※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
※暴力的な表現、流血表現を含みます。苦手な方はご注意ください。
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タイトル『木枯らしに疼く古傷』
冬の冷たい風が街を抉(えぐ)っている。
木の葉を吹き散らす風を、人は情緒的に木枯らしと呼ぶが、その実態はただの暴力だ。通り魔のように街を荒らし、剥き出しの肌を突き刺し、生きる者の体温を容赦なく削ぎ落としていく。
俺は、その暴力の吹き溜まりのような路地裏で、辛うじてコンクリートの冷たい壁との境を保っていた。
右脇腹の熱は、とうに失われ、じくじくとした鈍い痛みだけが俺の意識を繋ぎ止めるように響いている。
コートの上から傷口を圧迫していた左手は、すでに自分のものとは思えないほど冷え、しばらく指の隙間から溢れていた鮮血は生気を捨て、不快な粘り気とともに腐った泥のような茶黒い塊へと変貌していた。まるで運命に抗う行為そのものが、冬の風に嘲笑われているようにさえ思えた。
皮肉なものだ。まさか十年前につけられた古傷のすぐ脇に、奇しくもその血縁による傷を受けることになろうとは。
ほんの数十分前、ここで俺の腹にナイフを突き立てたのは、まだ歳の頃は十六、七の少年だった。
組織の連中が彼に吹き込んだ嘘は、若く軟弱な少年の脳を『復讐』という劇薬で焼き切るには十分だった。
『あんたが唆(そそのか)さなければ、親父は死なずに済んだんだ――』
過程はどうあれ、結果は似たようなものだ。そこに関しては弁解の余地はない。
彼が振りかざしたナイフの軌道は、稚拙で不安に満ちていた。恐らく刃先を人に向けたのさえ初めてだったのだろう。その目に滲む殺意は手の震えに呼応するように大きく揺れていた。
彼は、俺の脇腹から溢れ出る赤黒いものを見るやいなや、絶叫と共にナイフを放り出し、暗がりの向こうへ逃げていった。
新しくできた傷は、もはや古傷の場所を隠すように覆い被さり、まるで傷が互いに手を取り合うように、忘れようにも到底拭い去れない過去が疼き出す。
今から十年前、俺がまだ二十歳そこそこで組織の構成員だった頃。兄貴分だった『兼元(かねもと)』という男と協力して、組織が事務所に隠していた裏金を密かに持ち出した。
組織から逃れるため、人目につかない漁港の陰で兼元と待ち合わせた。身を切るような寒さの中、兼元は札束の詰まったドラムバッグを手に、俺から目線を逸らすように静かに言い放った。
『すまねぇ……。俺には、堅気の世界で育てなきゃいけないガキがいるんだ』
兼元が俺に体重を預けるように寄りかかった直後、脇腹に熱が集まっていくのを感じた。そのまま蹴り飛ばされるように冬の冷たい海へと放り出された。
俺は闇に沈みながら、自分の体温が海水の中に溶け出し、やがて冷徹な無に変わっていくのを感じていた。
一命を取り留めたのは奇跡だった。
俺は名前も戸籍も捨てて新たな人生を歩みだした。とはいえ、金もなければ行く当てもない。途方に暮れるなか、風の噂で兼元が交通事故に巻き込まれて命を落としたというニュースを目にした。
組織が当時小学生だった息子の身柄を引き取ったと知ったのもその時だった。あいつが俺を裏切ってまで守ろうとした存在が、泥水の中に引きずり込まれんとしている。俺にはどうしようもなく我慢ならなかった。彼に会わなくては、と気づけば足が動いていた。
それがまさかこんな結末になろうとは。
組織が描いたシナリオは、低俗だが極めて論理的だ。俺という『過去の遺物』を裏切り者の息子という『未来の駒』に片付けさせる。これ以上のコストパフォーマンスはあるまい。
ふと、乾いた足音が、路地の入口から聞こえてきた。先ほど俺を刺して逃げていった、兼元の息子。
「まだ、生きてたのかよ……」
闇に消え入るような声で呟いた彼の目は、生きる屍でも見るように恐怖に慄いていた。
なぜ戻ってきたのかは想像がつく。どうせ組織の奴らに念でも押されたのだろう。生死は確認したのか。証拠を残すな。すべてはお前がやったことだ、落とし前は自分でつけろと。
少年は地面に落ちたままになっていたナイフを震える手で拾い上げた。構え直した刃先は宙を泳いでいる。
俺にはもう動く力も残っていない。やるならやれ。どうせ俺には帰るところもない。
「俺をあいつのところに連れて行け」
乾いた唇を無理やりに動かし、掠れる声を何とか絞り出す。少年の腕に力が入る。アスファルトを踏みしめる足が僅かに音を立てる。
「確実にやるなら、次はもっと心臓の近くを狙え……」
俺は自らの胸に指を突き立てて、彼の行く先を示してやる。
「うあ゙ぁぁぁぁ――!!」
彼の怯えるような叫び声が路地に響いた。もはやそこに彼自身の意思など感じられなかった。どうしようもない感情の行き場をただただ放り投げるような、自分以外の何かにすべての責任をなすりつけるような衝動が彼を動かしているように見えた。
振り下ろされたナイフが、俺の胸まであと一寸のところでピタリと止まる。その瞬間、彼の手首はこれまで以上に大きく震え、やがて力が抜けたようにナイフを手放した。
地面に乾いた金属音が響き、少年はまるで催眠でも解かれたように、その場にへたりこんだ。
「親父……、俺にはできないよ」
鼻をすする泣き音を纏って闇に浮かぶのは、まだあどけない十六歳の輪郭だった。
俺は尽きかけている力の限りを振り絞り、這いつくばるように彼の元へと身を寄せた。体を動かすたび、思い出したように傷口へと激痛が走り、乾いた塊を上塗りするように赤々とした鮮血が滲む。
俺は少年の手を取り、自らの傷口に引き寄せた。彼の手は柔らかく温かかった。俺の体から流れ出る熱が少年の体温と混ざっていく。
少年が涙や鼻水でぐしゃぐしゃになった赤子のような顔をその手に向けた。
「この熱を覚えておけ……」
赤く染まっていく手に彼は何を見ているのかは分からない。だが、俺はどうしても伝えたかった。命を懸けてお前を守ろうとした人間がいたことを。そして、お前にはまだ輝かしい未来が待っていることを。
俺の肺機能は限界を迎えようとしていた。一息吐くごとに血の混じった鉄の味が込み上げてくる。
「逃げろ……」
それ以上の声は出なかった。
彼は俺の手を振りほどくように立ち上がり、俺を刺した時と同じような顔で、闇の向こうへと走り去っていった。
過去の裏切りだとか、恨みの連鎖だとか、そんなものはもうどうでもよかった。
神様、どうかあいつを守り抜いてやってくれ――。
木枯らしが路地を吹き抜けた。それは神の承諾か、それとも蔑むような笑い声か。
やがて俺の肉体から溢れ出した熱は完全に失われ、コンクリートの壁との境が曖昧になる。視界が、ゆっくりと黒く塗り潰されていく。
日が明ける頃、きっと俺は乾いて石化した黒いシミになっているに違いない。そこに俺がいた痕跡などはありはしない。コンクリートの路地の片隅で、ただの汚れとして、冬の街に溶けて消えるのだ。
ただ、あの少年の行く先には明るい道が続いていることを願うばかりだ。もはや痛みすら感じなくなった俺の体には、兼元が残した古い傷の疼きだけがずっと熱を持ち続けていた。
『木枯らしに疼く古傷』―完―
#木枯らし
1/17/2026, 8:49:03 PM