結城斗永

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1/30/2026, 10:25:24 AM

このお話は1/24から投稿している連続小説『過ぎ去った未来』の最終話です。

※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
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『過ぎ去った未来』最終話

 一方、遠い未来に飛ばされた八十歳の坂部真一は、公園の隅でダンボールの壁に身を寄せながら、苦労してつかんだ栄光からの急激な転落を嘆いていた。それまでの安堵が一気に闇に葬り去られた絶望は計り知れなかった。

 薄汚れた段ボールの隙間から入り込む冬の風は、老いた坂部の皮膚を容赦なく切り刻む。喉の奥からはヒューヒューと枯れた音が漏れ、指先はとっくに感覚を失っていた。

 坂部は今こうして寒さに震えている己の原因が、三十年前に我が身と入れ替わった『二十歳の坂部』の成れの果てであることは分かっていた。
 二十歳の何も知らない若者が、いきなり責任の重圧の渦に放り込まれれば、どうなるのかは想像に難くない。

 ――今までこの肉体に入っていた『坂部の意識』は今ごろどうしているのだろうか。
 坂部は虚空の向こうに、もう一つの人生を夢想した。きっと彼は今ごろ、私の肉体に入り込んでビルの上から世界を見渡しているのだろう。しかし、それは世界規模の重圧。想像以上に過酷な運命だと、容易く理解できた。
 坂部は、もう一人の坂部が背負ってしまった代償を他人事だとは思えなかった。どんなに未来を変えようとも、過去の私は肉体を捨てたわけではなかった。いつまで経っても坂部は坂部だった。
 
 ――このまま項垂れていても仕方がない。
 坂部は思うように動かない八十歳の老体に力を入れ、ゆっくりと立ち上がる。 その力の源は、これまでの過去への懺悔なのか、いまだ消えない未来への希望なのか。

 三十年という歳月は坂部の思考が追いつかないほどの技術革新と文化の変容をもたらしていた。それでも、坂部はその身一つでできること模索した。幸い、彼には一つの企業を世界規模まで築き上げた経験と胆力があった。
 周辺のホームレス仲間と情報交換をしながら、より効果的な資源回収のルートを構築し、コツコツと地道に小銭を稼いでいった。仲間たちともに独自のネットワークを構築し、人工知能では手の廻らない『隙間』から、新たな需要と供給を生み出していく。そして、坂部はこの時代で、再び栄光をつかみ始めていた。

 坂部にはひとつの心残りがあった。かつて、自身が過去に戻った際、残してきた人々のことだ。責任を押し付けるかたちで逃げ出した自分の姿がひどく情けなく思えた。 先の短い人生。坂部がいなくなったあと、ここに残される人々が路頭に迷わないよう、システムを可能な限り簡素化し、仲間たちにも基本的なフローとプロセスを共有した。

 頭に浮かぶのはもう一人の坂部の存在だった。これっぽっちのことで、過去においてきた未来への責任を清算できたとは思わない。しかし、それでもやらなければ、と思った。

 坂部は公園のベンチに腰掛け、ぼんやりと世界を眺める。
 視界の端で、幸せそうな親子連れが足早に通り過ぎていった。父親と母親が子どもの手を引きながら歩いている。そんな何気ない光景でさえも、今の坂部には眩しすぎた。
 ――あなた……。
 ――お父さん……。
 思いがけず坂部の脳裏に二つの声が響いた。恵子と詩織の声であった。坂部の胸は激しく波打った。今までその存在を忘れていたことに、ひどく動揺して涙が溢れ出た。

 坂部には帰る家があった。愛する妻と娘がいた。それこそが、仕事に人生を賭けてきた一番の理由だったはずなのに、そのすべてを忘れていた。
『肉体は時に本来そこにあった意識の残留でもってあなたを飲み込もうとします。無意識ほど怖いものはございません』
 店主の言葉が頭の中を金槌で打つように響いてくる。坂部の意識は、いつの間にか、あの時代の坂部の肉体に飲み込まれていたのだ。
 ――『若さ』なんていらない。成功や富なんかよりももっと大切なものに囲まれていた、あの頃に戻りたい。
 坂部は、震える手を合わせ、心の底から叫ぶように願った。

 その時、坂部の目の前にあの腰の曲がった『たいむましぃん屋』の店主が姿を現した。
「本当にいいのですか?」
 店主は相変わらず不敵な笑みを浮かべながら、穏やかな口調で続ける。
「これほどまでの絶望を経験しながら、この時代でもあなたは栄光を築き上げた。過去の蓄積は確実にあなたを強くしている。このままここに残って余生を過ごすのも悪くはないと思いますが……」
 坂部は店主の言葉をしっかりと受け止めながらも、きっぱりと首を横に振る。
「いや、いいんだ。この世界に思い残すことはない。それよりも……」坂部は空を見上げる。「恵子と詩織のいる世界こそが、私のすべてだ」

