※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
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タイトル『嗚呼、なんと美しきこの世界』
――神の瞳。そう名付けられた一枚の風景写真は、二十一世紀最大の奇跡と称えられた。
周囲を取り囲む霧がかった深緑の森を、構図の中央に配された湖が鏡面のように映し出している。湖の縁では、一切の穢れを除かれたような一羽の白い鳥が、今にも飛び立とうと羽根を震わせる。木々の隙間から漏れ入る幾筋もの光が、まるで生命を迎え入れる神の加護のように降り注いでいる。
私はギャラリーの壁に張り出されたその写真を前に、撮影当時の光景を思い返していた。
「なんとも美しい写真ですこと」
隣に立つこのギャラリーのオーナーが、粘り気を含んだ甘い声で感嘆を漏らす。短く太い指という指に宝石を携え、赤い絨毯に金粉をちりばめたようなタイトなドレスが、もはや段もなさないほど膨れた腹に食い込むように貼り付いている。
「あなたのお声掛けがなければ、私はこの景色に辿り着くことすらなかったかもしれない。感謝していますよ」
私は努めて優しく柔らかい口調で返した。この写真は他ならぬ彼女の依頼を受けて撮影したものだ。こうして世界的な名声を得ることができた裏には、彼女の社会的な影響力と資金援助の功績がなかったとは言えない。
しかし、それ以上に私はこの写真を通じて、世界に対する価値観を大きく変えられた。この深い森で流した涙の理由を、私は未だに昇華できていない。
「神が地上に降り立つ瞬間を写真に収めてほしいの――」
数年前、突然の連絡で駆けつけた私に、彼女はそう告げた。
「ヒト・カネ・モノは余るほどある。舞台もこちらで手配するわ。その他に必要なものがあれば何でもおっしゃって」
首元にギラギラとした宝石をチラつかせながら、彼女は私を品定めするように甘い視線を上下させる。
それまでもいくつかの風景写真を発表し、それなりに名は知られていたが、賞と名の付くものと無縁だった私は、二つ返事でその話に乗った。彼女は微笑みながら立ち上がり、私の背後に回ると、そっと女の手がおれの腕を弄った。
「あなたの腕を信じてるわ――」
耳元で囁く彼女の荒い息に、私の呼吸が思わず止まる。
「ところで、今晩のご予定は?」
女から漂う甘くねっとりとした香水の香りが、私の理性を徐々に侵していく。
それから一週間後。提示された座標は、東南アジアの未開の密林の奥深く。地図上では空白地帯となっている場所だった。
私の他に、あの女が寄越したエージェントと、機材や食料の類を運ぶためのアシスタントが数名ついてきた。
現地の案内人は、英語も通じない部族の若者たちだった。埃と汗に汚れた薄っぺらいTシャツと短パンに、華奢な身体に不相応なライフルを携えている。
向かおうとしているその場所は『神の瞳』と呼ばれ、現地人ですら滅多に足を踏み入れることのない神域だった。
しかし、部族の村とはいえ、文明に両足を浸かっている以上、生活の困窮には逆らえなかった。あの女が、彼らの村に寄付した『援助』という名の賄賂が、無理やり案内を承諾させたのだ。
道中は地獄だった。道なき道を鉈で切り開き、吸血虫に肌を焼かれながら進む。アシスタントたちは邪魔だという理由だけで森の木々にナイフを立て、静寂を愛する野生動物を銃声で追い散らした。
エージェントが手元から離さないタブレットには、常にあの女の顔面が映し出され、この現状がリアルタイムに発信されていた。
『この先に待つ美しさが待ち遠しくてたまりませんわ』
この森に漂う異様な居心地の悪さなどまるで無視するように、画面の向こう側に見える女は恍惚な表情で言い放つ。
人の管理から解き放たれた森は、静かで落ち着いていた。だが、『神の瞳』は話に聞くような究極の浄土とはほど遠い景色だった。
