結城斗永

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※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。

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タイトル『嗚呼、なんと美しきこの世界』

 ――神の瞳。そう名付けられた一枚の風景写真は、二十一世紀最大の奇跡と称えられた。
 周囲を取り囲む霧がかった深緑の森を、構図の中央に配された湖が鏡面のように映し出している。湖の縁では、一切の穢れを除かれたような一羽の白い鳥が、今にも飛び立とうと羽根を震わせる。木々の隙間から漏れ入る幾筋もの光が、まるで生命を迎え入れる神の加護のように降り注いでいる。

 私はギャラリーの壁に張り出されたその写真を前に、撮影当時の光景を思い返していた。
「なんとも美しい写真ですこと」
 隣に立つこのギャラリーのオーナーが、粘り気を含んだ甘い声で感嘆を漏らす。短く太い指という指に宝石を携え、赤い絨毯に金粉をちりばめたようなタイトなドレスが、もはや段もなさないほど膨れた腹に食い込むように貼り付いている。
「あなたのお声掛けがなければ、私はこの景色に辿り着くことすらなかったかもしれない。感謝していますよ」
 私は努めて優しく柔らかい口調で返した。この写真は他ならぬ彼女の依頼を受けて撮影したものだ。こうして世界的な名声を得ることができた裏には、彼女の社会的な影響力と資金援助の功績がなかったとは言えない。

 しかし、それ以上に私はこの写真を通じて、世界に対する価値観を大きく変えられた。この深い森で流した涙の理由を、私は未だに昇華できていない。

「神が地上に降り立つ瞬間を写真に収めてほしいの――」
 数年前、突然の連絡で駆けつけた私に、彼女はそう告げた。
「ヒト・カネ・モノは余るほどある。舞台もこちらで手配するわ。その他に必要なものがあれば何でもおっしゃって」
 首元にギラギラとした宝石をチラつかせながら、彼女は私を品定めするように甘い視線を上下させる。
 それまでもいくつかの風景写真を発表し、それなりに名は知られていたが、賞と名の付くものと無縁だった私は、二つ返事でその話に乗った。彼女は微笑みながら立ち上がり、私の背後に回ると、そっと女の手がおれの腕を弄った。
「あなたの腕を信じてるわ――」
 耳元で囁く彼女の荒い息に、私の呼吸が思わず止まる。
「ところで、今晩のご予定は?」
 女から漂う甘くねっとりとした香水の香りが、私の理性を徐々に侵していく。
 
 それから一週間後。提示された座標は、東南アジアの未開の密林の奥深く。地図上では空白地帯となっている場所だった。
 私の他に、あの女が寄越したエージェントと、機材や食料の類を運ぶためのアシスタントが数名ついてきた。
 現地の案内人は、英語も通じない部族の若者たちだった。埃と汗に汚れた薄っぺらいTシャツと短パンに、華奢な身体に不相応なライフルを携えている。

 向かおうとしているその場所は『神の瞳』と呼ばれ、現地人ですら滅多に足を踏み入れることのない神域だった。
 しかし、部族の村とはいえ、文明に両足を浸かっている以上、生活の困窮には逆らえなかった。あの女が、彼らの村に寄付した『援助』という名の賄賂が、無理やり案内を承諾させたのだ。

 道中は地獄だった。道なき道を鉈で切り開き、吸血虫に肌を焼かれながら進む。アシスタントたちは邪魔だという理由だけで森の木々にナイフを立て、静寂を愛する野生動物を銃声で追い散らした。
 エージェントが手元から離さないタブレットには、常にあの女の顔面が映し出され、この現状がリアルタイムに発信されていた。
『この先に待つ美しさが待ち遠しくてたまりませんわ』
 この森に漂う異様な居心地の悪さなどまるで無視するように、画面の向こう側に見える女は恍惚な表情で言い放つ。