 坂部の脳裏に我が家のリビングの光景が蘇る。恵子が作る料理の香りがリビングに漂い、詩織はソファで音楽を聴きながらファッション誌を読み耽る。そんな何気ない光景が、記憶の遥か底の方でくすぶっていた。

「では、お望みどおりに……」
 店主は懐から懐中時計を取り出す。
 突如吹き付けた木枯らしが落ち葉を巻き上げ、思わず坂部は目を閉じた。瞼の裏で店主が手にしていた懐中時計が左右に揺れる。脳みそが共振するような感覚。意識が遠のいていく。

   ❖

 意識を取り戻した坂部が目にしたのは、繁華街を彩るネオン看板だった。夜の闇の中で店先のウインドウが坂部の容姿を映し出す。老けてもいないが、若くもない。五十歳の坂部の姿がそこにはあった。

 手の中でスマートフォンのバイブが震えた。画面に『【重要】明日の会議について』の通知。ポケットの名刺に『営業部長』の文字を見て、社長や部下の顔が次々と浮かんだ。
「戻ってきた……」
 坂部の視界が潤む。喉の奥が熱くなり、嗚咽が湧いて出る。
「良かった……。本当に良かった……」
 坂部はワイシャツの袖で涙を拭った。

 坂部は家路を急いだ。駅から自宅までの道は、見るものすべてが懐かしい景色のはずなのに、まるで気にならないほどに通り過ぎていく。坂部はゴールテープを目指すマラソンランナーのように、力の限りを尽くして走った。

 我が家を目にして、初めて懐かしいと感じた。鍵を開け、玄関に駆け込む。
 絶え絶えの息の中、「ただいま」と出した声は、どこまで声としての形を留めていたかもわからないほどに震えていた。
「おかえりなさい。お疲れ様」
 恵子がエプロン姿でリビングから顔を出した。その姿を見た瞬間、坂部は涙を流しながら思わず彼女を抱きしめた。
「会いたかった……」
「びっくりした、急にどうしたのよ?」
 恵子は驚きながらも、笑顔で坂部を包み込んだ。

「どうしたの?」
 娘の詩織が顔を出す。泣いている坂部を見て、「なんか今日のお父さん、気持ち悪いんだけど……」と毒づいた。そんな反抗期の娘の成長すら、今の坂部には愛おしかった。

 夕食のテーブルにつき、温かい味噌汁を啜る。家族の何気ない会話が弾む。愛する人たちの笑顔に満ちた空間。これ以上の幸せが、この世にあるだろうか。

 翌朝、坂部は以前と同じように会社へ向かった。出社するなり、社長から呼び出しを食らう。
「坂部君、例のプロジェクトだがね――」
 すでに無理難題の匂いがした。きっとまた部下たちの理解を得なければ進められない案件になる。しかし、坂部は深々と頭を下げ、晴れやかな顔で答えた。
「承知しました。全力で当たります」
 この泥臭い『責任』が、自分という人間を社会に繋ぎ止めている鎖であり、同時に自分を形作る誇りなのだと、坂部は痛感していた。

 それから、長い年月が流れた。
 八十歳になった坂部は、公園のベンチに座って冬の柔らかな日差しを浴びていた。

 隣には、同じように歳を重ね、白髪の混じった髪を上品にまとめた恵子が座っている。
「お父さん、そろそろ行きましょうか。孫たちが待ってるわ」
「ああ、そうだな」
 坂部は恵子に支えられながら、杖を片手に立ち上がる。少し不自由になった足取りで向かう先には、四十六歳になった詩織が孫を連れて待っている。
「ほら、じぃじとばぁばに挨拶して」
 溌剌とした声を上げて駆け寄ってくる孫を膝で受け止め抱きしめる。腕の中に感じる確かな命の重み。

 ――結局、何も変える必要はなかったんだな。
 坂部はふと『たいむましぃん屋』のことを思い出して、自嘲の笑みをこぼす。

 坂部は空を見上げた。青い空に、雲がゆっくりと流れている。
 坂部は、もう一人の自分が二十歳のあの日に戻れていることを祈っていた。そしてその三十年が自分にとってどれほど大事な過去だったかを改めて噛みしめる。『過去』とは執着するものではなく、今を生きるための糧となるものだ。そして、やがて来る『未来』というのは、一日一日の『今』を積み重ねた先で、自分だけが見ることのできる絶景なのだ。

 坂部は隣に立つ恵子の手をそっと握りしめた。 人生はまだ動いている。残り少ない『今』という瞬間を燃料にして、目の前にいる娘や孫たちのための道を作っていく。それが私がいま目指すべき『未来』という道だ。

                     『過ぎ去った未来』―完―

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
最後まで読んでいただきありがとうございました🙇
 

1/29/2026, 10:13:01 AM

このお話は1/24から投稿している連続小説『過ぎ去った未来』の第六話です。

※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
掌編小説『過ぎ去った未来』第六話

 坂部はパチンコ屋の自動ドアを出ながら大きくため息をついた。
 まるで遠い昔の過ちを忘れ去ろうとでもするように、先ほどより軽くなった財布をスラックスのポケットにねじ込んだ。
 とぼとぼと夕暮れの街を歩きながら途方に暮れる。

