うこともないのだが、今日は珍しく、自動ドアから冷気とともに入り込んできたその客人に、思わず目がいった。

 この場所にはあまりに不釣り合いな、仕立ての良いチャコールグレーのコートを羽織り、ポケットに左手を突っ込んだまま、右手では、白髪をのぞかせる布帛のソフトハットの縁を静かに撫でている。ピカピカに磨かれた革靴は、床のセラミックタイルをコツコツと小気味よく叩く。

 老紳士がまっすぐレジカウンターの前を通り過ぎると、コロンの香りが鼻先をかすめた。自然と背筋がぴんと伸びる。
 この片田舎にもあんな紳士がいるんだな、と感心してまもなく、いてもおかしくはないか、と自己完結をする。

「はて……」
 老紳士がふと何かを思い出したように立ち止まり、こちらを振り返る。
「私の欲しいものは何だったかな……?」
 老紳士は棚を巡る風でもなくこちらに歩み寄り、まるで私を古い友人か何かのように見つめたあとで、静かに口を開いた。
「最近は物忘れが酷くてまったく困ったものだ。よければ、思い出すまで少し話を聞いてもらえませんかな」
 老紳士は、喉の奥にコントラバスかバリトンサックスでも隠し持っているかのように、低く落ち着いた声をしていた。
 私は困惑しながらも、その重厚な空気に呑まれて「はぁ」と気の抜けた返事をした。
「ところで、君は何のために働いているのかね?」
 老紳士の唐突な問いに重なるように、窓の外で大型トラックのライトが通り過ぎた。この世界はあまりにも速い。こちらの脚力などお構いなしに、気づけば遥かに遠く先にいってしまう。私はそのまま世界から取り残されて、特にしたいことも夢もなく、ただ何となくこの場所に落ち着いているだけだ。
「……まあ、普通に、生活するため……というか」
 端折りすぎて短くなったにも関わらず、まったくまとまらない言葉。老紳士は、ほお、と短く息を吐き、視線を宙に漂わせた。
「なるほど、生活のためか。では、もしも砂漠にある砂の粒を数えるだけで、生活に充分な給料がもらえるとしたら、君はその仕事に魅力を感じるかね?」
 彼の言っている意味が分からなかったが、黙々と単調な作業を続けるのは嫌いではない。
「何も考えなくていいなら、それでもいいかもしれません」
「見た目以上に地味で厳しい仕事だ。砂の粒は風が吹けば飛ばされて、ついさっき数えた一粒がどれだったかなんて分からなくなってしまう。途方もない数だ。今数えている一粒は、昨日すでに数えている粒かもしれない。何とも不毛だとは思わないかね」
 老紳士の言わんとしていることは分かる。しかし、そんな不毛な生き方しかできない人間はどうしたらいいのか。自分のなかに目的を定めて、進む道を切り開いていく。何とも理想的な言葉だ。でも、私の今の経済状況では、先の見えない暗闇を歩けるほどの度胸は生まれない。
「そういえば、こんな話もある」
 老紳士はこちらの返事も待たずに次の『思いつき』を口にする。
「とある男が、世界中にあるすべての金を溶かして巨大なスプーンを作ったそうな。ところが、いざ食卓についても食べるものが何ひとつない。食材を買うための金はすべてスプーンのために使ってしまったのでね。スプーンがどれほど輝いていようが、喉を通るのは己の唾液だけ。皮肉なことだと思わないかね?」
 私は何と答えてよいやら見当もつかなかった。あまりに支離滅裂で脈略がない。
「あの……、さっきから何を……」
 私は堪らず尋ねた。一体彼は何を求めてやってきたのか。この一見脈絡のない四方山話が示すものが、この店の棚に並んでいるというのだろうか。