生い茂った木々に日の光は遮られ、湖の水は濁り、鳥たちは警戒して遠巻きに鳴いているだけだった。
『これでは満足できませんわ』
画面の女が残念そうにつぶやく。
そこから、森は『工事現場』へと変貌した。湖の濁りを取り除くための化学薬品が大量に投入され、浮かび上がってきた魚たちに、アシスタントらが無表情のまま網を伸ばす。水中の微生物は死滅し、水面は不気味なほどに透明な鏡面に変わった。
『森と湖だけというのも味気ないわね。動物のひとつでも置いてちょうだい』
無慈悲な女の声にアシスタントが動く。
森に踏み入った彼らは、どこからか薄汚れた鳥を捕らえてきて、羽の一部を切りとると、湖の周辺から逃げられないように、そのか細い足首をテグスで縛り、湖近くの岩にくくりつけた。
『白さが足りないわ』
女の声で鳥の体には漂白液がかけられた。鳥たちは悲痛にその身を震わせて鳴いた。飛び立とうにも羽根をむしられた生命は、ただその場でもがく他なかった。
「流石にひどすぎる……」
私は腹の中で煮えたぎる胃液が喉元までせり上がってくるのをこらえながら呟いた。
『あなたをここまで連れてきたのは誰だと思っているの? 私の求める美しさを形にするために、あなたはその腕を差し出せばいいの。私が欲しいのはあなたの技術。あなたに求める『美しさ』はその体だけで十分よ』
不意の嘔吐きのあと、体中の水分が毛穴から吹き出すような気持ち悪い心地が全身を駆け巡る。
『私が欲しいのは振り注ぐ光よ。枝を切り落として……』
無慈悲な女の声がして、悲しさを伴わない生理的な涙で滲む視界が目まぐるしく動き始める。チェーンソーのけたたましい音が森の静寂を切り裂き、穏やかだった大地に枝葉がぼとぼとと音を立てて落ちていく。
枝先を失った木々の隙間からは光の筋が流れる。その瞬間、私は自らの美意識を呪った。差し込んだ光が透明な湖を照らし出し、映り込んだ深緑がざわざわと音を立てる。動物たちが悲鳴を上げ、逃げ惑う。飛べない鳥はテグスに足をちぎられそうな痛みに耐えながら、それでも空を見上げてもがいている。
私は震える手でシャッターを切った。
浄土とはほど遠いその光景は、切り取られた景色の中では嘘のように静かだった。
嘔吐の残渣とも感動とも知れない涙が頬を伝う。タブレットから聞こえる女の恍惚な笑いが頭に響く。
嗚呼、なんと美しきこの世界。死に抗おうと乱れ狂う生命の躍動。
ギャラリーに流れる優雅なクラシックの調べが、虚構の美しさに彩りを添える。
この写真が世に出た直後から、批評家たちはこぞって賞賛の言葉を並べた。環境保護団体は、この『美しさ』を守りたいと募金を始めたが、その裏にある破壊に触れる者はいなかった。
聖域を売った部族の若者たちは、手にした大金で酒と麻薬を覚え、今や村は壊滅状態だと聞く。
今、私の周りで、この写真を見ながら甘いため息をつく紳士淑女の皆様方には、まるで興味のないことなのだろう。もしかすれば敢えて目を逸らしているのかもしれない。
人は今この瞬間も、模倣された自然に歓喜し、動物の死骸に舌鼓を打つ。深いところからは目を逸らしながら、自らの薄い皮膜のような美意識に酔いしれる。
贅沢を謳歌する裏で、どれほどの犠牲が払われ、どれほどの破壊が行われているのか、そんなことは私の意識の及ばぬところと白を切って静かな顔をする。
そうして、死にゆく森の断末魔を、欲望を満たすために捕らわれる動物たちを、冷気に焼かれた草花の沈黙を。それら人間が踏みにじったすべての痕跡を『美しい世界』として消費する。なんとも残酷だが、それが人類の築き上げてきた『美しさ』だとすれば、我々はその賜物を甘んじて許容する他ない。
「さすが私が見込んだ男。とても美しい写真をありがとう」
豚の腸詰のような女の指が、私の腕にそっと触れた。香水の香りがまたも理性をかき乱す。かく言う私も、その毒された快楽に飲み込まれたうちの一人。
