タイトル『ぬくもりとの距離』
(12/10お題『ぬくもりの記憶』)
※【R15】本作品には、成人男性間での親密な関係性をめぐる描写が含まれます。直接的な性描写はありませんが、心理的・情緒的な要素を含みます。
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つい数分前まで触れていた人肌の温かさは、ドアの閉まる音とともに冷たくなっていく。俺は、まだオスの臭いが充満する薄暗いホテルの一室で、マッチングアプリの画面を開いて、近隣でアプリを開いているユーザーの一覧を指で送っていく。
男性同士の出会いを目的としたアプリがあることは、大学二年の時に偶然SNSで知った。当時、付き合っていた女性との別れが原因で逃げるように『こちら側』にやってきた。同性というだけでいくらか気が楽だったし、体のつながりだけで終わるドライな関係が俺の性に合っていた。
こちら側にいるからといって、自分がゲイやバイだと意識することはほとんどなく、強いて言うなら恋愛に踏み込むのが怖くて、ただ触れていられる相手を求めているだけなんだろう。
人の心に温もりを感じなくなったのはいつからか。振り返れば幼いころから人付き合いは苦手だった。俺の人間関係はいつも浅く短く過ぎていく。深く踏み込めば相手を傷つけるかもしれない。去る者を追えば自分が傷つくかもしれない。信用すればいずれ裏切られる。
初めから深入りしなければ、俺の心は傷を負わずに済む――。
セフレであるレンともそんな関係だった。初めて会ったのは今から三年前――俺が二十五歳の時だ。その時、アプリを開いたらたまたま近くにいただけだった。今のように暗いホテルの部屋で、互いの顔もはっきりとは分からず、体を重ねたあとは言葉もなく別れる。交わるのは体だけ。互いの心には踏み込まない。その距離が俺には心地よかった。
だけど、どこかでレンのことを求めている自分もいる。それはレンの体なのか、それとも……。いつもそこで無理やり思考を止める。また失うのが怖いから。
『いつもの部屋』
俺はレンに短いDMを送る。数分後、親指を立てた絵文字がひとつ送られてくる。いつもと同じ『向かう』の合図。
十五分ほどして、ガチャリと部屋のドアが開く音がした。俺はいつものようにベッドの中でドアに背を向けて布団に潜り込む。背後でガサガサ、カチャカチャと服を脱いでいく音が響く。その音を聞くだけで、自分の息づかいが荒くなっていくのを感じる。
布団が持ち上がり、すっと風が吹き込む。次いで、背中にふわりと熱を感じる。いつもの香水がふわりと漂い、ようやく安心する。
――レンだ……。
背中から彼の筋張った腕が回り、互いの体を求め、絡み合う。でも――今日のレンは何かが違った。いつもより俺の体をまさぐる手の動きは荒く、抱きしめる腕にも力が入っていた。まるで切り立った崖に必死で縋るようでもあり、何かに怯えて強く母にしがみつく子供のようでもあった。
だが、かえってその荒々しさに俺の体は熱さを増していく。レンの心が俺を求めている。そんな感覚が俺の全身を包み込む。
激しく求め合う夜は続き、やがて果てた。一気に体の力が抜け、激しく上下する胸の高鳴りを抑えるように仰向けになって目を閉じる。
「なんか……、あった?」
心臓の鼓動が落ち着いてきた頃、思わず心の声が漏れて出た。声に出すつもりはなかった。余計な言葉をかけて、また誰かを傷つけるのではないかというトラウマが、背中をゆっくり登ってくる。
「なんでもないよ」
レンは一瞬戸惑いを見せながらも、静かに答えた。暗がりに表情までは見えなかったが、その声はとても落ち着いていた。
「……ありがとう」
レンから出た言葉に、俺は思いがけず胸をつかまれた。長いこと忘れていた心の温度のようなものが、ふわりと胸の奥をかすめたような気がした。
熱を持ったのではない。ただ、氷の膜の表面がほんの少し曇ったような変化だった。
帰り支度をするレンの動きは、いつも通りだった。
シャツの袖を直し、髪を手ぐしで整え、玄関に向かう。だけど、いつもならすぐに開くはずのドアが、今日はまだ音を立てなかった。
見ればドアの前でレンはこちらに背を向けて物憂げに立ったままだった。名残惜しそうな背中に、思わず声をかけたくなる。
だけど、俺にはまだその勇気はなかった。追いかければ、深く入り込むことになる……。
少ししてレンがドアノブに手を伸ばしながら、こちらを振り返った。そして、ごく自然に、息を吐くような声で言った。
「また今度な」
とても軽い調子だった。特別な意味はないのかもしれない。ただの習慣になりかけの言葉なのかもしれない。
それでも、その一言が、部屋の空気の温度をわずかに揺らした。
扉が閉まると、静寂が戻った。
いつもなら消えていく体温が、今日はなかなか収まらなかった。ひんやりとした部屋の空気がレンの香りをまとって俺の火照った体を撫でていく。それでも胸の奥でぼんやりと熱を帯びている何かが熱を逃さない。
その熱が何に触れて生まれたものなのか、うまく言葉にならなかった。
ただ、次にレンがあの扉を開けるときの空気が、今日と同じではないだろうということだけは確かなように思えた。
#ぬくもりの記憶
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12/11お題『夜空を越えて』
書き上がり次第noteに公開します。
https://note.com/yuuki_toe
結城斗永
12/11/2025, 11:18:06 PM