 その後、適当に選んだ居酒屋で閉店まで飲み明かし、ネカフェという簡易ホテルのようなところで一夜を過ごす。
 そんな自堕落を絵に描いたような生活はいつしか坂部のデフォルトになっていった。

 二十年、いや、坂部の肉体の中で社会性というダムによって堰き止められていたはずの五十年分の怠惰な性分が、その決壊によって、一気に放出されていく。
 坂部はただ、人間の本能として当たり前のように溢れ出る欲望に従うだけだった。街ゆく他人にとって、坂部の人生など路傍の砂のようなもの。彼を止める者もいなければ、諭す者もない。坂部が自らの行いに違和感を抱く余地などなかった。

 当然、財布はあっという間に空になり、クレカという名の魔法のカードもいつしか止まった。それでも腹は減る。
 生きるために必要な原資は、川辺りの砂のように流れていく。

 そんなある日、坂部は制服姿の警官に呼び止められた。
「ちょっとお話よろしいですか?」
 身元を確認できるものはあるかと警官に尋ねられ、坂部は財布に入っていた免許証を差し出した。警官が免許の写真と坂部の顔を見比べて、やはりそうですか、と呆れたようなほっとしたような表情を浮かべた。
「実はね、坂部景子さんから、あなたの捜索願が出てまして……」
 坂部は、警官の言い方から、恵子という女性がどうやら自分の配偶者だろうと悟った。脳裏に浮かぶのは、あの朝、坂部が目覚めたときに部屋にいた女性だった。

「坂部さん、自宅まではおひとりで帰れます?」
 警官は、こちらも無理に連れて行くことはできないんでね、と眉をハの字に歪めながら口角を上げ、精一杯の慈悲を表現して見せる。
「は、はい……。大丈夫です」
 坂部の答えに、警官は安堵を見せ、奥様にはこちらから連絡しておきます、と添えた。

 とぼとぼと家路を歩きながら、坂部は良からぬ安堵に小さく息を吐いた。ようやく暖かい家と食事にありつける。それだけで生きた心地がした。

 家にたどり着いた時には、すでに日が落ちていた。玄関を開けると、奥の部屋からドタドタと足音がして、次の瞬間にドアが開いた。あの朝の女性が心配そうな顔で駆け寄ってくる。
「あなた、どこ行ってたのよ!」
 恵子が怒りとも安堵とも取れない声を張り上げる。乱れた服装に伸びた髭の坂部を目にして、わずかに動揺を浮かべる。
「ずっと帰ってこなくて心配したんだから」
 恵子の目には涙が浮かんでいた。まだ二度しか会っていないその女性の涙に、なぜか坂部の胸が痛む。

 奥の部屋から高校生くらいの少女が顔を出す。
「帰ってきたんだ……」
 おそらく娘であろう少女は、軽蔑にも似た冷たい表情でそれだけ告げると、振り返って部屋に戻ってしまった。
「ちょっと待ちなさい、詩織」
 恵子が彼女の背を追うように声を荒げ、そこで初めて娘の名を知った。
 坂部は複雑な心地のまま、「突然街なかで記憶を失って、しばらく路頭に迷っていた」と恵子に告げた。自分が遠い過去から突然飛ばされたことは口に出さず、家族の顔は忘れたことはなかった、と嘘をついた。

 しかし、そんな嘘はすぐにばれる。何せほぼ初めて会う家族だ。馴れ初めも分からなければ、過去の記憶の蓄積もない。家族であると言う前提がなければ、恵子は単なる年増の女で、詩織はわがままなガキにしか見えない。
 坂部は日を重ねるごとに湧き立つ苛立ちを、生きるため、と必死に抑えた。

 ある日、恵子が「本当にあなた、真一なのよね」と不安げに漏らした。
「ああ、そうだよ」
 嘘ではない。

 時が経つにつれ、恵子と詩織の中にも軽蔑と不信感が膨れ上がっていくように見えた。暖かかったはずの家は、日に日に冷たさを増していった。

 そして、とうとう爆弾は爆発した。給与の支払停止が引金だった。坂部自身も気づいていなかったが、当然ながら、とうに会社を解雇されていた。
 その瞬間から、家族の反応は手のひらを返したように軽蔑の眼差しを向けた。五十を過ぎた無職の浪費男は、一家の大黒柱として機能をなさない単なる疫病神でしかない。

「わたし、働いてあなたを支えるのなんて無理ですからね」
 ある日、恵子は坂部に離婚届を突きつけ、娘と一緒に出ていった。借家からは退去を余儀なくされ、坂部に残ったのは恵子への慰謝料と多額の借金。それでもなお、パチンコ屋を彩る電飾を見て手が震える。

 それから、坂部は老いていく体でも何とかこなせる日雇いの仕事を転々とした。しかし、収入はパチンコと酒に消え、寝床はほとんど公園か、冷たいコンクリートの路地裏だった。