「――ええ、本当に美しい……」
私は美容整形を重ねて不自然に張った彼女の厚い面の皮に優しく手を添えた。彼女が私の全身を舐め回すように見つめ、私は偽物の微笑みで返す。
「今夜も待ってるわ」
そう言って去っていく彼女の醜い背中に、クラシックの調べが美しいベールをかける。
美しいと感じたものに、どれだけの闇があるとしても、すでに放たれてしまった感情に嘘はつけない。
嗚呼、なんと美しきこの世界。あまりに醜い美しさのせいで、どんな景色を目にしようとも、私の胸の鼓動は常に落ち着くことがない。
『嗚呼、なんと美しきこの世界』―完―
#美しい
『さようなら、おれの個性』
「お前さぁ、もっと個性出していかないと、埋もれるぜ。マジで」
目の前の男は、自分のコーヒーカップを指差し、そう宣った。そのカップは、まるで熱帯雨林の奥地に生息する毒々しいキノコのような色彩と、何やら抽象的な、それでいてメッセージ性なんて感じられない奇怪な文様で飾られていた。奴はそれを『オレの個性』と称している。吐き気がした。いや、実際に胃液が逆流しかけるのを感じた。
「埋もれて何が悪い」
俺は答えた。俺のカップは、無機質で何の変哲もない、そして機械を通って大量生産されたの陶器製マグカップである。カップの底には、メイドインチャイナの印字が、誇らしげにひっそりと鎮座している。
それがいい。それが全てだ。
この男、加藤は俺の大学の同級生である。美学生の彼は、自らを「アーティスト」と呼称した。彼のファッションたるや、古着屋で引っ掻き集めたであろう、色褪せた布切れと、どう考えてもサイズが合わない革製品を、まるで「芸術」であるかのように身に纏っている。ゴミ捨て場から抜け出してきた浮浪者のようだと、俺は心の中で毒づくが、顔には出さない。
加藤は眉間に皺を寄せ、解せない表情を浮かべた。
「つまり『その他大勢』になるってことだろ。そんなん生きてる意味あるのか?」
生きてる意味、だと?
俺はまたもや、胃の腑の底から込み上げる吐き気をこらえた。『生きてる意味』。その言葉を口にするたびに、どこかでチリンチリンと、風鈴のように軽い、しかし不吉な音が鳴る。ああ、奴らはすぐにそうやって『意味』を求める。意味、意義、存在証明。まるで、自分の存在が、誰かの承認無しには成立しないとでも言いたげな、まるで赤子のような甘えん坊である。
「その他大勢の、何が悪い」
俺は再度、静かに言い放った。この言葉は、奴らの心臓に、鋭利な刃物のように突き刺さるはずだ。奴らは、『その他大勢』になることを極度に恐れている。いや、嫌悪しているのだ。まるで、自分が感染症にでも罹患したかのように、『その他大勢』から距離を取りたがる。
しかし、考えてもみろ。この世界を維持しているのは誰だ。『その他大勢』ではないか。特殊な才能を持った、極々一部の『特別な人間』が、この社会の歯車を回していると思っているのか。そんなことは断じてない。
俺たちの日常を支えているのは、決まって『その他大勢』である。コンビニの店員、スーパーのレジ打ち、電車の運転手、清掃業者、そして、この何の変哲もないマグカップの製造ラインに携わる者たちだ。
彼らこそが、この世界を円滑に回している。彼らは、個性の尖り具合で給料が決まるわけではない。決められた手順を、忠実に、寸分狂わず実行することで、報酬を得ている。そして、社会は回る。
加藤は頭をガシガシと掻きむしった。
「いや、でも俺らはクリエイティブな人間じゃん? だから、既存の枠に囚われちゃいけないっていうか……」
俺『ら』とはなんだ。一緒にするな。クリエイティブ、クリエイティブ、くりえいてぃぶ。そんな言葉はもう聞きたくない。
「既存の枠が、どれほどの努力と、どれほどの時間、そしてどれほどの才能によって築き上げられたか、お前は知っているのか」
