1/21お題『特別な夜』への寄稿です。
本日のお題『タイムマシーン』へとお話はまた改めて投稿します。
4000字を超えてしまいました。
かなり長文ですが、最後まで読んでもらえたら嬉しいです。
※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
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タイトル『何も起こらない特別な夜』
片田舎のローカルコンビニ、ましてや深夜の滅多に客も来ないような時間に、人生の何たるかなんてことに思考を巡らすのは、単に虚しさが募るだけなのでよしておいたほうがいい。
とはいえ、ワンオペ業務の合間のふとした手持ち無沙汰な時間になれば、考えなくてもいいことを考えてしまうのは仕方がないことだ。どこからともなく不安や期待のようなものが、煙のようにえんらえんらと立ち昇り、空っぽの頭の中でぐるぐると漂い始める。
ここはなんとも平和だ。人もまばらで、外の世界とはまるで時間の流れが違う。最低限のコミュニケーションで何となく社会と繋がり、考えて動くことはあまり必要とせず、決められた時間に決められたことを、毎日同じように始めて終わらせればいい。ましてや三年も同じ環境にいれば、業務も手慣れたもので、今では、この淡々と過ぎていく時間が生活リズムそのものになっている。それはとても心地のいいリズムだ。
レジカウンター越しに、冷蔵ケースのうえでぽっかりと浮かんだ満月のような壁掛け時計を眺める。午前零時の十分前。節目はただ静かに訪れようとしている。
――特別なこともないままに、またひとつ歳をとってしまうのか……。
長い独り言が声にもならず、誰もいない店内の照明に溶けていった。スマートフォンがパンツの後ろポケットで数回震えたが、もはや画面を見る必要も感じない。
バースデーソングの代わりにスピーカーから流れてくるのは、名前も知らないアイドルの歌声。もう数時間前から何度も繰り返し聴いた『夢はいつでもプライスレス』みたいな歌詞は、まるで観客を置き去りにしたパフォーマンスのように、モップがけを終えたばかりの床へと落ちていく。
二十四歳とはなんとも中途半端な歳だ。四捨五入してもまだ二十歳の年。大人にもなりきれず、かと言って、もう子どもと呼ばれるのも憚られる歳の頃。
一年という区切りを迎えるたび、疎ましさが胸に沈む。年齢の物差しは毎年確実に数字を重ねていくというのに、何ら劇的なことも起こらず、この内側には波風ひとつ立ちはしない。たとえ今この時に人生が終わったとしても、百の歳まで生きようとも、見えてる景色はほとんど変わらないのではとすら思えてくる。ぞぞぞと胸騒ぎがする。
不意に入店音が鳴り、条件反射のように脊髄から昇ってきた声が、頭のなかの煙を蹴散らしたあとで口から出ていく。
「らっしゃっせー」
それはもはや声というより意味が乗っただけの音だった。
いつもならその届く先まで追うこともないのだが、今日は珍しく、自動ドアから冷気とともに入り込んできたその客人に、思わず目がいった。
この場所にはあまりに不釣り合いな、仕立ての良いチャコールグレーのコートを羽織り、ポケットに左手を突っ込んだまま、右手では、白髪をのぞかせる布帛のソフトハットの縁を静かに撫でている。ピカピカに磨かれた革靴は、床のセラミックタイルをコツコツと小気味よく叩く。
老紳士がまっすぐレジカウンターの前を通り過ぎると、コロンの香りが鼻先をかすめた。自然と背筋がぴんと伸びる。
この片田舎にもあんな紳士がいるんだな、と感心してまもなく、いてもおかしくはないか、と自己完結をする。
「はて……」
老紳士がふと何かを思い出したように立ち止まり、こちらを振り返る。
「私の欲しいものは何だったかな……?」
老紳士は棚を巡る風でもなくこちらに歩み寄り、まるで私を古い友人か何かのように見つめたあとで、静かに口を開いた。
「最近は物忘れが酷くてまったく困ったものだ。よければ、思い出すまで少し話を聞いてもらえませんかな」
老紳士は、喉の奥にコントラバスかバリトンサックスでも隠し持っているかのように、低く落ち着いた声をしていた。
私は困惑しながらも、その重厚な空気に呑まれて「はぁ」と気の抜けた返事をした。
「ところで、君は何のために働いているのかね?」
老紳士の唐突な問いに重なるように、窓の外で大型トラックのライトが通り過ぎた。この世界はあまりにも速い。こちらの脚力などお構いなしに、気づけば遥かに遠く先にいってしまう。私はそのまま世界から取り残されて、特にしたいことも夢もなく、ただ何となくこの場所に落ち着いているだけだ。
「……まあ、普通に、生活するため……というか」
端折りすぎて短くなったにも関わらず、まったくまとまらない言葉。老紳士は、ほお、と短く息を吐き、視線を宙に漂わせた。
「なるほど、生活のためか。では、もしも砂漠にある砂の粒を数えるだけで、生活に充分な給料がもらえるとしたら、君はその仕事に魅力を感じるかね?」
彼の言っている意味が分からなかったが、黙々と単調な作業を続けるのは嫌いではない。
「何も考えなくていいなら、それでもいいかもしれません」