 この紳士は、いわゆるボケ老人というやつなのだろうか。しかし、声の輪郭とは似ても似つかぬ、力の漲った眼光は、湿り気を帯びた深い知性を湛えていた。
「私ね、あの時計が午前零時を指す頃には齢八十を迎えるんです」
 老紳士が壁掛け時計を指差した。分針は数字の十一を指している。まさか。この珍客との間に生じた妙な偶然に、私は胸の奥がじくじくとした。
「明日が誕生日ですか。私もです」
「それは奇遇ですな。お互い、何とも劇的な夜になりそうだ……」
 老紳士がふっと小さな笑いを漏らした。劇的な夜という意味が理解できないでいると、老紳士は視線を少しだけ天井の方に持ち上げて話を続けた。 
「誕生日を迎える瞬間というのは、螺旋階段をぐるりと登って、一段上の窓から外を眺めるような心地がしませんか。私はとても高いところに来てしまいましたから、見える景色もさほど変わりませんがね。私がまだあなたほどの頃は全く気づきもしませんでしたが、今になってみれば、その景色はあまりにも違いすぎる。そして、あの頃見ていた景色が無性に恋しくなるんです。あの頃に戻ったら、まず何をしようかとね」
 ちょうど店内に再び流れ始めたあの曲が、私の胸を軋ませる。――夢はいつでもプライスレス。
「若いころに経験するものの価値は測りきれないほどに尊い。それは、まるで大きな卵に夢を詰め込んでいく過程のようだ。都会の空気に溶け込んだ透明なカラスが、夜の闇の中で産み落とす虹色の卵。その中には、昨日までの夢と明日見る夢がブラックホールのように圧縮されて詰められていく。しかし、中身を見るためには卵を割らなきゃならない。とても覚悟のいることだ。もしも割らずに中身を見られる道具を天秤に乗せれば、天秤は己の測っているものの均衡も忘れて、単なるヤジロベエに成り下がってしまうでしょうな。いざ、卵を割ったとして、その中身をすべて掬うためには、どれほど大きなスプーンが必要なのでしょうね」
 老紳士の声が一層低い響きを持って店内の空気に混じっていく。心なしかLEDの照明も光を僅かに失っているようにすら感じる。
 老紳士はずっとコートのポケットに入っていた左手を静かに差し出した。ガサガサと乾いた摩擦音を立て、皺だらけのビニール袋がカウンターに姿を現す。ストロング缶が六本ほど入りそうな大きさ。紳士のきちんとした身なりとはあまりに対照的で、言いようのない不穏さを覚える。
 これは何の時間だ。壁の時計を見る。随分と長い時間が過ぎたように思えたが、短針も長針も、まだ僅かに真上を指してはいない。秒針がチクタクと誕生日前日のラストランを始めたところだった。

「そうこうしているうちに、もうこんな時間になってしまった。そろそろ家に帰ってパーティーの準備をしなければ。ようやく思い出しましたよ。ここに来た理由を――」
 老紳士が徐にコートの内ポケットへと手を差し入れ、穏やかで慈愛に満ちた笑みを浮かべた。まるで誕生日ケーキの蝋燭を吹き消す前の祈りのような、静かな決意が滲んでいた。
 店内のBGMはいつしかおすすめ商品の紹介に変わっていたが、内容がまったく耳に入ってこなかった。
「誕生日には金のスプーンで食事をしたくて、螺旋階段を降りてきたところまではよかったが、如何せん、『材料』が少しばかり足りなくてね……」
 引き抜かれた老紳士の手元には鈍い光を放つナイフが握られていた。刃先がカウンターに置かれていた皺だらけのビニールを指し示し、老紳士の静かで穏やかな低い声がその上に落ちる。
 パンツの後ろポケットがまた小さく震える。今になって画面を確認したくて仕方がないが、私の手はまるで石のように固まっている。
 老紳士が不敵に笑う。
「この袋に詰められるだけでいい。その箱に入った『スプーンの材料』を詰めていただけるかね……」 
 ナイフの刃先がすいと持ち上がり、私の硬直した体と無機質なレジの機械を行き来する。
 決して変わらないと思っていた私の視界が、一気に様相を変えて、ぐわんと大きく歪む。何も起こらないはずの夜が、一転、劇的な夜に変わろうとしていた。
 
 『何も起こらない特別な夜』―完―
 

1/20/2026, 10:18:39 PM

しばらく時が空いてしまいました。
お題×3を1作にまとめて投稿します。
#閉ざされた日記
#君に会いたくて
#海の底

※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
タイトル『拝啓、乙姫様』

拝啓、僕の乙姫様。

君が『少し深いところまで行ってくる』と潜水艇に乗り込んでから、三ヶ月が経とうとしています。時間の流れというものはあまりにも早くて残酷です。

僕はいま、この文章を誰に見せるためでもなくだらだらと綴っています。宛先のない手紙を書くように、僕の心に浮かぶ言葉をつぶやくように、ただただ指の動くまま筆を走らせています。
この文章が君の目に触れることがあるのか、いまの僕にはよくわかりません。あまりに気恥ずかしくて、もしかしたら永遠に本棚の奥に隠しておくのかもしれません。

ただ、今日のように寒い夜は、どうしても筆を執らずにはいられないのです。
君が見ている世界は、この夜空よりももっと深く、暗く、寒いのでしょうか。見上げた空が、君のいる場所とつながっていると知りながらも、そこに君との遠い距離を思わずにはいられません。

