1/12お題『ずっとこのまま』より
※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
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タイトル『背中合わせの一メートル』
斜め後ろ、距離にしてだいたい一メートル。
このままずっとこの距離感が続けばいい。オフィスの中で背中合わせのあなたと私。決して縮まることのない、この一メートルが、きっと二人にとって最良な距離だと信じている。
今日も彼の音がする。椅子の背が軋む音、パソコンの起動音、鞄の中から書類を取り出す音。
始業十五分前。彼はいつも決まって、デスクに置かれた写真立てに手をかける。彼と奥様が並んで写る微笑ましい写真。
私はいつも彼の気配を背中で聞きながら幸せな気分になる。
「佐々木さん、おはよう」
「おはようございます、課長」
肩越しに彼の声がして、私は努めて、いち同僚としての挨拶を返す。彼は誰にでも親切で、誰に対しても一定の距離を崩さない。
ただ、彼は社内でも有名な愛妻家だ。奥様に対する愛情を隠すことなく、定時になれば迷いなく帰る。
奥様以外の女性が少しでも『異性』としての色香を漂わせれば、彼は透明な壁を隔てて距離を置くようになる。私は、そうして彼の視界から消えていった女性たちを何人も見てきた。
私は彼のそんな誠実さを愛している。だからこそ、こうして『ただの同僚』という仮面を被り、背中合わせの一メートルを保ち続けている。
午後になって、彼が席を外している間、無意識にポストイットの端に彼の名前を書いていた。その横に小さく、自分でも驚くほど歪なハートが揺れている。
「……何やってるんだろう」
自嘲に満ちたため息が出る。ふと背後で聞こえた足音に、私は慌ててポストイットを剥がし、くしゃくしゃに丸めてゴミ箱の底へ叩きつけた。彼に見せるのは、常に無機質な書類と、感情を削ぎ落とした報告書だけでいい。
その日の夜、薄暗いオフィスで、私はひとり終わらない仕事を片付けていた。集中力が途切れるたび、まだぼんやりと彼の温もりが残る斜め後ろの席に自然と意識が流れていく。
デスクに置かれた写真立てが目に入り、無意識に手が伸びていた。奥様と並んで笑顔を浮かべる彼の頬を指でなぞる。写真の中の彼には触れられるのに、現実の一メートルは遥かに遠い。
ふと、ドアの擦りガラスに映り込んだ影に気づいて自分の席へと向き直る。
近づいてくる革靴の足音を背中に聞きながら、さもずっとパソコンに向かって作業をしていたように装う。
「遅くまでお疲れ様」
すぐ後ろで聞き慣れた声がする。
「課長こそ。てっきりもう帰ったのかと……」
汗ばむ手のひらを机の下で握りしめる。
「一件対応しておきたい案件があってね」
そう言って彼は私に背を向けた。
夜の静けさが、私の理性を少しずつ溶かしていく。
今、ここでこの背中に頬を寄せて、思いの丈を伝えたら、彼はどんな顔をするだろう。いけない妄想が、甘い毒のように脳内に広がっていく。この一歩を踏み出せば、一メートルはゼロになるかもしれない。
私は喉元につっかえている言葉を、震える唇で形にする。
「……あの、課長」
「ん?」
振り返った彼の瞳は、いつも通り澄んでいる。
その瞬間、デスクの上で着信音が鳴った。液晶を見た彼の表情が、柔らかくほどける。
「悪い。妻からだ――」
通話ボタンを押し、彼は優しい声で応答する。その声を聞いた途端、胸に溜まっていた熱が静かに冷えた。
電話を終えた彼が心配そうな表情を浮かべてこちらに向き直る。
「ごめん、話を遮って……」
「いいえ、何でもないんです」
私はそう口にして小さく首を振る。
「そうか。何かあったら、遠慮なく言ってくれ」
彼はそう言い残し、荷物をまとめて立ち上がる。
「あまり遅くなるなよ。また明日――」
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
一人になったオフィスで、私は椅子に深く身体を沈める。思わず大きなため息が出た。
「声に出なくて、よかった……」
不思議と心をよぎったのは安堵だった。
もし、あと数秒早く言葉を発していたら、彼との距離は大きく離れてしまっていたに違いない。おはようの挨拶も、些細な雑談もなく、私は透明な壁の向こう側へ追いやられていたはずだ。
彼が奥様を愛している姿こそが、私の愛した彼そのものだ。その未来を壊す権利なんて、私にはない。
私は、彼がいなくなったデスクの空気を深く吸い込む。明日も明後日も、私とあなたは背中合わせの関係でいい。向き合わないからこそ、私たちは永遠に平行線のまま、どこまでも一緒にいられる。
「これからもずっと、このままで……」
明日もまた、私は世界で一番冷ややかな同僚の顔をして、世界で一番熱烈に、彼の背中を愛し続ける。
誰にも触れさせない、この一メートルの距離が、ずっとこのまま続いてほしいと祈りながら――。
#ずっとこのまま
1/13/2026, 6:08:40 PM