 十年、二十年と時が経った。
 出生率は延び悩む一方で、寿命は歳を追うごとに延び続けた。
 超高齢社会にあって、坂部は八十歳になっても、まだ百歳以上の高齢者を支えるための労働力あることを求められた。

 人工知能と機械工学の発展により、老齢でも働ける仕事は増えていった。一方で、坂部のような老齢の労働者に充てがわれるのは単純労働が大半だった。外国人労働者同様に、安い労働力として、その大半を税金として掻っ攫われながら、体の動く限り働き続けるしかなかった。

 そんなある日、仕事の途中で足首をひねったのが、坂部の運の尽きだった。この時代の老人はパソコンやらエーアイとやらを使いこなせて当たり前とされた。当然、坂部はそのラインにも立つことはできなかった。

 そうして仕事にもあり就けなくなった坂部は、ただ公園の隅で風をしのぎながら、配給を待つことでしか命を繋ぐことはできなくなっていた。

 とうとう坂部は、途方に暮れ、ふらふらと街を彷徨い歩いた。気づけば、繁華街の裏路地にうずくまるように座っていた。冷たいコンクリートに背を預けながら坂部は嘆いた。
 ――すべてはあのおかしな出来事のせいだ。
 急に三十年を飛び越して、経験も知識もないままに社会の中に放り出された、二十歳のあの日。
 もちろんそのまま自堕落な生活を送り続けた自分に悪いところがなかったとは言わない。しかし、あの出来事がなければ、今の自分はもう少しまともに生きられていたのではないか。行き場のない感情が、坂部の胸を突き刺していく。

 その時、視界の向こうにぼんやりと暖色の光が浮かんでいるのに気がついた。それは神の御光か、はたまた地獄の灯火か。
 坂部は導かれるように立ち上がり、覚束ない脚を何度も地面に引っ掛けながら、ようやく光の元へと歩み寄った。

 灯りの正体はレンガ造りの建物にかかるランタンの灯りだった。
『たいむましぃん屋』
 坂部は躊躇することなく木製の戸を引いた。
「いらっしゃいませ――」骨董品が並ぶ店の中で、店主らしき腰の曲がった小柄な男が坂部を出迎える。「あなたの意識だけを三十年前に転送して差し上げます」
 店主の言葉が、坂部に朧気ながら『失われた三十年』を想起させた。二十歳からの空白であり、五十歳からの怠惰である。

 いずれの三十年も、今の坂部にとっては負の遺産でしかなかった。空白の三十年はどうにも取り戻すことはできない。しかし、せめて五十歳の頃に戻れれば、これまでの怠惰さえ改めることができれば、そんな思いが先走った。

「行き着く先は……天国か、地獄か?」
 坂部は尋ねた。
「それは、あなた次第でございます」
 店主はニタリと笑みを浮かべ、低くしゃがれた声で答えた。
 坂部は迷わなかった。迷う余裕さえなかったというべきか。ここにいても、老いて、死んでいくだけだ。
「戻してくれ。私を三十年前のあの日に……」
 坂部は決心の言葉を口にし、店主は、お望み通りに、と静かに頷いた。
 店主は三つの重要事項を告げ、懐中時計を取り出す。坂部は決意に満ちた表情で店主の言葉を聞き、意識を時計の針に集中する。

 坂部は朦朧とする意識のなかで、自分に言い聞かせた。怠惰に打ち勝て。己を律しろ。生き方を正していけば、次の人生はきっと今よりもまともになる。
 だが、彼はまだ知らない。行き着く未来には、これまで以上に大きな重圧と責任が待ち受けていることを。

 何度でも言う。この物語は常に過去に執着し、未来への選択を間違え続ける男の話である。少なくとも、この時点での坂部にとっては――。

 この先、彼がどのように生きて、死んでいくのか。その行く末は、彼自身の今後の行動にかかっている。なぜなら人生の道程は、彼が降り立つ『過去』という名の『今』で、一歩を踏み出すごとに組み上がっていく足場そのものなのだから。

   『過ぎ去った未来』最終話に続く

1/28/2026, 10:12:25 AM

このお話は1/24から投稿している連続小説『過ぎ去った未来』の第五話です。

※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
掌編小説『過ぎ去った未来』第五話

 その日、二十歳の坂部真一は、大学の授業をサボって部屋でひとり何もしない時間を過ごしていた。
 空虚で無駄な時間の使い方だと分かってはいたが、特別やりたいこともない。であれば、重い腰を上げて簡単なバイトでもして小銭を稼ごうかと思い立ってみるが、結局面倒な気持ちに押し負けて、散らかった部屋の中でゴロゴロしているうちに日が暮れる。
 これまでだって何度かバイトというものをしたことがあったが、どれも長続きはせず、数日顔を出したほどでバックレるように辞める日々が続いていた。

 このまま何もせず、ただぼうっとして、気づいたら大人になってそれなりにいい暮らしをしていないだろうか。
 坂部が虚空を眺めながらそんな妄想に浸っていると、まるでブラウン管テレビのスイッチが切れるときのように、突然視界が真っ暗になった。