君が潜水士という過酷な職業を選んだその日から、僕はこうして君と離れることが多くなるのだろうと、覚悟をしていたつもりでした。しかし、それはあまりに時間的にも、物理的にも、とてもとても遠い距離でした。

重いボンベを背負い、冷たい水圧に身をゆだねながら、深い海の底に潜っていく君の姿を想像して、まるで竜宮城へ帰っていく乙姫様のように感じるときがあります。
君が帰ってくるその日に、僕は君よりも幾分か歳を重ねている気がしてなりません。
けれど、それも君が選んだ道であり、ようやく叶った夢なのですから、僕はその背中をきちんと見守ってあげるべきなのだと自らに言い聞かせる毎日です。

君がいなくなったこの部屋は、静かすぎて退屈です。もしかしたら君がいる深い海の方がまだ賑やかなのかもしれません。
君から話を聞くまで、太陽の光も届かない海の底というのは、外界から遮断された神域のような静寂なのだと思っていました。
でも、君はいつも言っていましたね。
『海の中は思ったよりたくさんの音に溢れている』と。
高い圧力に包まれた暗い海の底で、君はいま、どんな音を聴いているのでしょう。
たまに目を瞑って、君のいる世界を想像します。海の底でも風の音は聴こえるでしょうか。船舶が海の上を進む音も沈んでくるのでしょうか。クジラやイルカは君の話し相手になってくれているのでしょうか。
空を飛ぶカモメの鳴き声に思いを馳せる時があるでしょうか。

君と僕の間には、何万リットルという水の層が深く分厚く横たわっています。
それは物理的な厚み以上に、決して越えられない境界線のように感じられます。
僕はこうして陸の上で、何不自由なく呼吸し、温かいコーヒーを飲み、夜になれば静かに眠りにつく。
けれど君は深い海の底で、呼吸もボンベに頼らざるを得ず、昼が夜かも判別のつかない闇の中を漂うように泳いでいるのでしょう。
同じ星にいるはずなのに、君と僕のいる場所には、まったく違う物理法則がはたらいているように思えます。時間の流れすらも超越した全く異なる世界のように。

時々、良くない思考が僕の頭を支配します。
君がそのまま深海の静寂に魅せられて、地上の騒がしさを忘れてしまうのではないかと。君の夢が海水に圧縮されてしずんでいるようなあの場所で、君の心までが水の密度に溶けて、二度と浮上してこないのではないかと。
そんな心に留めておけない不安を、僕はこうして文字に起こすことで、心の外に追い出そうとしているのかもしれません。
君にはいつも、夢に触れていてほしいからこそ、僕はただただ自分のためにこうして言葉を綴るのです。

君に会いたい。
そんな短い言葉でさえ、この遠い距離と時間の壁を前にして、君に届くのかと不安に思えます。それは言葉というより、ただの祈りのようです。
君がいない部屋は、まるで空気が抜けた真空のようです。君が笑うときに細める目や、明るい声、手の温もりに、海の香りを秘めた髪の匂い。君がいない時間の中で、それら全てが、僕にとっては酸素そのものだったのだと思い返して、胸が苦しくなるときがあります。
でも同時に、僕がまだ、それらをありありと思い出せていることが、まだ救いのようにも思えます。

いま、再び夜空を見上げると、遠くの方で小さな星がわずかに瞬いたのが見えました。
この地球を取り囲む空気の層の向こう側に、はるか彼方まで広がる宇宙もまた、君のいる世界とよく似ているのかもしれませんね。
そう考えれば、果てしない宇宙より。底のある海の方が、まだ近くに感じられるような気もします。

君が戻ってくるまで、あと一ヶ月ほどでしょうか。調査の進捗によっては延長される可能性もあると聞きました。
もし、このノートが最後のページまで埋まってしまったら、僕はどうすればいいのでしょうか。新しいノートを買うべきか、それとも海へ向かってこの日記のような拙い想いを投げ捨てるべきか。
これを君が目にする日は来るのか分かりませんが、僕はいつも君のことを考えています。君のことを見守っています。
君が帰ってきた時には、両手で君のことを深く抱きしめて、君と離れていた時間を取り戻すように、この胸で君のすべてを噛みしめるでしょう。
どうか無事で帰ってきてください。
そしてまた、今よりも賑やかになったこの部屋で、二人向かい合って温かいコーヒーを飲みましょう。また君が見た世界の話を聞かせてください。それだけが僕の楽しみです。


敬具

まだ玉手箱を開けられずにいる浦島太郎より

追伸
僕の乙姫様。たとえ君が戻ってきた時に、僕がよぼよぼのお爺さんになっていたとしても、その時は笑わないでくださいね。

1/17/2026, 8:49:03 PM

※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
※暴力的な表現、流血表現を含みます。苦手な方はご注意ください。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
タイトル『木枯らしに疼く古傷』