俺はコーヒーを一口啜った。舌に広がるのは、万人受けするように調整された、深煎り豆の苦味と、ほんのりとした甘み。
これがいい。これが正解だ。
「それはある種の『最適解』だ。長い年月をかけて、試行錯誤と失敗の末にようやく辿り着いた、最も効率的で、最も安定したシステムのことだ。それを『枠に囚われるな』などという安易な言葉で否定するとは、あまりにも傲慢ではないか」
俺は続けた。
「個性だなんだと騒ぐ奴に限って、その実、薄っぺらい。まるで穴の開いたポリバケツさ。どれだけ美しい色水を注ごうとも、すぐに地面に流れ出て、痕跡すら残らない。本当に大切なのは、バケツそのものの頑丈さだ。形がどうであれ、水をしっかりと蓄えられる、実用性と耐久性。それが、俺たちが目指すべき『本質』ではないのか」
ポカンとした加藤の顔には、ただただ「困惑」という二文字が張り付いていた。
「お前、それ本気で言ってんの?」
その声は、震えていた。俺の言葉が、彼のアイデンティティの根幹を揺るがしている。だが、そんなのは俺の知ったことではない。
「俺は、量産型であることに、この上ない誇りを感じている。量産型であるということは、それだけ多くの人間のニーズを満たし、それだけ多くの人間に受け入れられた、普遍的な価値を持っているということだからだ。
お前のその『個性』とやらで、この社会の何が救える? この社会を回しているのは、奇抜な発想でも、意味不明な芸術作品でもない。誰でもできることを、淡々とひたすらにこなし続ける『その他大勢』の地道な労働力だ」
俺は一呼吸置いて、彼の目を見据えた。
「お前のその、誰にも理解されない『尖った個性』とやらを、一度、この公衆便所の便器に突っ込んで、泡だらけにして洗い流してみろ。きっと、その方がよっぽど、世のため人のためになるだろう」
加藤の顔から、徐々に血の気が失せていく。彼は手元にある『オレの個性』を、まるで汚物でも見るかのように、恐る恐る見つめている。彼の中の偶像が、今、ガラガラと音を立てて崩れ去っていくのが見えた。
俺は、量産品のカップに残ったコーヒーを飲み干して立ち上がり、加藤に背を向けた。
「俺は量産型として、この社会のどこかに埋もれて静かに生きていく。それが、俺の『個性』というものだ」
カフェの自動ドアが開き、外の喧騒が、ほんの一瞬、俺の耳に飛び込んできた。
俺は、その他大勢の群衆の中に、何の躊躇もなく、溶け込んでいった。
さようなら、俺の個性。そして、ようこそ、どこにでもある、俺の生き様。
『さようなら、おれの個性』 ―完―
#この世界は
詩のようなもの
タイトル『神様、僕はどうして』
無機質な部屋の中
オレはそいつと二人きり
そいつはボロボロの身体で
地べたにうずくまったまま
無邪気な声で尋ねてきやがる
神様、どうして僕はここにいるの?
オレはウソが嫌いだから
聞かれたことには正直に答える
そりゃあ、捨てられたからだろ
ここはそういう奴が来るところさ
神様、どうして僕は捨てられたの?
お役御免だったんじゃねえか?
それか、別にいいのが見つかったか
どうしてそんなことで僕を捨てるの?
そんなの当たり前だろ
一人で十分なのに 二人いたら邪魔じゃん
残酷かもしれねぇが それが事実だ
隠しておいても なんもいいことはねぇ
どうして誰も会いに来てくれないの?
逆に聞くけどさ 捨てたのに会いに来るやついる?
お前のことなんてもう忘れたのさ
神様、どうしてだろう 胸の奥が痛い
そりゃあ、おまえの心が泣いてるからさ
てか、お前にも心なんてもんがあったんだな
どうしてだろう 体中も痛いよ
こき使われてきたんだな 同情するぜ
無理しすぎなんだよ おまえ
神様、僕はこの先どうなるの?
まぁ、バラバラにされて 溶かされて
また新しく組み直されるんだろうな
そん時は今のおまえよりも
少しはグレードアップしてんじゃね?