   ❖

 次の瞬間、坂部はネオンの光る夜の繁華街に一人立っていた。
 それまでの部屋着はどこへやら。サイズの合わない縒れたスーツに身を包み、視界の下で膨れた腹がワイシャツのボタンを押し出している。全く理解ができなかった。

 何か手がかりを探してズボンのポケットを弄ると、アルミケースのなかに『坂部真一』と書かれた名刺を見つけた。聞いたことのない会社名と営業部長という肩書きが、自分の名前の上に乗っかっている。いつの間にかとても長い時間が経過していることをうっすらと察知した。
 それを決定づけたのは、ズボンの後ろポケットに入っていたプラスチックの板にガラスが付いたようなカメラだった。

 ピロンと不思議な音がして、手元のガラス面がぼんやりと光を宿す。坂部は思わず手を滑らせ、奇妙な板はアスファルトのうえで小さく跳ねた。
 坂部は恐る恐る板を拾い上げ、光の出処を覗き込む。そこには封筒を模したイラストの横に、『【重要】明日の会議について』という短い文章が記されている。自然と指が文字をなぞり、画面がするると動き始める。

 何がどうなっているのか、坂部には全く理解ができなかったが、何かの雑誌で特集されていた『未来の技術』の記事を思い出した。未来では一人がひとつ、電話とパソコンを一緒にしたようなものを持っていて、世界中のすべてのことをその機械の中で見ることができるようになるのだと。
 どうやら本当に時間を超えて、未来に来てしまったらしい。坂部は恐怖と不安を感じながらも、その奥から沸き上がる喜びに笑みを漏らした。

 自分がどこに住んでいるのかは分からなかったが、帰巣本能と言うやつなのか、朝日が昇るまでには何とか家にたどり着くことができた。同じような家が立ち並ぶ住宅展示場のような街の中で、これが自分の家だという妙な確信があった。

 玄関には鍵がかかっていたが、ポケットの中に入っていた鍵ですんなりと開き、中に入るとなぜか二階の廊下の先に自分の部屋があることが分かった。
 その日は布団に倒れ込むように眠り込んでしまった。いつもより柔らかい布団に体を包まれながら、雑誌やドラマなどで見かけて憧れていた理想の家庭像のなかに自分がいるような心地がした。

 翌朝、けたたましいメロディと、あなた、という女性の声で目を覚ます。
「昨日は随分と遅くまで飲んでたのね」
 目を開けると、そこにはジーンズに身丈より少し大きめに見えるTシャツを来た女性が立っていた。口調は割と穏やかだが、どこかこちらを心配しているような雰囲気が漂った。
「今日は仕事行かなくていいの?」
 女性は、坂部が昨晩ベッドに放り投げたままにしていた未来の電話を指差しながら告げる。電話は震えながら、けたたましい音を鳴らしている。画面に表示された『社長』の文字に嫌な予感がする。

 坂部が画面に描かれた受話器のマークに触れた途端、画面の向こうから男性の声が響いた。
『大丈夫か、君らしくもない』
 少し想像すれば、それが遅刻への戒めであるとすぐに分かった。坂部は心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、どう応えてよいやら分からず、とりあえず謝罪を口にした。
「あっ、すいません、ちょっと寝坊しちゃって……」
『どうした、何があった。ひとまずすぐに来てくれ』
 矢継ぎ早に飛び出す言葉に追いつけないまま、ちょうど昨晩から着ていたスーツで、そのまま会社へ向かった。

 名刺に書かれた住所の地名からなんとなく位置は分かるものの、駅の仕組みや電車の乗り継ぎもよく分からず、坂部は見たこともないような高いビルの並ぶ都会の真ん中でひとり途方に暮れた。

 電話が震える。発信元は再び社長からだった。
『何をしてるんだ、まさかまだ家にいるのか?』
「いや、なんていうか、その……道に迷っちゃって」
 口から出る言葉には迷いしかないが、そんな不安を電話の声がますます煽る。
『ふざけてるのか、もういい。話は明日だ』
 ――ああ、面倒くさい。
 心の中で思ったはずの言葉は自然と声に漏れていたようだ。
『今、なんと?』
 社長の声には動揺すら見えた。坂部は深い溜息をついた。仕方ないだろう、突然こんなところに飛ばされ、北も南も判別のつかないないところで、何をどうしてよいやら分からないんだ。
 こいつを持っていたらどこまでも追いかけられる。坂部は怖くなって手元の電話をその場に放り投げて逃げた。

 辺りの景色は何一つ見覚えがなかったが、とりあえず目の前の道をひたすら走った。脂肪の乗った体は想像以上に重たかった。腕や足を上げようにも、まるで水の入ったポリタンクを持ち上げるような重労働に感じた。

