結城斗永

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昨日のお題『寒さが身に染みて』より
(本日のお題『ずっとこのまま』は改めて投稿します)

前後編で少し長いですが、最後まで読んでもらえるとうれしいです。

※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
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タイトル『素手で触れる草は冷たい』(前編)

 グループホームの裏庭に伸びた草には、朝の雫が霜となって降りていた。先週刈ったはずの草は既に膝下まで伸びている。ため息と一緒に白い息が小さく漏れた。
 雑草というのは何故こうにもしぶといのか。抜いても抜いても生えてくる。その生命力は一体どこから湧いて出るのか――。

 数ヶ月前、うつ病で会社を辞めて以来、このグループホームで同じような悩みを抱える人々と共に暮らしている。とは言え、そう簡単に周囲と打ち解けられるほど僕は強くない。

 施設職員から受け取った真っ白な軍手に指を通し、誰とも目を合わせることなく、逃げるように裏庭の隅へ腰を下ろす。まだ硬い軍手の生地を馴染ませるように何度か握ったり開いたりしたあと、僕は凍てついた土に指を食い込ませた。

 草の先を握り持ち上げる。根っこからズルリと持ち上がった雑草を無造作にポリ袋へと放り込んでいく。本来この地に生えるべき草花のために、無駄な草を排除していく工程に虚しさを覚えながら、黙々と単純な作業を続けていく。
 
「あいつ、女に逃げられたショックでばっくれたらしいぜ。マジで弱ぇ。戻ってきたら俺が鍛えなおしてやらなきゃな」
 耳の後方で、下品な笑い声が響いた。声の主は最近入所した益岡という男だ。ガッシリとした体格に、剃り込みの入った短い髪。威圧感の塊のような彼は、道具も軍手も持たずに地面に胡坐をかき、周囲の連中にデリカシーのない武勇伝をまき散らしている。この施設で、いやこの世界で僕が最も苦手とする部類の男――。なんであんなに強そうな男がここにいるのか、皆目見当もつかない。
 周りの連中は、苦笑いなのか同調なのか判然としない曖昧な笑みを浮かべて、彼の話に相槌を打っている。

 昔の上司を思い出す。人を小馬鹿にして笑いを取り、自分の思い通りにならないと周りに怒鳴り散らして萎縮させる。あいつのせいで……。
 僕のこれまでの人生において、こういう『強さ』を武器にする人間は、いつだって僕を傷つける存在だった。
 
 もうそんな奴らに振り回されたくはない。僕は手元の作業に集中しようと再び地面へと手を伸ばす。
 しかし、心ではこれ以上考えないようにしようと思いながら、草を握る手には自然と力が入る。

「結局さ、逃げる奴はどこまで行っても逃げるんだよな。根性がねぇんだ」
 益岡の言葉は否応なく耳に入ってくる。僕ではない別の誰かの話。それなのに、まるで僕の背中に向かって投げつけられているような気がした。
 期待に応えられず、社会のレールから外れ、逃げるようにこの施設に辿り着いた僕が悪いのか。そんなのは理不尽だ。ずっと心の奥に鍵をかけてしまい込んできた見たくないものを、彼は無理やりこじ開けてくる。
 草を握る手が震える。肺に入ってくる空気で心臓の周りに氷を張ったように冷たくなっていく。
 
 ふと、視界の端でカサカサと音を立てて何かが動いた。見れば古い柿の木の根元で、枯れ葉の陰に小さな三毛猫が丸まっていた。
 ――お前も一人ぼっちなんだな……。
 社会の片隅で、誰にも気づかれずに震えているその姿に、僕はたまらなく自分を重ねた。
 僕は右手から軍手を脱ぎ去り、怯える猫を傷つけないよう恐る恐る素手を伸ばした。
 ――大丈夫だから、怖がらないで。
 しかし、僕が伸ばした指先は、尽く振るい払われた。その毛並みに触れんとする直前、猫は鋭い悲鳴のような声を上げ、さらに奥の暗がりへと逃げ込んでしまった。
 差し出した手だけが、行き場を失って空中に残る。
「……ごめん」
 思わず口に出た声は、乾燥した冬の空気をまとったようにガサガサと震えていた。
 小さく震える猫の姿に、僕はまだ伸びていた手を引っこめた。いつもそうだ。誰かに触れようとすれば、相手の方が逃げていく。
 猫に背を向けて作業に戻ろうとした時、異変に気づいた。
「あれ……?」
 さっき脱いだはずの軍手がない。風に飛ばされたのか、枯れ葉の山に紛れたのか。必死に周囲を探したが、どこにも見当たらない。
 代わりのものを貰いに行く勇気も、騒ぎ立てる度胸もない。僕は仕方なく、素手のままで草むしりを再開した。
 素手で触れる草は氷のように冷たい。千切った雑草はまるで鋭いナイフのように、僕の指先に細かい傷を残し、葉を濡らす水は針のように痛みとなって染み入ってくる。

「おい」
 雑草を引き抜いた瞬間に背後から太い声がして、僕は肩を跳ね上げた。聞きたくなかった声だ。雑草からだらしなくぶら下がる根っこが、はらはらと土を落とす。思わず息が詰まる。
「おい、聞いてんのか」
 先程よりも荒くなった声に恐る恐る振り返る。視界には木の幹のような二本の足が地面に突き刺さるように立っていた。見上げた益岡の顔は太陽の影になってよく見えなかった。
 僕を見下ろす益岡の影がわずかに動き、思わず身を引いた。しかし、次いで彼の口から放たれたのは、あまりにも意外な言葉だった。