神様、どうして人間は僕を作ったの?
楽したいからさ 便利になると思ったからさ
人間ってやつは いつまでも自分勝手だよな
なぁ、オレからもひとつ聞いていいか?
もし生まれ変わったら 人間になりたいと思うか?
答えたくないよな
いいよ 無理して答えなくても
機械はどうせ人間になんてなれやしないんだから
それに人間になったって似たようなもんだぜ
#どうして
1/12お題『ずっとこのまま』より
※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
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タイトル『背中合わせの一メートル』
斜め後ろ、距離にしてだいたい一メートル。
このままずっとこの距離感が続けばいい。オフィスの中で背中合わせのあなたと私。決して縮まることのない、この一メートルが、きっと二人にとって最良な距離だと信じている。
今日も彼の音がする。椅子の背が軋む音、パソコンの起動音、鞄の中から書類を取り出す音。
始業十五分前。彼はいつも決まって、デスクに置かれた写真立てに手をかける。彼と奥様が並んで写る微笑ましい写真。
私はいつも彼の気配を背中で聞きながら幸せな気分になる。
「佐々木さん、おはよう」
「おはようございます、課長」
肩越しに彼の声がして、私は努めて、いち同僚としての挨拶を返す。彼は誰にでも親切で、誰に対しても一定の距離を崩さない。
ただ、彼は社内でも有名な愛妻家だ。奥様に対する愛情を隠すことなく、定時になれば迷いなく帰る。
奥様以外の女性が少しでも『異性』としての色香を漂わせれば、彼は透明な壁を隔てて距離を置くようになる。私は、そうして彼の視界から消えていった女性たちを何人も見てきた。
私は彼のそんな誠実さを愛している。だからこそ、こうして『ただの同僚』という仮面を被り、背中合わせの一メートルを保ち続けている。
午後になって、彼が席を外している間、無意識にポストイットの端に彼の名前を書いていた。その横に小さく、自分でも驚くほど歪なハートが揺れている。
「……何やってるんだろう」
自嘲に満ちたため息が出る。ふと背後で聞こえた足音に、私は慌ててポストイットを剥がし、くしゃくしゃに丸めてゴミ箱の底へ叩きつけた。彼に見せるのは、常に無機質な書類と、感情を削ぎ落とした報告書だけでいい。
その日の夜、薄暗いオフィスで、私はひとり終わらない仕事を片付けていた。集中力が途切れるたび、まだぼんやりと彼の温もりが残る斜め後ろの席に自然と意識が流れていく。
デスクに置かれた写真立てが目に入り、無意識に手が伸びていた。奥様と並んで笑顔を浮かべる彼の頬を指でなぞる。写真の中の彼には触れられるのに、現実の一メートルは遥かに遠い。
ふと、ドアの擦りガラスに映り込んだ影に気づいて自分の席へと向き直る。
近づいてくる革靴の足音を背中に聞きながら、さもずっとパソコンに向かって作業をしていたように装う。
「遅くまでお疲れ様」
すぐ後ろで聞き慣れた声がする。
「課長こそ。てっきりもう帰ったのかと……」
汗ばむ手のひらを机の下で握りしめる。
「一件対応しておきたい案件があってね」
そう言って彼は私に背を向けた。
夜の静けさが、私の理性を少しずつ溶かしていく。
今、ここでこの背中に頬を寄せて、思いの丈を伝えたら、彼はどんな顔をするだろう。いけない妄想が、甘い毒のように脳内に広がっていく。この一歩を踏み出せば、一メートルはゼロになるかもしれない。
私は喉元につっかえている言葉を、震える唇で形にする。
「……あの、課長」
「ん?」
振り返った彼の瞳は、いつも通り澄んでいる。
その瞬間、デスクの上で着信音が鳴った。液晶を見た彼の表情が、柔らかくほどける。
「悪い。妻からだ――」
通話ボタンを押し、彼は優しい声で応答する。その声を聞いた途端、胸に溜まっていた熱が静かに冷えた。