 立ち止まった途端に汗が拭き出してくる。ふと見慣れた牛丼チェーンの名前が目に入り、腹が鳴った。
 考えたら朝から何も食べてない。
 空腹に耐えられず、店に入る。何やら見慣れない薄っぺらいテレビのようなものに牛丼の画像が映っていて、画面が言うとおりに触っていたら店員が牛丼を持ってきた。
 牛丼の大盛りに、サラダとみそ汁のセットをつけて、唐揚げもひとつ追加した。はて、大盛りとはこんな量だったか、もっとこんもり肉が盛られていた気もするが、と思いながら、いつものように腹にかき込んでいく。

 しかし、半分ほど食べたところで胃が苦しくなってくる。腹はこんなにもデカいのに、どうしてこんなにも入らないものか。そんな愚痴と一緒に無理やり胃に詰め込んでいく。

 会計の仕方も坂部が知っている方法とは違っていたが、店員が笑顔で教えてくれて何とかなった。それならあんたが最初からやってくれとも思ったが、口には出さなかった。
 それよりも、あの量で千円札一枚では足りないことに驚いた。この世界は何かがおかしい。

 ――さて、これからどうしたものか。
 坂部はどこを目指すでもなく、ただぶらぶらと街を歩いた。歩きながら、SF雑誌に描かれていた『未来予想図』のイラストの方が遥かに未来的だ、と感じた。空飛ぶ車もなければ、ロボットも歩いていない。建物は相変わらずコンクリートで、人間は相変わらず人間の見た目をしている。

 パチンコ屋の壁を流れる文字と煌びやかな電飾に、坂部は思わず足を止めた。
 自動ドアが開いた瞬間、激しい音楽と銀玉がジャラジャラ流れる音が混ざり合いながら耳を劈く。坂部にはそれが心地よかった。欲望を刺激する音であった。

 操られるようにして台の前に腰掛け、萬札を差し込む。途端に高精細なアニメが狂ったように踊り、台が激しく震動する。
 何が『当たり』かも判別できない。だが、網膜を焼く連続的な閃光を浴びるたび、五十歳の理性は二十歳の欲望に塗りつぶされていく。気づけば萬札は電子の海へ溶け、自堕落な本能だけが膨らんでいく。当たるはずのない下手な鉄砲玉は、虚しく穴の中へと消えていった。

 それはまるで、この先、坂部の身に待ち受ける人生の厳しさを象徴しているようだった。失われた三十年が想像以上の重さを持ってのしかかることになろうとは、この時の坂部はまだ知る由もない。


   『過ぎ去った未来』第六話に続く

1/27/2026, 10:03:23 AM

このお話は連続小説『過ぎ去った未来』の第四話です。前話までをまだお読みでない方はそちらからどうぞ。

※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
掌編小説『過ぎ去った未来』第四話

 坂部は青い空を流れる雲に、自分の行く末を重ねながら、公園のベンチに根を張りそうな自分を奮い立たせた。
 ――こうしちゃいられないな。
 ただただ無責任に生きたいと願って、この時代にやってきたつもりだったが、坂部の心にはいつしか罪悪感が芽生えていた。社会に出てから培ってきた責任感というものが、若さ故の怠惰を許すまじとする。

 幸いなことに、今の坂部には三十年前には考えすら及ばなかった経験と知識とスキルがある。それをこの時代で活かさない手はない。
 坂部はその日から、まるで入れ替わった魂が覚醒したかのように勉学に励んだ。営業で培った人付き合いのスキルを存分に活かして、大学での友人関係も大きく広がっていった。

 ダラダラと過ごしていた時とは違い、時間が流れるように過ぎていく。だが、以前――この時代に来る前のような圧迫感や焦燥感はなかった。むしろ軽やかに動く若い身体と、幾分物覚えのいい頭のおかげか、希望と未来への期待感が坂部の挑戦を後押しした。

 時はITバブルの真っ只中。この波に乗らない手はない。坂部は意を決して、大学の友人数名とベンチャー企業を立ち上げる。
 坂部がこの時代に来る前に『営業部長』として培った、人間関係の隙間を泳ぎ切る処世術と、未来から持ち込んだ時流を読む目。その二つが噛み合った時、会社は爆発的な成長を遂げた。

 三十歳になるころには、社員も二十名ほどに増え、坂部の会社は『時代の寵児』として雑誌のインタビューなども受けるほどにまで大きくなった。
 しかし、会社が大きくなればなるほど、その道のりは険しくなっていく。ライバル企業による容赦ない引き抜き、信頼していた側近の裏切り、そしてリーマンショックのような、個人の努力では抗いようのない世界的な金融危機。幾度と崖っぷちに立たされ、倒産を覚悟し、一晩で白髪が増えるような夜を何度も経験した。

 かつての怠惰だった二十歳の坂部であれば、最初の逆風で早々に看板を下ろし、酒に逃げていたに違いない。五十年を生きた男の胆力が、その荒波に立ち向かうための大きな盾となったのは言うまでもない。

 気づけば、坂部の周りには各界の重鎮や政財界の有力者が集まり、彼の一言で株価が動き、一国の経済が左右されるほどの巨大な人脈の網が張り巡らされていた。かつてしがない部長として頭を下げ続けていた男は、今や世界的にその名を知らぬ者はいない、頂点の大企業のトップにまで上り詰めたのである。