 冬の冷たい風が街を抉(えぐ)っている。
 木の葉を吹き散らす風を、人は情緒的に木枯らしと呼ぶが、その実態はただの暴力だ。通り魔のように街を荒らし、剥き出しの肌を突き刺し、生きる者の体温を容赦なく削ぎ落としていく。

 俺は、その暴力の吹き溜まりのような路地裏で、辛うじてコンクリートの冷たい壁との境を保っていた。
 右脇腹の熱は、とうに失われ、じくじくとした鈍い痛みだけが俺の意識を繋ぎ止めるように響いている。
 コートの上から傷口を圧迫していた左手は、すでに自分のものとは思えないほど冷え、しばらく指の隙間から溢れていた鮮血は生気を捨て、不快な粘り気とともに腐った泥のような茶黒い塊へと変貌していた。まるで運命に抗う行為そのものが、冬の風に嘲笑われているようにさえ思えた。
 
 皮肉なものだ。まさか十年前につけられた古傷のすぐ脇に、奇しくもその血縁による傷を受けることになろうとは。

 ほんの数十分前、ここで俺の腹にナイフを突き立てたのは、まだ歳の頃は十六、七の少年だった。
 組織の連中が彼に吹き込んだ嘘は、若く軟弱な少年の脳を『復讐』という劇薬で焼き切るには十分だった。
『あんたが唆(そそのか)さなければ、親父は死なずに済んだんだ――』
 過程はどうあれ、結果は似たようなものだ。そこに関しては弁解の余地はない。
 彼が振りかざしたナイフの軌道は、稚拙で不安に満ちていた。恐らく刃先を人に向けたのさえ初めてだったのだろう。その目に滲む殺意は手の震えに呼応するように大きく揺れていた。
 彼は、俺の脇腹から溢れ出る赤黒いものを見るやいなや、絶叫と共にナイフを放り出し、暗がりの向こうへ逃げていった。

 新しくできた傷は、もはや古傷の場所を隠すように覆い被さり、まるで傷が互いに手を取り合うように、忘れようにも到底拭い去れない過去が疼き出す。
 今から十年前、俺がまだ二十歳そこそこで組織の構成員だった頃。兄貴分だった『兼元(かねもと)』という男と協力して、組織が事務所に隠していた裏金を密かに持ち出した。
 組織から逃れるため、人目につかない漁港の陰で兼元と待ち合わせた。身を切るような寒さの中、兼元は札束の詰まったドラムバッグを手に、俺から目線を逸らすように静かに言い放った。
『すまねぇ……。俺には、堅気の世界で育てなきゃいけないガキがいるんだ』
 兼元が俺に体重を預けるように寄りかかった直後、脇腹に熱が集まっていくのを感じた。そのまま蹴り飛ばされるように冬の冷たい海へと放り出された。
 俺は闇に沈みながら、自分の体温が海水の中に溶け出し、やがて冷徹な無に変わっていくのを感じていた。

 一命を取り留めたのは奇跡だった。
 俺は名前も戸籍も捨てて新たな人生を歩みだした。とはいえ、金もなければ行く当てもない。途方に暮れるなか、風の噂で兼元が交通事故に巻き込まれて命を落としたというニュースを目にした。
 組織が当時小学生だった息子の身柄を引き取ったと知ったのもその時だった。あいつが俺を裏切ってまで守ろうとした存在が、泥水の中に引きずり込まれんとしている。俺にはどうしようもなく我慢ならなかった。彼に会わなくては、と気づけば足が動いていた。

 それがまさかこんな結末になろうとは。
 組織が描いたシナリオは、低俗だが極めて論理的だ。俺という『過去の遺物』を裏切り者の息子という『未来の駒』に片付けさせる。これ以上のコストパフォーマンスはあるまい。

 ふと、乾いた足音が、路地の入口から聞こえてきた。先ほど俺を刺して逃げていった、兼元の息子。
「まだ、生きてたのかよ……」
 闇に消え入るような声で呟いた彼の目は、生きる屍でも見るように恐怖に慄いていた。
 なぜ戻ってきたのかは想像がつく。どうせ組織の奴らに念でも押されたのだろう。生死は確認したのか。証拠を残すな。すべてはお前がやったことだ、落とし前は自分でつけろと。
 少年は地面に落ちたままになっていたナイフを震える手で拾い上げた。構え直した刃先は宙を泳いでいる。
 俺にはもう動く力も残っていない。やるならやれ。どうせ俺には帰るところもない。
「俺をあいつのところに連れて行け」
 乾いた唇を無理やりに動かし、掠れる声を何とか絞り出す。少年の腕に力が入る。アスファルトを踏みしめる足が僅かに音を立てる。
「確実にやるなら、次はもっと心臓の近くを狙え……」
 俺は自らの胸に指を突き立てて、彼の行く先を示してやる。
「うあ゙ぁぁぁぁ――!!」
 彼の怯えるような叫び声が路地に響いた。もはやそこに彼自身の意思など感じられなかった。どうしようもない感情の行き場をただただ放り投げるような、自分以外の何かにすべての責任をなすりつけるような衝動が彼を動かしているように見えた。