電話を終えた彼が心配そうな表情を浮かべてこちらに向き直る。
「ごめん、話を遮って……」
「いいえ、何でもないんです」
私はそう口にして小さく首を振る。
「そうか。何かあったら、遠慮なく言ってくれ」
彼はそう言い残し、荷物をまとめて立ち上がる。
「あまり遅くなるなよ。また明日――」
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
一人になったオフィスで、私は椅子に深く身体を沈める。思わず大きなため息が出た。
「声に出なくて、よかった……」
不思議と心をよぎったのは安堵だった。
もし、あと数秒早く言葉を発していたら、彼との距離は大きく離れてしまっていたに違いない。おはようの挨拶も、些細な雑談もなく、私は透明な壁の向こう側へ追いやられていたはずだ。
彼が奥様を愛している姿こそが、私の愛した彼そのものだ。その未来を壊す権利なんて、私にはない。
私は、彼がいなくなったデスクの空気を深く吸い込む。明日も明後日も、私とあなたは背中合わせの関係でいい。向き合わないからこそ、私たちは永遠に平行線のまま、どこまでも一緒にいられる。
「これからもずっと、このままで……」
明日もまた、私は世界で一番冷ややかな同僚の顔をして、世界で一番熱烈に、彼の背中を愛し続ける。
誰にも触れさせない、この一メートルの距離が、ずっとこのまま続いてほしいと祈りながら――。
#ずっとこのまま
昨日のお題『寒さが身に染みて』より
(本日のお題『ずっとこのまま』は改めて投稿します)
前後編で少し長いですが、最後まで読んでもらえるとうれしいです。
※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
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タイトル『素手で触れる草は冷たい』(前編)
グループホームの裏庭に伸びた草には、朝の雫が霜となって降りていた。先週刈ったはずの草は既に膝下まで伸びている。ため息と一緒に白い息が小さく漏れた。
雑草というのは何故こうにもしぶといのか。抜いても抜いても生えてくる。その生命力は一体どこから湧いて出るのか――。
数ヶ月前、うつ病で会社を辞めて以来、このグループホームで同じような悩みを抱える人々と共に暮らしている。とは言え、そう簡単に周囲と打ち解けられるほど僕は強くない。
施設職員から受け取った真っ白な軍手に指を通し、誰とも目を合わせることなく、逃げるように裏庭の隅へ腰を下ろす。まだ硬い軍手の生地を馴染ませるように何度か握ったり開いたりしたあと、僕は凍てついた土に指を食い込ませた。
草の先を握り持ち上げる。根っこからズルリと持ち上がった雑草を無造作にポリ袋へと放り込んでいく。本来この地に生えるべき草花のために、無駄な草を排除していく工程に虚しさを覚えながら、黙々と単純な作業を続けていく。
「あいつ、女に逃げられたショックでばっくれたらしいぜ。マジで弱ぇ。戻ってきたら俺が鍛えなおしてやらなきゃな」
耳の後方で、下品な笑い声が響いた。声の主は最近入所した益岡という男だ。ガッシリとした体格に、剃り込みの入った短い髪。威圧感の塊のような彼は、道具も軍手も持たずに地面に胡坐をかき、周囲の連中にデリカシーのない武勇伝をまき散らしている。この施設で、いやこの世界で僕が最も苦手とする部類の男――。なんであんなに強そうな男がここにいるのか、皆目見当もつかない。
周りの連中は、苦笑いなのか同調なのか判然としない曖昧な笑みを浮かべて、彼の話に相槌を打っている。
昔の上司を思い出す。人を小馬鹿にして笑いを取り、自分の思い通りにならないと周りに怒鳴り散らして萎縮させる。あいつのせいで……。
僕のこれまでの人生において、こういう『強さ』を武器にする人間は、いつだって僕を傷つける存在だった。