「見た目以上に地味で厳しい仕事だ。砂の粒は風が吹けば飛ばされて、ついさっき数えた一粒がどれだったかなんて分からなくなってしまう。途方もない数だ。今数えている一粒は、昨日すでに数えている粒かもしれない。何とも不毛だとは思わないかね」
老紳士の言わんとしていることは分かる。しかし、そんな不毛な生き方しかできない人間はどうしたらいいのか。自分のなかに目的を定めて、進む道を切り開いていく。何とも理想的な言葉だ。でも、私の今の経済状況では、先の見えない暗闇を歩けるほどの度胸は生まれない。
「そういえば、こんな話もある」
老紳士はこちらの返事も待たずに次の『思いつき』を口にする。
「とある男が、世界中にあるすべての金を溶かして巨大なスプーンを作ったそうな。ところが、いざ食卓についても食べるものが何ひとつない。食材を買うための金はすべてスプーンのために使ってしまったのでね。スプーンがどれほど輝いていようが、喉を通るのは己の唾液だけ。皮肉なことだと思わないかね?」
私は何と答えてよいやら見当もつかなかった。あまりに支離滅裂で脈略がない。
「あの……、さっきから何を……」
私は堪らず尋ねた。一体彼は何を求めてやってきたのか。この一見脈絡のない四方山話が示すものが、この店の棚に並んでいるというのだろうか。
この紳士は、いわゆるボケ老人というやつなのだろうか。しかし、声の輪郭とは似ても似つかぬ、力の漲った眼光は、湿り気を帯びた深い知性を湛えていた。
「私ね、あの時計が午前零時を指す頃には齢八十を迎えるんです」
老紳士が壁掛け時計を指差した。分針は数字の十一を指している。まさか。この珍客との間に生じた妙な偶然に、私は胸の奥がじくじくとした。
「明日が誕生日ですか。私もです」
「それは奇遇ですな。お互い、何とも劇的な夜になりそうだ……」
老紳士がふっと小さな笑いを漏らした。劇的な夜という意味が理解できないでいると、老紳士は視線を少しだけ天井の方に持ち上げて話を続けた。
「誕生日を迎える瞬間というのは、螺旋階段をぐるりと登って、一段上の窓から外を眺めるような心地がしませんか。私はとても高いところに来てしまいましたから、見える景色もさほど変わりませんがね。私がまだあなたほどの頃は全く気づきもしませんでしたが、今になってみれば、その景色はあまりにも違いすぎる。そして、あの頃見ていた景色が無性に恋しくなるんです。あの頃に戻ったら、まず何をしようかとね」
ちょうど店内に再び流れ始めたあの曲が、私の胸を軋ませる。――夢はいつでもプライスレス。
「若いころに経験するものの価値は測りきれないほどに尊い。それは、まるで大きな卵に夢を詰め込んでいく過程のようだ。都会の空気に溶け込んだ透明なカラスが、夜の闇の中で産み落とす虹色の卵。その中には、昨日までの夢と明日見る夢がブラックホールのように圧縮されて詰められていく。しかし、中身を見るためには卵を割らなきゃならない。とても覚悟のいることだ。もしも割らずに中身を見られる道具を天秤に乗せれば、天秤は己の測っているものの均衡も忘れて、単なるヤジロベエに成り下がってしまうでしょうな。いざ、卵を割ったとして、その中身をすべて掬うためには、どれほど大きなスプーンが必要なのでしょうね」
老紳士の声が一層低い響きを持って店内の空気に混じっていく。心なしかLEDの照明も光を僅かに失っているようにすら感じる。
老紳士はずっとコートのポケットに入っていた左手を静かに差し出した。ガサガサと乾いた摩擦音を立て、皺だらけのビニール袋がカウンターに姿を現す。ストロング缶が六本ほど入りそうな大きさ。紳士のきちんとした身なりとはあまりに対照的で、言いようのない不穏さを覚える。
これは何の時間だ。壁の時計を見る。随分と長い時間が過ぎたように思えたが、短針も長針も、まだ僅かに真上を指してはいない。秒針がチクタクと誕生日前日のラストランを始めたところだった。
「そうこうしているうちに、もうこんな時間になってしまった。そろそろ家に帰ってパーティーの準備をしなければ。ようやく思い出しましたよ。ここに来た理由を――」
老紳士が徐にコートの内ポケットへと手を差し入れ、穏やかで慈愛に満ちた笑みを浮かべた。まるで誕生日ケーキの蝋燭を吹き消す前の祈りのような、静かな決意が滲んでいた。
店内のBGMはいつしかおすすめ商品の紹介に変わっていたが、内容がまったく耳に入ってこなかった。
「誕生日には金のスプーンで食事をしたくて、螺旋階段を降りてきたところまではよかったが、如何せん、『材料』が少しばかり足りなくてね……」
引き抜かれた老紳士の手元には鈍い光を放つナイフが握られていた。刃先がカウンターに置かれていた皺だらけのビニールを指し示し、老紳士の静かで穏やかな低い声がその上に落ちる。
パンツの後ろポケットがまた小さく震える。今になって画面を確認したくて仕方がないが、私の手はまるで石のように固まっている。
老紳士が不敵に笑う。
「この袋に詰められるだけでいい。その箱に入った『スプーンの材料』を詰めていただけるかね……」
ナイフの刃先がすいと持ち上がり、私の硬直した体と無機質なレジの機械を行き来する。
決して変わらないと思っていた私の視界が、一気に様相を変えて、ぐわんと大きく歪む。何も起こらないはずの夜が、一転、劇的な夜に変わろうとしていた。
『何も起こらない特別な夜』―完―
1/22/2026, 11:33:21 PM