 振り下ろされたナイフが、俺の胸まであと一寸のところでピタリと止まる。その瞬間、彼の手首はこれまで以上に大きく震え、やがて力が抜けたようにナイフを手放した。
 地面に乾いた金属音が響き、少年はまるで催眠でも解かれたように、その場にへたりこんだ。
「親父……、俺にはできないよ」
 鼻をすする泣き音を纏って闇に浮かぶのは、まだあどけない十六歳の輪郭だった。
 
 俺は尽きかけている力の限りを振り絞り、這いつくばるように彼の元へと身を寄せた。体を動かすたび、思い出したように傷口へと激痛が走り、乾いた塊を上塗りするように赤々とした鮮血が滲む。
 俺は少年の手を取り、自らの傷口に引き寄せた。彼の手は柔らかく温かかった。俺の体から流れ出る熱が少年の体温と混ざっていく。
 少年が涙や鼻水でぐしゃぐしゃになった赤子のような顔をその手に向けた。
「この熱を覚えておけ……」
 赤く染まっていく手に彼は何を見ているのかは分からない。だが、俺はどうしても伝えたかった。命を懸けてお前を守ろうとした人間がいたことを。そして、お前にはまだ輝かしい未来が待っていることを。
 俺の肺機能は限界を迎えようとしていた。一息吐くごとに血の混じった鉄の味が込み上げてくる。
「逃げろ……」
 それ以上の声は出なかった。
 彼は俺の手を振りほどくように立ち上がり、俺を刺した時と同じような顔で、闇の向こうへと走り去っていった。
 過去の裏切りだとか、恨みの連鎖だとか、そんなものはもうどうでもよかった。

 神様、どうかあいつを守り抜いてやってくれ――。

 木枯らしが路地を吹き抜けた。それは神の承諾か、それとも蔑むような笑い声か。
 やがて俺の肉体から溢れ出した熱は完全に失われ、コンクリートの壁との境が曖昧になる。視界が、ゆっくりと黒く塗り潰されていく。

 日が明ける頃、きっと俺は乾いて石化した黒いシミになっているに違いない。そこに俺がいた痕跡などはありはしない。コンクリートの路地の片隅で、ただの汚れとして、冬の街に溶けて消えるのだ。
 ただ、あの少年の行く先には明るい道が続いていることを願うばかりだ。もはや痛みすら感じなくなった俺の体には、兼元が残した古い傷の疼きだけがずっと熱を持ち続けていた。

 『木枯らしに疼く古傷』―完―

#木枯らし

1/17/2026, 3:20:13 AM

※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。

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タイトル『嗚呼、なんと美しきこの世界』

 ――神の瞳。そう名付けられた一枚の風景写真は、二十一世紀最大の奇跡と称えられた。
 周囲を取り囲む霧がかった深緑の森を、構図の中央に配された湖が鏡面のように映し出している。湖の縁では、一切の穢れを除かれたような一羽の白い鳥が、今にも飛び立とうと羽根を震わせる。木々の隙間から漏れ入る幾筋もの光が、まるで生命を迎え入れる神の加護のように降り注いでいる。

 私はギャラリーの壁に張り出されたその写真を前に、撮影当時の光景を思い返していた。
「なんとも美しい写真ですこと」
 隣に立つこのギャラリーのオーナーが、粘り気を含んだ甘い声で感嘆を漏らす。短く太い指という指に宝石を携え、赤い絨毯に金粉をちりばめたようなタイトなドレスが、もはや段もなさないほど膨れた腹に食い込むように貼り付いている。
「あなたのお声掛けがなければ、私はこの景色に辿り着くことすらなかったかもしれない。感謝していますよ」
 私は努めて優しく柔らかい口調で返した。この写真は他ならぬ彼女の依頼を受けて撮影したものだ。こうして世界的な名声を得ることができた裏には、彼女の社会的な影響力と資金援助の功績がなかったとは言えない。