 人の管理から解き放たれた森は、静かで落ち着いていた。だが、『神の瞳』は話に聞くような究極の浄土とはほど遠い景色だった。
 生い茂った木々に日の光は遮られ、湖の水は濁り、鳥たちは警戒して遠巻きに鳴いているだけだった。
『これでは満足できませんわ』
 画面の女が残念そうにつぶやく。
 そこから、森は『工事現場』へと変貌した。湖の濁りを取り除くための化学薬品が大量に投入され、浮かび上がってきた魚たちに、アシスタントらが無表情のまま網を伸ばす。水中の微生物は死滅し、水面は不気味なほどに透明な鏡面に変わった。
『森と湖だけというのも味気ないわね。動物のひとつでも置いてちょうだい』
 無慈悲な女の声にアシスタントが動く。
 森に踏み入った彼らは、どこからか薄汚れた鳥を捕らえてきて、羽の一部を切りとると、湖の周辺から逃げられないように、そのか細い足首をテグスで縛り、湖近くの岩にくくりつけた。
『白さが足りないわ』
 女の声で鳥の体には漂白液がかけられた。鳥たちは悲痛にその身を震わせて鳴いた。飛び立とうにも羽根をむしられた生命は、ただその場でもがく他なかった。
「流石にひどすぎる……」
 私は腹の中で煮えたぎる胃液が喉元までせり上がってくるのをこらえながら呟いた。
『あなたをここまで連れてきたのは誰だと思っているの? 私の求める美しさを形にするために、あなたはその腕を差し出せばいいの。私が欲しいのはあなたの技術。あなたに求める『美しさ』はその体だけで十分よ』
 不意の嘔吐きのあと、体中の水分が毛穴から吹き出すような気持ち悪い心地が全身を駆け巡る。
『私が欲しいのは振り注ぐ光よ。枝を切り落として……』
 無慈悲な女の声がして、悲しさを伴わない生理的な涙で滲む視界が目まぐるしく動き始める。チェーンソーのけたたましい音が森の静寂を切り裂き、穏やかだった大地に枝葉がぼとぼとと音を立てて落ちていく。
 枝先を失った木々の隙間からは光の筋が流れる。その瞬間、私は自らの美意識を呪った。差し込んだ光が透明な湖を照らし出し、映り込んだ深緑がざわざわと音を立てる。動物たちが悲鳴を上げ、逃げ惑う。飛べない鳥はテグスに足をちぎられそうな痛みに耐えながら、それでも空を見上げてもがいている。

 私は震える手でシャッターを切った。
 浄土とはほど遠いその光景は、切り取られた景色の中では嘘のように静かだった。
 嘔吐の残渣とも感動とも知れない涙が頬を伝う。タブレットから聞こえる女の恍惚な笑いが頭に響く。
 嗚呼、なんと美しきこの世界。死に抗おうと乱れ狂う生命の躍動。

 ギャラリーに流れる優雅なクラシックの調べが、虚構の美しさに彩りを添える。
 この写真が世に出た直後から、批評家たちはこぞって賞賛の言葉を並べた。環境保護団体は、この『美しさ』を守りたいと募金を始めたが、その裏にある破壊に触れる者はいなかった。
 聖域を売った部族の若者たちは、手にした大金で酒と麻薬を覚え、今や村は壊滅状態だと聞く。

 今、私の周りで、この写真を見ながら甘いため息をつく紳士淑女の皆様方には、まるで興味のないことなのだろう。もしかすれば敢えて目を逸らしているのかもしれない。
 人は今この瞬間も、模倣された自然に歓喜し、動物の死骸に舌鼓を打つ。深いところからは目を逸らしながら、自らの薄い皮膜のような美意識に酔いしれる。
 贅沢を謳歌する裏で、どれほどの犠牲が払われ、どれほどの破壊が行われているのか、そんなことは私の意識の及ばぬところと白を切って静かな顔をする。

 そうして、死にゆく森の断末魔を、欲望を満たすために捕らわれる動物たちを、冷気に焼かれた草花の沈黙を。それら人間が踏みにじったすべての痕跡を『美しい世界』として消費する。なんとも残酷だが、それが人類の築き上げてきた『美しさ』だとすれば、我々はその賜物を甘んじて許容する他ない。

「さすが私が見込んだ男。とても美しい写真をありがとう」
 豚の腸詰のような女の指が、私の腕にそっと触れた。香水の香りがまたも理性をかき乱す。かく言う私も、その毒された快楽に飲み込まれたうちの一人。
「――ええ、本当に美しい……」
 私は美容整形を重ねて不自然に張った彼女の厚い面の皮に優しく手を添えた。彼女が私の全身を舐め回すように見つめ、私は偽物の微笑みで返す。
「今夜も待ってるわ」
 そう言って去っていく彼女の醜い背中に、クラシックの調べが美しいベールをかける。
 美しいと感じたものに、どれだけの闇があるとしても、すでに放たれてしまった感情に嘘はつけない。
 嗚呼、なんと美しきこの世界。あまりに醜い美しさのせいで、どんな景色を目にしようとも、私の胸の鼓動は常に落ち着くことがない。

  『嗚呼、なんと美しきこの世界』―完―
 
#美しい

1/17/2026, 3:20:13 AM