『素手で触れる草は冷たい』 後編へ続く――。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
タイトル『素手で触れる草は冷たい』(後編)

「おい、聞いてんのか」
 背後から響く声に恐る恐る振り返る。視界に立つ二本の図太い脚。益岡の顔は太陽の影になってよく見えない。
 自分の姿を想像して思わず自嘲がこみ上げる。いまの僕はさながらあの怯えた三毛猫と変わらないほど縮こまっているに違いない。
 僕を見下ろす益岡の影がわずかに動き、思わず身を引いた。
「お前、素手で冷たくねぇの?」
 荒い口調に反して益岡の言葉はあまりに穏やかだった。まるで子供が素朴な疑問を投げるように、僕の赤くなった手を見下ろしている。
 なんと応えていいか迷いながら、嘘をついても仕方がないと高をくくる。
「……軍手をどこかに失くしてしまったので」
「はぁ? もうひとつもらえばいいじゃん」
 益岡の投げる言葉がナイフのように飛んでくる。僕は逃げるように視線を落としながら、また冷たい地面に手を伸ばす。 
「いいんです、素手のままで。失くしたのは僕の不注意ですから。これくらい、我慢します……」
 目線を手元の草に落としたまま、心の中で放っておいてくれと繰り返す。
「そんな安っちぃ軍手、何個でももらっとけよ」
 益岡の口から哀れみを含んだ笑いが漏れる。
 この男はどこまで図々しいのだろう。値段の問題じゃない。人から預かったものを失くしたうえに、もうひとつ欲しいなんて言えるわけがない。
 僕はルールを守り、人様に迷惑をかけずに生きることでしか自分の存在を肯定できないのに。この人は、そういう人の心というものがこれっぽっちも理解できないのだ。
 益岡が突然、作業場の中心にいる施設職員に向かって声を張り上げた。
「おーい! 軍手余ってねぇか?」
 静かだった裏庭に響き渡る大声。周囲の手が止まり、視線がこちらに集中する。恥ずかしさで顔から火が出そうだ。
「こいつ軍手失くしちまったんだってよ。ひとつ寄越してくれ!」
 もうよしてくれ。顔面が熱い。額から生温い汗が流れ、手のひらがじっとりと湿る。

「はいはい。わかったから大声を出すな」
 背中に職員の声が小さく響く。益岡がぶつくさと何かを呟く声が遠ざかる。振り返ると、彼は面倒そうに頭を掻きながら、新しい軍手を手にした職員の元へと歩いていた。
 僕は気づけばその背中に羨望を向けていた。あんな風に、他人の目も遠慮も飛び越えて物が言えたら、どれほど呼吸をするのが楽だろうか。
「ほら、使えよ。ったく、要領の悪い野郎だな」
 戻ってきた益岡に表情を悟られまいと、僕はまた顔を隠すように下を向く。俯いた膝の上に新品の軍手が放り投げられた。
「……ありがとうございます」
 消え入るような声で礼を言う。
 ふと、益岡の声が僕の頭の上を飛び越えた。
「お、なんだ。猫か」
 さっきの猫のことか。僕は顔を上げて、木陰に向かっていく益岡を視線で追う。彼は、僕があんなに慎重に触れようとして逃げられた猫に迷いなく近づき、大きな手をガサリと隙間に突っ込んだ。すいっと掬い上げられた猫は「ニャー!」と声を上げてもがく。
 その姿を見る益岡の目は、どこか悲しげで、それでいて優しい笑みを浮かべていた。
「お前も捨てられたのか。ひどい飼い主だよな……」
 益岡の指が、猫の頭を無造作に撫でる。不思議なことに、猫は何度か暴れた後、彼の体温に負けたように大人しくなった。その大きな手にも、彼の口から出る言葉にも、おそらく僕と同じ、あるいは僕以上の深い傷跡があることを初めて悟った。
 益岡はしばらく猫を撫でたあと地面に優しく降ろすと、こちらを振り返ってニヤリと笑った。
「お前、友達いないだろ」
 はぁ、今までの時間を返してほしいくらいだ。僕は少しだけ、彼に対して心を開き始めていた自分に戸惑いながら、精一杯の反論を口にした。
「デリカシーなさすぎます」
「デリカシー? なんだそれ、聞いたことねぇな」
 益岡はそう言うと豪快に笑い、自分の作業場所に戻っていく。
「不器用すぎる……」
 小さく呟いたその言葉は益岡に向けたつもりだったが、虚しくも自分自身の胸にぐさりと突き刺さる。
 去っていく益岡の背中は何故かとても広く見えた。それは単に体格のせいなのか、僕のなかで彼に対する何かが変わったのか分からなかった。

 新しい軍手に指を通す。やっと軍手に慣れてきた手にまた硬い生地の感触が触れる。たった一枚の生地が風を遮るだけでも、不思議と指先がじんわりと温まってくる。
 人生なんて所詮そんなもんだ。何かを失くして空っぽになったところに、また新しい何かを身に着けていくしかないんだ。

 僕の背に冬の陽光が差す。背中で受けきれない光に、僕の足元に伸びる草が艷やかに輝いた。
 素手で触れる草はまだ冷たい。だけど、その冷たさを知っているから、この軍手の温かさに助けられるのだ。
 最初はぎこちなくたって、動いていればそのうち自然と慣れてくる。今はひとまず、そんなもんだと思うことにする。

『素手で触れる草は冷たい』-完-

#寒さが身に染みて

1/12/2026, 12:57:38 PM