 しかし、それ以上に私はこの写真を通じて、世界に対する価値観を大きく変えられた。この深い森で流した涙の理由を、私は未だに昇華できていない。

「神が地上に降り立つ瞬間を写真に収めてほしいの――」
 数年前、突然の連絡で駆けつけた私に、彼女はそう告げた。
「ヒト・カネ・モノは余るほどある。舞台もこちらで手配するわ。その他に必要なものがあれば何でもおっしゃって」
 首元にギラギラとした宝石をチラつかせながら、彼女は私を品定めするように甘い視線を上下させる。
 それまでもいくつかの風景写真を発表し、それなりに名は知られていたが、賞と名の付くものと無縁だった私は、二つ返事でその話に乗った。彼女は微笑みながら立ち上がり、私の背後に回ると、そっと女の手がおれの腕を弄った。
「あなたの腕を信じてるわ――」
 耳元で囁く彼女の荒い息に、私の呼吸が思わず止まる。
「ところで、今晩のご予定は?」
 女から漂う甘くねっとりとした香水の香りが、私の理性を徐々に侵していく。
 
 それから一週間後。提示された座標は、東南アジアの未開の密林の奥深く。地図上では空白地帯となっている場所だった。
 私の他に、あの女が寄越したエージェントと、機材や食料の類を運ぶためのアシスタントが数名ついてきた。
 現地の案内人は、英語も通じない部族の若者たちだった。埃と汗に汚れた薄っぺらいTシャツと短パンに、華奢な身体に不相応なライフルを携えている。

 向かおうとしているその場所は『神の瞳』と呼ばれ、現地人ですら滅多に足を踏み入れることのない神域だった。
 しかし、部族の村とはいえ、文明に両足を浸かっている以上、生活の困窮には逆らえなかった。あの女が、彼らの村に寄付した『援助』という名の賄賂が、無理やり案内を承諾させたのだ。

 道中は地獄だった。道なき道を鉈で切り開き、吸血虫に肌を焼かれながら進む。アシスタントたちは邪魔だという理由だけで森の木々にナイフを立て、静寂を愛する野生動物を銃声で追い散らした。
 エージェントが手元から離さないタブレットには、常にあの女の顔面が映し出され、この現状がリアルタイムに発信されていた。
『この先に待つ美しさが待ち遠しくてたまりませんわ』
 この森に漂う異様な居心地の悪さなどまるで無視するように、画面の向こう側に見える女は恍惚な表情で言い放つ。

 人の管理から解き放たれた森は、静かで落ち着いていた。だが、『神の瞳』は話に聞くような究極の浄土とはほど遠い景色だった。
 生い茂った木々に日の光は遮られ、湖の水は濁り、鳥たちは警戒して遠巻きに鳴いているだけだった。
『これでは満足できませんわ』
 画面の女が残念そうにつぶやく。
 そこから、森は『工事現場』へと変貌した。湖の濁りを取り除くための化学薬品が大量に投入され、浮かび上がってきた魚たちに、アシスタントらが無表情のまま網を伸ばす。水中の微生物は死滅し、水面は不気味なほどに透明な鏡面に変わった。
『森と湖だけというのも味気ないわね。動物のひとつでも置いてちょうだい』
 無慈悲な女の声にアシスタントが動く。
 森に踏み入った彼らは、どこからか薄汚れた鳥を捕らえてきて、羽の一部を切りとると、湖の周辺から逃げられないように、そのか細い足首をテグスで縛り、湖近くの岩にくくりつけた。
『白さが足りないわ』
 女の声で鳥の体には漂白液がかけられた。鳥たちは悲痛にその身を震わせて鳴いた。飛び立とうにも羽根をむしられた生命は、ただその場でもがく他なかった。
「流石にひどすぎる……」
 私は腹の中で煮えたぎる胃液が喉元までせり上がってくるのをこらえながら呟いた。
『あなたをここまで連れてきたのは誰だと思っているの? 私の求める美しさを形にするために、あなたはその腕を差し出せばいいの。私が欲しいのはあなたの技術。あなたに求める『美しさ』はその体だけで十分よ』
 不意の嘔吐きのあと、体中の水分が毛穴から吹き出すような気持ち悪い心地が全身を駆け巡る。
『私が欲しいのは振り注ぐ光よ。枝を切り落として……』
 無慈悲な女の声がして、悲しさを伴わない生理的な涙で滲む視界が目まぐるしく動き始める。チェーンソーのけたたましい音が森の静寂を切り裂き、穏やかだった大地に枝葉がぼとぼとと音を立てて落ちていく。
 枝先を失った木々の隙間からは光の筋が流れる。その瞬間、私は自らの美意識を呪った。差し込んだ光が透明な湖を照らし出し、映り込んだ深緑がざわざわと音を立てる。動物たちが悲鳴を上げ、逃げ惑う。飛べない鳥はテグスに足をちぎられそうな痛みに耐えながら、それでも空を見上げてもがいている。