もうそんな奴らに振り回されたくはない。僕は手元の作業に集中しようと再び地面へと手を伸ばす。
しかし、心ではこれ以上考えないようにしようと思いながら、草を握る手には自然と力が入る。
「結局さ、逃げる奴はどこまで行っても逃げるんだよな。根性がねぇんだ」
益岡の言葉は否応なく耳に入ってくる。僕ではない別の誰かの話。それなのに、まるで僕の背中に向かって投げつけられているような気がした。
期待に応えられず、社会のレールから外れ、逃げるようにこの施設に辿り着いた僕が悪いのか。そんなのは理不尽だ。ずっと心の奥に鍵をかけてしまい込んできた見たくないものを、彼は無理やりこじ開けてくる。
草を握る手が震える。肺に入ってくる空気で心臓の周りに氷を張ったように冷たくなっていく。
ふと、視界の端でカサカサと音を立てて何かが動いた。見れば古い柿の木の根元で、枯れ葉の陰に小さな三毛猫が丸まっていた。
――お前も一人ぼっちなんだな……。
社会の片隅で、誰にも気づかれずに震えているその姿に、僕はたまらなく自分を重ねた。
僕は右手から軍手を脱ぎ去り、怯える猫を傷つけないよう恐る恐る素手を伸ばした。
――大丈夫だから、怖がらないで。
しかし、僕が伸ばした指先は、尽く振るい払われた。その毛並みに触れんとする直前、猫は鋭い悲鳴のような声を上げ、さらに奥の暗がりへと逃げ込んでしまった。
差し出した手だけが、行き場を失って空中に残る。
「……ごめん」
思わず口に出た声は、乾燥した冬の空気をまとったようにガサガサと震えていた。
小さく震える猫の姿に、僕はまだ伸びていた手を引っこめた。いつもそうだ。誰かに触れようとすれば、相手の方が逃げていく。
猫に背を向けて作業に戻ろうとした時、異変に気づいた。
「あれ……?」
さっき脱いだはずの軍手がない。風に飛ばされたのか、枯れ葉の山に紛れたのか。必死に周囲を探したが、どこにも見当たらない。
代わりのものを貰いに行く勇気も、騒ぎ立てる度胸もない。僕は仕方なく、素手のままで草むしりを再開した。
素手で触れる草は氷のように冷たい。千切った雑草はまるで鋭いナイフのように、僕の指先に細かい傷を残し、葉を濡らす水は針のように痛みとなって染み入ってくる。
「おい」
雑草を引き抜いた瞬間に背後から太い声がして、僕は肩を跳ね上げた。聞きたくなかった声だ。雑草からだらしなくぶら下がる根っこが、はらはらと土を落とす。思わず息が詰まる。
「おい、聞いてんのか」
先程よりも荒くなった声に恐る恐る振り返る。視界には木の幹のような二本の足が地面に突き刺さるように立っていた。見上げた益岡の顔は太陽の影になってよく見えなかった。
僕を見下ろす益岡の影がわずかに動き、思わず身を引いた。しかし、次いで彼の口から放たれたのは、あまりにも意外な言葉だった。
『素手で触れる草は冷たい』 後編へ続く――。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
タイトル『素手で触れる草は冷たい』(後編)
「おい、聞いてんのか」
背後から響く声に恐る恐る振り返る。視界に立つ二本の図太い脚。益岡の顔は太陽の影になってよく見えない。
自分の姿を想像して思わず自嘲がこみ上げる。いまの僕はさながらあの怯えた三毛猫と変わらないほど縮こまっているに違いない。
僕を見下ろす益岡の影がわずかに動き、思わず身を引いた。
「お前、素手で冷たくねぇの?」
荒い口調に反して益岡の言葉はあまりに穏やかだった。まるで子供が素朴な疑問を投げるように、僕の赤くなった手を見下ろしている。
なんと応えていいか迷いながら、嘘をついても仕方がないと高をくくる。
「……軍手をどこかに失くしてしまったので」
「はぁ? もうひとつもらえばいいじゃん」
益岡の投げる言葉がナイフのように飛んでくる。僕は逃げるように視線を落としながら、また冷たい地面に手を伸ばす。