 そして五十歳。坂部は、都内の一等地に建つ高層ビルの最上階から東京の街を見下ろしながら、とうとうここまで来たか、と感慨に浸った。
 上司と部下の間で疲弊していたあのしがないサラリーマンの坂部はもうどこにもいない。以前にも増して経済力と精神力を備えた、まさに『成功者』の看板を手に入れたのであった。

 ふと、あの『たいむましぃん屋』のことが頭をよぎった。この三十年間、不思議と一度も思い出すことはなかった。そう言えば、この時代に来る前に店主がなにやら重要事項とやらを話していたな、と今さらながらに思い返す。
 ――転送先からは戻ろうと願えばいつでも戻ることができます。ですが、皆さま何故だか、向こうに行かれた時点でそういった意識をお忘れになるようです……。
 まさに店主の言っていた通りだったな、と坂部は自嘲の笑みを浮かべた。そこに後悔はない。これだけの成功を手にしたのだ。むしろ、元の世界に戻るメリットなどひとつも感じなかった。店主は、長居はお勧めしない、とも言っていた気がするが、それも今となればどこ吹く風である。
 もうひとつの重要事項は何だったか――。
 
 その時、まるでパソコンをシャットダウンした時のように、坂部の意識はぷつんと途切れた。視界が真っ暗になり、辺りの空気が急激に温度を落としていく。
 冷たい風が身を切るように吹き付け、体から生気と水分が抜けていくような、気味の悪い心地が全身を包み込む。

   ❖

「……っが、……んだ、ごれは……」
 声を出そうとして痰が絡んだように喉が詰まった。目の周りに貼り付いたヤニの塊で、思うように目が開かない。皮脂と汗が酸化したような刺激臭が鼻の奥を突き上げる。
 坂部は公園の端っこで、ボロボロの段ボールを毛布代わりに身にまとい、冬の冷たい寒さのなかで震えていた。ふと見下ろした手指には深い皺が刻み込まれ、所々赤切れた皮膚から血が滲んでいる。
 
 そこは意識を失った時とはだいぶ様相の違う世界だった。薄暗い雲に覆われた公園を、見慣れない服装の人々が歩く。頭にゴツめのサングラスか、あるいはVRゴーグルをもっと小型にしたような器具を身に着け、ぎこちない動きをする犬のようなものを散歩させている者、着飾ったドローンのようなものと並んで歩く者もいる。

 どうしてこんなことになった、という困惑と同時に、『たいむましぃん屋』の店主が言っていた、あとひとつの重要事項が頭をかすめた。
 ――もともといらっしゃった過去のあなたは、決して肉体を捨てたわけではありません。
 あの時、坂部が引っかかりを覚えた唯一の言葉。

 そう言えば、もともとこの体の中にいた『坂部の意識』はどこへ行ったのだ? まさか外に投げ出されてそのままということはあるまい。
 結実させたくない不安が、頭の中でパズルのように組み上がり、見たくないイメージを否応なくひとつの答えとして導き出す。


 『過ぎ去った未来』第五話に続く
 

1/26/2026, 10:19:52 AM

このお話は連続小説『過ぎ去った未来』の第三話です。前話までをまだお読みでない方はそちらからどうぞ。

※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
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 ――チュウ、という鼠の小さな鳴き声が坂部の意識を呼び戻した。

 目を開けると、そこは四畳半のボロアパートだった。カビ臭い畳、干しっぱなしの洗濯物、散乱したカップ麺の容器。記憶に残る部屋より数倍も汚く強烈な匂いを放っていた。

「こりゃあ酷い――」

 坂部は思わず声を漏らす。ふと落とした視線に、血色が良くシワとは無縁の、キメ細かい肌が映りこんだ。坂部は思わず立ち上がり、畳の上に転がるゴミの山をひょいひょいと乗り越えながら洗面所に向かう。体の軽さに『若さ』を実感する。

 ――ああ、これだ。これが若さというやつだったか。

 意気揚々と洗面所に立った坂部が目にしたのは、まぎれもない二十歳の坂部だった。 しかし、その姿はあまりにもみすぼらしい。ボサボサの髪に、三日は剃っていないだろうと思われる不精髭、目の下には寝不足でできた隈がどんよりと赤黒い染みを作っている。鏡自体も薄汚れていたが、それは言い訳にもならなかった。 見ようによっては、清潔感のある五十歳の坂部の方が、まだ若さという言葉と釣り合っているようにも思える。

 坂部は深く溜め息をつき、蛇口をひねった。流れ出る冷たい水で、その眠そうな顔をばしゃばしゃとはたく。幾分かシャキリとした顔に、心も少し晴れた。 軽くシャワーを浴びて、洋服箪笥から辛うじて着られそうなTシャツとチノパンを取り出して着替えを済ませる。