 私は震える手でシャッターを切った。
 浄土とはほど遠いその光景は、切り取られた景色の中では嘘のように静かだった。
 嘔吐の残渣とも感動とも知れない涙が頬を伝う。タブレットから聞こえる女の恍惚な笑いが頭に響く。
 嗚呼、なんと美しきこの世界。死に抗おうと乱れ狂う生命の躍動。

 ギャラリーに流れる優雅なクラシックの調べが、虚構の美しさに彩りを添える。
 この写真が世に出た直後から、批評家たちはこぞって賞賛の言葉を並べた。環境保護団体は、この『美しさ』を守りたいと募金を始めたが、その裏にある破壊に触れる者はいなかった。
 聖域を売った部族の若者たちは、手にした大金で酒と麻薬を覚え、今や村は壊滅状態だと聞く。

 今、私の周りで、この写真を見ながら甘いため息をつく紳士淑女の皆様方には、まるで興味のないことなのだろう。もしかすれば敢えて目を逸らしているのかもしれない。
 人は今この瞬間も、模倣された自然に歓喜し、動物の死骸に舌鼓を打つ。深いところからは目を逸らしながら、自らの薄い皮膜のような美意識に酔いしれる。
 贅沢を謳歌する裏で、どれほどの犠牲が払われ、どれほどの破壊が行われているのか、そんなことは私の意識の及ばぬところと白を切って静かな顔をする。

 そうして、死にゆく森の断末魔を、欲望を満たすために捕らわれる動物たちを、冷気に焼かれた草花の沈黙を。それら人間が踏みにじったすべての痕跡を『美しい世界』として消費する。なんとも残酷だが、それが人類の築き上げてきた『美しさ』だとすれば、我々はその賜物を甘んじて許容する他ない。

「さすが私が見込んだ男。とても美しい写真をありがとう」
 豚の腸詰のような女の指が、私の腕にそっと触れた。香水の香りがまたも理性をかき乱す。かく言う私も、その毒された快楽に飲み込まれたうちの一人。
「――ええ、本当に美しい……」
 私は美容整形を重ねて不自然に張った彼女の厚い面の皮に優しく手を添えた。彼女が私の全身を舐め回すように見つめ、私は偽物の微笑みで返す。
「今夜も待ってるわ」
 そう言って去っていく彼女の醜い背中に、クラシックの調べが美しいベールをかける。
 美しいと感じたものに、どれだけの闇があるとしても、すでに放たれてしまった感情に嘘はつけない。
 嗚呼、なんと美しきこの世界。あまりに醜い美しさのせいで、どんな景色を目にしようとも、私の胸の鼓動は常に落ち着くことがない。

  『嗚呼、なんと美しきこの世界』―完―
 
#美しい

1/16/2026, 4:01:28 AM

『さようなら、おれの個性』

「お前さぁ、もっと個性出していかないと、埋もれるぜ。マジで」
 目の前の男は、自分のコーヒーカップを指差し、そう宣った。そのカップは、まるで熱帯雨林の奥地に生息する毒々しいキノコのような色彩と、何やら抽象的な、それでいてメッセージ性なんて感じられない奇怪な文様で飾られていた。奴はそれを『オレの個性』と称している。吐き気がした。いや、実際に胃液が逆流しかけるのを感じた。
​「埋もれて何が悪い」
 俺は答えた。俺のカップは、無機質で何の変哲もない、そして機械を通って大量生産されたの陶器製マグカップである。カップの底には、メイドインチャイナの印字が、誇らしげにひっそりと鎮座している。
 それがいい。それが全てだ。
 
 ​この男、加藤は俺の大学の同級生である。美学生の彼は、自らを「アーティスト」と呼称した。彼のファッションたるや、古着屋で引っ掻き集めたであろう、色褪せた布切れと、どう考えてもサイズが合わない革製品を、まるで「芸術」であるかのように身に纏っている。ゴミ捨て場から抜け出してきた浮浪者のようだと、俺は心の中で毒づくが、顔には出さない。