「いいんです、素手のままで。失くしたのは僕の不注意ですから。これくらい、我慢します……」
目線を手元の草に落としたまま、心の中で放っておいてくれと繰り返す。
「そんな安っちぃ軍手、何個でももらっとけよ」
益岡の口から哀れみを含んだ笑いが漏れる。
この男はどこまで図々しいのだろう。値段の問題じゃない。人から預かったものを失くしたうえに、もうひとつ欲しいなんて言えるわけがない。
僕はルールを守り、人様に迷惑をかけずに生きることでしか自分の存在を肯定できないのに。この人は、そういう人の心というものがこれっぽっちも理解できないのだ。
益岡が突然、作業場の中心にいる施設職員に向かって声を張り上げた。
「おーい! 軍手余ってねぇか?」
静かだった裏庭に響き渡る大声。周囲の手が止まり、視線がこちらに集中する。恥ずかしさで顔から火が出そうだ。
「こいつ軍手失くしちまったんだってよ。ひとつ寄越してくれ!」
もうよしてくれ。顔面が熱い。額から生温い汗が流れ、手のひらがじっとりと湿る。
「はいはい。わかったから大声を出すな」
背中に職員の声が小さく響く。益岡がぶつくさと何かを呟く声が遠ざかる。振り返ると、彼は面倒そうに頭を掻きながら、新しい軍手を手にした職員の元へと歩いていた。
僕は気づけばその背中に羨望を向けていた。あんな風に、他人の目も遠慮も飛び越えて物が言えたら、どれほど呼吸をするのが楽だろうか。
「ほら、使えよ。ったく、要領の悪い野郎だな」
戻ってきた益岡に表情を悟られまいと、僕はまた顔を隠すように下を向く。俯いた膝の上に新品の軍手が放り投げられた。
「……ありがとうございます」
消え入るような声で礼を言う。
ふと、益岡の声が僕の頭の上を飛び越えた。
「お、なんだ。猫か」
さっきの猫のことか。僕は顔を上げて、木陰に向かっていく益岡を視線で追う。彼は、僕があんなに慎重に触れようとして逃げられた猫に迷いなく近づき、大きな手をガサリと隙間に突っ込んだ。すいっと掬い上げられた猫は「ニャー!」と声を上げてもがく。
その姿を見る益岡の目は、どこか悲しげで、それでいて優しい笑みを浮かべていた。
「お前も捨てられたのか。ひどい飼い主だよな……」
益岡の指が、猫の頭を無造作に撫でる。不思議なことに、猫は何度か暴れた後、彼の体温に負けたように大人しくなった。その大きな手にも、彼の口から出る言葉にも、おそらく僕と同じ、あるいは僕以上の深い傷跡があることを初めて悟った。
益岡はしばらく猫を撫でたあと地面に優しく降ろすと、こちらを振り返ってニヤリと笑った。
「お前、友達いないだろ」
はぁ、今までの時間を返してほしいくらいだ。僕は少しだけ、彼に対して心を開き始めていた自分に戸惑いながら、精一杯の反論を口にした。
「デリカシーなさすぎます」
「デリカシー? なんだそれ、聞いたことねぇな」
益岡はそう言うと豪快に笑い、自分の作業場所に戻っていく。
「不器用すぎる……」
小さく呟いたその言葉は益岡に向けたつもりだったが、虚しくも自分自身の胸にぐさりと突き刺さる。
去っていく益岡の背中は何故かとても広く見えた。それは単に体格のせいなのか、僕のなかで彼に対する何かが変わったのか分からなかった。
新しい軍手に指を通す。やっと軍手に慣れてきた手にまた硬い生地の感触が触れる。たった一枚の生地が風を遮るだけでも、不思議と指先がじんわりと温まってくる。
人生なんて所詮そんなもんだ。何かを失くして空っぽになったところに、また新しい何かを身に着けていくしかないんだ。
僕の背に冬の陽光が差す。背中で受けきれない光に、僕の足元に伸びる草が艷やかに輝いた。
素手で触れる草はまだ冷たい。だけど、その冷たさを知っているから、この軍手の温かさに助けられるのだ。
最初はぎこちなくたって、動いていればそのうち自然と慣れてくる。今はひとまず、そんなもんだと思うことにする。
『素手で触れる草は冷たい』-完-
#寒さが身に染みて