『さようなら、おれの個性』
「お前さぁ、もっと個性出していかないと、埋もれるぜ。マジで」
目の前の男は、自分のコーヒーカップを指差し、そう宣った。そのカップは、まるで熱帯雨林の奥地に生息する毒々しいキノコのような色彩と、何やら抽象的な、それでいてメッセージ性なんて感じられない奇怪な文様で飾られていた。奴はそれを『オレの個性』と称している。吐き気がした。いや、実際に胃液が逆流しかけるのを感じた。
「埋もれて何が悪い」
俺は答えた。俺のカップは、無機質で何の変哲もない、そして機械を通って大量生産されたの陶器製マグカップである。カップの底には、メイドインチャイナの印字が、誇らしげにひっそりと鎮座している。
それがいい。それが全てだ。
この男、加藤は俺の大学の同級生である。美学生の彼は、自らを「アーティスト」と呼称した。彼のファッションたるや、古着屋で引っ掻き集めたであろう、色褪せた布切れと、どう考えてもサイズが合わない革製品を、まるで「芸術」であるかのように身に纏っている。ゴミ捨て場から抜け出してきた浮浪者のようだと、俺は心の中で毒づくが、顔には出さない。
加藤は眉間に皺を寄せ、解せない表情を浮かべた。
「つまり『その他大勢』になるってことだろ。そんなん生きてる意味あるのか?」
生きてる意味、だと?
俺はまたもや、胃の腑の底から込み上げる吐き気をこらえた。『生きてる意味』。その言葉を口にするたびに、どこかでチリンチリンと、風鈴のように軽い、しかし不吉な音が鳴る。ああ、奴らはすぐにそうやって『意味』を求める。意味、意義、存在証明。まるで、自分の存在が、誰かの承認無しには成立しないとでも言いたげな、まるで赤子のような甘えん坊である。
「その他大勢の、何が悪い」
俺は再度、静かに言い放った。この言葉は、奴らの心臓に、鋭利な刃物のように突き刺さるはずだ。奴らは、『その他大勢』になることを極度に恐れている。いや、嫌悪しているのだ。まるで、自分が感染症にでも罹患したかのように、『その他大勢』から距離を取りたがる。
しかし、考えてもみろ。この世界を維持しているのは誰だ。『その他大勢』ではないか。特殊な才能を持った、極々一部の『特別な人間』が、この社会の歯車を回していると思っているのか。そんなことは断じてない。
俺たちの日常を支えているのは、決まって『その他大勢』である。コンビニの店員、スーパーのレジ打ち、電車の運転手、清掃業者、そして、この何の変哲もないマグカップの製造ラインに携わる者たちだ。
彼らこそが、この世界を円滑に回している。彼らは、個性の尖り具合で給料が決まるわけではない。決められた手順を、忠実に、寸分狂わず実行することで、報酬を得ている。そして、社会は回る。
加藤は頭をガシガシと掻きむしった。
「いや、でも俺らはクリエイティブな人間じゃん? だから、既存の枠に囚われちゃいけないっていうか……」
俺『ら』とはなんだ。一緒にするな。クリエイティブ、クリエイティブ、くりえいてぃぶ。そんな言葉はもう聞きたくない。
「既存の枠が、どれほどの努力と、どれほどの時間、そしてどれほどの才能によって築き上げられたか、お前は知っているのか」
俺はコーヒーを一口啜った。舌に広がるのは、万人受けするように調整された、深煎り豆の苦味と、ほんのりとした甘み。
これがいい。これが正解だ。
「それはある種の『最適解』だ。長い年月をかけて、試行錯誤と失敗の末にようやく辿り着いた、最も効率的で、最も安定したシステムのことだ。それを『枠に囚われるな』などという安易な言葉で否定するとは、あまりにも傲慢ではないか」
俺は続けた。
「個性だなんだと騒ぐ奴に限って、その実、薄っぺらい。まるで穴の開いたポリバケツさ。どれだけ美しい色水を注ごうとも、すぐに地面に流れ出て、痕跡すら残らない。本当に大切なのは、バケツそのものの頑丈さだ。形がどうであれ、水をしっかりと蓄えられる、実用性と耐久性。それが、俺たちが目指すべき『本質』ではないのか」
ポカンとした加藤の顔には、ただただ「困惑」という二文字が張り付いていた。
「お前、それ本気で言ってんの?」
その声は、震えていた。俺の言葉が、彼のアイデンティティの根幹を揺るがしている。だが、そんなのは俺の知ったことではない。
「俺は、量産型であることに、この上ない誇りを感じている。量産型であるということは、それだけ多くの人間のニーズを満たし、それだけ多くの人間に受け入れられた、普遍的な価値を持っているということだからだ。
お前のその『個性』とやらで、この社会の何が救える? この社会を回しているのは、奇抜な発想でも、意味不明な芸術作品でもない。誰でもできることを、淡々とひたすらにこなし続ける『その他大勢』の地道な労働力だ」
俺は一呼吸置いて、彼の目を見据えた。
「お前のその、誰にも理解されない『尖った個性』とやらを、一度、この公衆便所の便器に突っ込んで、泡だらけにして洗い流してみろ。きっと、その方がよっぽど、世のため人のためになるだろう」
加藤の顔から、徐々に血の気が失せていく。彼は手元にある『オレの個性』を、まるで汚物でも見るかのように、恐る恐る見つめている。彼の中の偶像が、今、ガラガラと音を立てて崩れ去っていくのが見えた。
俺は、量産品のカップに残ったコーヒーを飲み干して立ち上がり、加藤に背を向けた。
「俺は量産型として、この社会のどこかに埋もれて静かに生きていく。それが、俺の『個性』というものだ」
カフェの自動ドアが開き、外の喧騒が、ほんの一瞬、俺の耳に飛び込んできた。
俺は、その他大勢の群衆の中に、何の躊躇もなく、溶け込んでいった。
さようなら、俺の個性。そして、ようこそ、どこにでもある、俺の生き様。
『さようなら、おれの個性』 ―完―
#この世界は
1/16/2026, 4:01:28 AM