 ​加藤は眉間に皺を寄せ、解せない表情を浮かべた。
「つまり『その他大勢』になるってことだろ。そんなん生きてる意味あるのか?」
 生きてる意味、だと?
 俺はまたもや、胃の腑の底から込み上げる吐き気をこらえた。『生きてる意味』。その言葉を口にするたびに、どこかでチリンチリンと、風鈴のように軽い、しかし不吉な音が鳴る。ああ、奴らはすぐにそうやって『意味』を求める。意味、意義、存在証明。まるで、自分の存在が、誰かの承認無しには成立しないとでも言いたげな、まるで赤子のような甘えん坊である。
​「その他大勢の、何が悪い」
 俺は再度、静かに言い放った。この言葉は、奴らの心臓に、鋭利な刃物のように突き刺さるはずだ。奴らは、『その他大勢』になることを極度に恐れている。いや、嫌悪しているのだ。まるで、自分が感染症にでも罹患したかのように、『その他大勢』から距離を取りたがる。

 しかし、考えてもみろ。この世界を維持しているのは誰だ。『その他大勢』ではないか。特殊な才能を持った、極々一部の『特別な人間』が、この社会の歯車を回していると思っているのか。そんなことは断じてない。
 ​俺たちの日常を支えているのは、決まって『その他大勢』である。コンビニの店員、スーパーのレジ打ち、電車の運転手、清掃業者、そして、この何の変哲もないマグカップの製造ラインに携わる者たちだ。
 彼らこそが、この世界を円滑に回している。彼らは、個性の尖り具合で給料が決まるわけではない。決められた手順を、忠実に、寸分狂わず実行することで、報酬を得ている。そして、社会は回る。
 
 ​加藤は頭をガシガシと掻きむしった。
「いや、でも俺らはクリエイティブな人間じゃん? だから、既存の枠に囚われちゃいけないっていうか……」
 俺『ら』とはなんだ。一緒にするな。クリエイティブ、クリエイティブ、くりえいてぃぶ。そんな言葉はもう聞きたくない。
​「既存の枠が、どれほどの努力と、どれほどの時間、そしてどれほどの才能によって築き上げられたか、お前は知っているのか」
 俺はコーヒーを一口啜った。舌に広がるのは、万人受けするように調整された、深煎り豆の苦味と、ほんのりとした甘み。
 これがいい。これが正解だ。
「それはある種の『最適解』だ。長い年月をかけて、試行錯誤と失敗の末にようやく辿り着いた、最も効率的で、最も安定したシステムのことだ。それを『枠に囚われるな』などという安易な言葉で否定するとは、あまりにも傲慢ではないか」
 ​俺は続けた。
「個性だなんだと騒ぐ奴に限って、その実、薄っぺらい。まるで穴の開いたポリバケツさ。どれだけ美しい色水を注ごうとも、すぐに地面に流れ出て、痕跡すら残らない。本当に大切なのは、バケツそのものの頑丈さだ。形がどうであれ、水をしっかりと蓄えられる、実用性と耐久性。それが、俺たちが目指すべき『本質』ではないのか」
 ​ポカンとした加藤の顔には、ただただ「困惑」という二文字が張り付いていた。
「お前、それ本気で言ってんの?」
 その声は、震えていた。俺の言葉が、彼のアイデンティティの根幹を揺るがしている。だが、そんなのは俺の知ったことではない。
​「俺は、量産型であることに、この上ない誇りを感じている。量産型であるということは、それだけ多くの人間のニーズを満たし、それだけ多くの人間に受け入れられた、普遍的な価値を持っているということだからだ。
お前のその『個性』とやらで、この社会の何が救える? この社会を回しているのは、奇抜な発想でも、意味不明な芸術作品でもない。誰でもできることを、淡々とひたすらにこなし続ける『その他大勢』の地道な労働力だ」
 俺は一呼吸置いて、彼の目を見据えた。
「お前のその、誰にも理解されない『尖った個性』とやらを、一度、この公衆便所の便器に突っ込んで、泡だらけにして洗い流してみろ。きっと、その方がよっぽど、世のため人のためになるだろう」
 ​加藤の顔から、徐々に血の気が失せていく。彼は手元にある『オレの個性』を、まるで汚物でも見るかのように、恐る恐る見つめている。彼の中の偶像が、今、ガラガラと音を立てて崩れ去っていくのが見えた。

 ​俺は、量産品のカップに残ったコーヒーを飲み干して立ち上がり、加藤に背を向けた。
「俺は量産型として、この社会のどこかに埋もれて静かに生きていく。それが、俺の『個性』というものだ」
 カフェの自動ドアが開き、外の喧騒が、ほんの一瞬、俺の耳に飛び込んできた。
 俺は、その他大勢の群衆の中に、何の躊躇もなく、溶け込んでいった。
 さようなら、俺の個性。そして、ようこそ、どこにでもある、俺の生き様。

   『さようなら、おれの個性』 ―完―

#この世界は

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