結城斗永

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タイトル『希望の器(前編)』
 この世界の人々は、小さな画面から届く『導き』にすべてを委ねていた。
 朝になれば画面が淡く光り、その日どこへ行き、何をすべきかが簡潔に示される。『導き』の通りに動けば、未来は平穏で揺るぎない。

 幾何学的に整備された街は常に静かだった。
 人の流れは等間隔を保ち、完全に計画されたリズムの中で、交差点で立ち止まる隙もない。誰も空を見上げず、道を尋ねない。迷う必要がないからだ。
 すべては『導き』が知っている。

 この街に暮らすアラタも、その一人だった。
 いつものように画面を確認し、示された道を歩き、示された時間に仕事を終える。失敗はなく、後悔もない――はずだった。

 ある朝のリビングで、画面に表示された行き先を見つめながら、アラタは言葉にできない違和感を覚えた。
 明確な理由があるわけではない。ただ、その道を歩く自分の姿が、ひどく他人事のように思えた。

 アラタは一度深呼吸をして画面を伏せた。
 いずれにせよ、この『導き』通りに動くんだろう。これまで一度だって間違えたことはないのだから。
 ただ、示された行動の先を、ほんの少し考えてみようと思った。ただそれだけのこと。

 その時だった。
 ――ゴォン……。
 遠くの方で鳴る音が、耳に自然と入り込んできた。まるで重厚な鐘のような、低く重さを持った音。

 アラタは窓の外を見るが、周囲の人々は、誰一人として反応していない。皆、画面を見つめ、示された方向へ歩き続けている。

 一度きりの鐘の音が頭から離れず、アラタは画面を操作して音について調べた。
 だが画面に並ぶのは、世界が『導き』によって幸福な未来を選び続けているという情報ばかりで、鐘の音に関する話題は一切上がってこない。
 ――余計なことは考えるな。ただ導きに従えばいい。
 そんなことを言われている気がした。

『じゃあ、この耳に残る音はいったい何なんだ……』
 疑いようのない音の余韻がアラタの胸に静かな波を立てる。気づけば、端末を置いたまま家を出て、音が鳴ったと思われる方角へ歩き出していた。
 ――ゴーン……。
 また鐘の音が響いた。意識を耳に集中して、音の出どころを探る。こんな道があったのかと思うような細い路地を抜け、小さな空き地を抜けた先に古びた小屋を見つけた。

 小屋の中は静まり返り、窓から差し込む光の中に埃の粒がキラキラと舞っていた。ただひとつ置かれたテーブルの上に、一冊の紙の本が置かれているだけだった。

 紙の本など博物館でしか目にしたことはなかったが、擦り切れた本の端切れは、まさに時代を感じさせる見た目だった。
 興味から本を開くと、そこにはかつて世界の外へ踏み出した人々の記録が綴られていた。非効率で、危険で、成功率の低い行為の連なり。今の時代からは考えられない世界が広がっていた。

 アラタはあっという間に最後のページにたどり着く。そこには『希望の器』と題された一枚の挿絵があった。
 歪な形をした大きな器に雫が落ち、器を満たす水面には光の筋が描かれている。 

 アラタは耳に残る鐘の音が、何故かこの器と響き合うように感じた。理由は分からないが、この器がまだ世界のどこかにあるのなら、それを見てみたいと思った。

 また遠くで鐘が鳴った。さっきよりくっきりとした輪郭を持った音。アラタは本を閉じ、再び歩き出した。

 目指すは街の外。境界に近づくにつれ、ちらちらと周囲の視線がアラタに向けられる。
「たまにいるよな、ああいうやつ」
 そんな声が、背中をサッとかすめていく。しかし人々はすぐに画面へ視線を落とし、何事もなかったかのように歩き出す。
 アラタの向かう先には無関心に、街は変わらず整然と動き続けている。アラタにはその中へ戻る想像がなぜかうまくできなかった。

 気づけば森に囲まれた辺境の地にいた。
 森の奥の開けた場所にあの挿絵と同じ『希望の器』は確かにあった。
 器は、挿絵で見たようには満たされておらず、底の方で僅かな光が揺れているだけだった。
 
 器を囲む数人の人々はアラタと同じく、鐘の音を聞いてここにやってきたと言う。
 ただひとり、彼らとは明らかに異なる風貌の老人がいた。老人は器をじっと見つめ意味深に言葉を放つ。
「器の音を止めてはならん――」
 アラタはその老人の言葉の意味を捉えあぐねていたが、考えるより先に足が動いていた。

 アラタはその場にいた人々とともに高台に立って辺りを見渡す。そこから見える街は思っていたよりもずっと小さく、静かに閉ざされた空間としてぽつんと佇んでいた。

 器を響かせ続けるために、
 雫を止めないために僕らは何ができるのだろう。

 その問いに、まだ答えは見つからなかった。けれどアラタの胸には、小さな決意が芽生えていた。
 あの場所へ戻ろう。音を絶やさないために。
 人々と決意を共有した瞬間、器に落ちた雫がこれまでより大きな音を響かせる。
 その響きが、アラタの胸にも波を立てるのだった。

〜『希望の器』前編 了〜

 後編はnoteに掲載します。
https://note.com/yuuki_toe
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12/14/2025, 6:20:41 AM