 玄関を開けて外に出ると、まばゆい光とともに、部屋の中以上に懐かしい光景が広がっていた。

 ――ここからもう一度青春が始まるんだ。

 坂部は青い空に胸を預けるように両腕を広げながら、鼻から目いっぱい空気を吸い込んだ。肺に溜まっていく空気も心なしか軽く、澄んだ心地がした。思わず浮かんだ笑みに呼び起されるように、ぐぅと腹の虫が鳴いた。

「まずは腹ごしらえだな」

 そこで坂部は、大学時代によく通っていた近所のラーメン屋のことを思い出した。場所を思い出そうとして思考が止まり、思わずチノパンのポケットを探る。当然、この時代にスマートフォンなる文明の利器はなく、まだ携帯電話すらも普及していない。この頃はよくもまあ、こんな不便な生活を続けていたものだと感心すら覚える。

 坂部は仕方なく、朧げな記憶を頼りに道を進む。少し歩けば、辺りの景色に見慣れた家や看板が目に入ってくる。三十年の月日はとても遠い過去のように思えたが、案外記憶の奥底に眠っているだけで、ちゃんと掘り起こしてやれば、素直に顔を出すものである。

 時刻は昼時とあってか、目的の店の前には四~五組の行列ができていた。最前には母親と小学生くらいの親子連れが互いに笑顔を交わし、最後尾のサラリーマンと思しきスーツの男性は待ち時間の一服をふかしていた。坂部はサラリーマンの後ろに静かに並ぶ。前方から流れてくる副流煙が肺に流れ込んで、たまらずコホコホと小さな咳が出た。サラリーマンが坂部の方をチラリと一瞥し、何だ、こちとら短い昼休憩を削って並んでいるんだ、という顔で、ふぅと煙を吐きながら再び前に向き直る。

 別にタバコを吸っている人間にとやかく言うつもりはないし、路上で吸おうと知ったことはないが、煙の行方くらいには気を遣ってほしいものだ、と説教じみたことを考える。ほどなくして、この時代の当たり前を思い出して、何も言わずにただただ順番を待ち続けた。

 十五分ほど並んでようやく店内に通された。暖簾をくぐった瞬間、鶏ガラのだしと甘い醤油の香りが鼻の周りをかすめていく。また、ぐぅと腹が鳴る。

 注文したのは、昔ながらのシンプルな中華そばとチャーハンのセットに、餃子と鶏の唐揚げまでつけた。五十歳の坂部であれば、その後の胃もたれを気にして躊躇するような量だが、何せ今は二十歳である。何とかなるという期待というより、もはや確信しかない。

 狭いカウンターに所狭しと並んだ脂肪と塩分と添加物の暴徒を、待ってましたと隙間を空けた胃の中に放り込んでいく。ずんずんと体内を通るカロリーが、すぐさまエネルギーに変わっていくような感覚。やっぱり、若さとは計り知れないパワーの塊である。

 三つの皿と一つの丼はあっという間に空になり、坂部は「ふぅ」と満足げなニンニク臭の息を吐いて椅子の背にどっしりと凭れ掛かる。

「はあ、こんなに食ったのは久しぶりだ」

 ふと店内のテレビで流れる懐かしい番組が目に入って、初めて、本当に戻ってきたんだなと、妙な実感と安心を覚える。

 時は金なりと、坂部は重い腰を上げた。よっこいしょ、と五十歳の口癖が出る。これだけ食べて千円札一枚で事足りることに驚きながら、会計を済ませ店を出る。

 腕時計はまもなく十四時になろうというあたり。 坂部は周囲の静けさに心地よさを感じていた。上司からの命令や部下からの報連相も、次のアポの段取りを考える必要もない。なんと自由なんだろう、と解放感に打ちひしがれる。

 その後も、ゲーセンやパチンコで無駄に時間と金を浪費し、缶ビールを片手に公園のベンチに腰掛けて、ただぼうっと空を眺めたりした。

 この時代の公園には、箱型のブランコや、地球儀のようなジャングルジムなと、今では敬遠されそうな色形の遊具がまだ残っていた。子どもは遊びの天才、というのはどうやら本当だ。各々に遊び方を発明しながら、大人では思いもつかない方法で遊具の新たな可能性を引き出しては、キャッキャと笑っている。

 青く晴れ渡った空に雲がゆっくりと流れていくのが分かった。こんなふうに空を見上げたのはいつぶりだろうか。営業の合間で見上げる空は、愚痴やため息が交じったような色をしていた。

 歳を重ねるごとに、知らず知らずのうちに落としてきてしまった夢や希望というものは、この青い空に雲と一緒に漂っていて、手を伸ばせばすぐに掴めそうに思えた。 坂部は、背徳心とも罪悪感とも似たような妙な心地に、モヤモヤとした胸の疼きを覚えていた。

 ――このままで良いわけないよな。

 坂部の中に湧き上がった感情が、はたして五十歳の意識から来るものなのか、それとも二十歳の肉体の残留思念なのか、もはや今の坂部には判別がつかなかった。

  『過ぎ去った未来』第四話に続く

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