このお話は『過ぎ去った未来』の第二話です。第一話をまだお読みでない方はそちらからどうぞ。
※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
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『過ぎ去った未来』第二話
五十歳の坂部真一は中堅商社で営業部長という椅子に座り、部下の失敗を肩代わりし、上層部の無理難題を現場が納得する言葉に翻訳する。そんな、砂を噛むような、けれど確かな手応えのある日常を繰り返していた。
そんな坂部も、もちろん若い頃から仕事ができたわけではない。寧ろ、二十歳の坂部がもしも今の姿を見たら、「いけ好かないヤツ」とバカにして笑い飛ばすかもしれない。それほどまでに二十歳の坂部は酷かった。親の金で大学に通いながら授業は碌に出席もせず、バイトを始めても三日と持たない。将来の展望など一ミリも持たずに、ただ「面倒くさい」という言葉を盾に、部屋の万年床でごろごろと無駄に時間を潰しているような男だった。
誰にでも『きっかけ』というのは訪れるものだ。三十歳手前で半ば拾われるように入ったバイト先が性に合っていた。叱られながら、殴られながら、それでも続けたいと思える仕事に出会った。そこからは社会の荒波にもまれながら、『責任』を全うすることで『信用』を勝ち取ってきた。今の坂部を作っているのは、そうした時間の重みだった。
だが、坂部は時々考えるのだ。
二十歳の自分――自由で責任もない、悩みらしい悩みもなかった『あの頃』に戻りたい、と。
そんな現実逃避を肴に酒を飲もうと繁華街を彷徨い歩くなか、コンクリートの建物に囲まれた路地裏で、ひときわ異質なレンガ造りの平屋を見つけた。
『たいむましぃん屋』
木目の浮かぶ板に立派な筆文字で書かれた看板は、小洒落た料理屋のようにも見えた。
扉をくぐると、カウベルが乾いた音を鳴らし、黴と埃の匂いが外気に舞った。
坂部は店内をぐるりと見渡す。そこは料理屋でもなんでもなく、アンティークショップとでも呼んだ方がまだしっくりときた。小さなランプの灯りが室内をぼんやりと照らす。はっきりとは見えないが、家具や人形、何に使うのかも分からないオブジェのようなものが所狭しと並んでいるようだ。
「いらっしゃいませ」
ふと、店の奥から男のか細い声がして、坂部はぞくりと背筋を震わせる。ランプが放つ橙色の薄明りから、じんわりと小柄な男が姿を現した。曲がった腰の後ろで手を組んでいるが、顔を見る限りでは老人と呼ぶほどの歳には見えない。
「お客人とは珍しい。まあ、おかけになってくださいな」
店主と思しき男は、徐に店に並ぶテーブルから木製の椅子を引き出すと、坂部の顔を見ながら、手でそれを差し示す。
「ここは、何の店なんです?」
椅子に腰を下ろしながら坂部が尋ねると、店主は落ち着いた声で答える。
「文字通り『たいむましぃん屋』でございます」
はっきりとしない返答に坂部は若干の苛立ちを覚えながらも、そこは長らく営業を生業としてきたものの気概とでもいうように笑顔を作り、言葉の裏を追いかけながら質問を重ねる。
「ほお。つまりは、時間を移動できるということですか?」
「意識だけ、ですがね」
店主はコクリと頷いて答える。
「あなたの意識だけを過去に転送して差し上げます。ただし、戻れるのは今から丁度三十年前のあなたの肉体に限ります」
「なんとまあ」
坂部は大げさに驚いて見せた。
「オカルトじみた話ではあるが、もし本当なら何とも奇遇だ。正にいま、二十歳の頃に戻りたいと考えていたところだよ」
「それは、それは。なんとも丁度よろしいことで」
店主が首を小さく上下させながら、不敵な笑みを浮かべた。坂部は完全に店主を信じたわけではなかった。しかし、まずは相手の言葉を最後まで聞き、その裏にあるものを探れ。営業としての鉄則である。坂部は辺りを見渡した。この店を構成するすべてのものが、胡散臭さの寄せ集めのようなものだ。もしかすれば詐欺や霊感商法の類かもしれない。過去に行くためだと目隠しでもされて、その隙に金品や個人情報を抜かれる可能性もある。坂部は店主の言葉を待った。
「過去へお連れする前に、いくつかお伝えしておくべきことがございます。『重要事項』というやつでしょうか――」
店主はどこからか一枚のペラ紙を取り出して、坂部の前にひらりと広げて見せる。店主が顔の横で人差し指を立てた。
「ひとつ、転送先ではどんな行動をとっていただいても基本的には自由でございます。ですが、もしも未来が変わったとしても、もともといらっしゃった過去のあなたは、決して肉体を捨てたわけではありません。変わらずあなたのままだということをお忘れなく」
「肉体を捨てたわけではない、というと――」
坂部は店主の言葉に、妙な回りくどさを感じて、思わず声を挟む。店主ははぐらかすように「あなたは、あなたということです」とだけ付け加えると、次いで人差し指の隣に中指が立った。
「ふたつ、転送先からは戻ろうと願えばいつでも戻ることができます。ですが、皆さま何故だか、向こうに行かれた時点でそういった意識をお忘れになるようです……。肉体は時に本来そこにあった意識の残留でもってあなたを飲み込もうとします。無意識ほど怖いものはございません。くれぐれもご注意くださいませ」
いつの間にか坂部の顔はわずかに引き攣り、額にはじんわりと汗が滲んでいた。過去の意識に飲み込まれる。二十歳の怠惰をもう一度体験したいと口にしておきながら、その怠惰に飲み込まれるのが恐ろしい。しかし、『若さ』というやつは強いエネルギーを持っている。今の自分を作ってきた過去があるのだ。たとえ飲み込まれようと、その先の未来は如何様にも代えて行けるはずだ。少なくとも、今の私が持っている『経験』と『忍耐』があれば。坂部は小さく頷いた。
「そして、みっつ、これが一番重要なのですが――」店主が三本目の指を立て、にやりと笑う。坂部は唾を飲み込む。「基本的に、転送先にはどれだけいてもかまいません。時間の制限はありませんのでね。ですが、あまり長時間の滞在はお勧めしません。時間というものはいつも危険を孕んでいますから、予期せぬ事態が起こる可能性ももちろんございます」
店主はそこで腕を降ろし、重要事項は以上です、と告げてまた口角を上げた。
すべてを聞き終えた坂部は、頭の中で店主の言葉を反芻する。思考を巡らせ、今現在と二十歳の自分を天秤にかける。『自由』、『責任』、『経験』、『余白』。ラベリングされた分銅を置くたびに、天秤の腕が小さく揺れ動きながらも均衡を保つ。しかし、そこに『若さ』という分銅を乗せたところで一気に腕が傾く。
「どうされますか?」
坂部の沈黙に痺れを切らしたように、店主の声が思考を遮った。
「お願いします」坂部は落ち着いた口調で答える。「戻してください。私を二十歳のあの頃へ」
「わかりました。少々お待ちを――」
店主が近くの古びた箪笥から懐中時計を取り出し、長い鎖を指に掛ける。だらん、と坂部の目の前に時計の文字盤がぶら下がった。
「この時計の針をしっかりと見つめてください」
店主がそう言って腕を小さく左右に動かすと、時計が振り子のように大きく揺れた。時計のチクタクという音が、坂部の鼓動と重なっていく。次第に坂部の視界がぼんやりと霞み、世界が光に包まれた。
『過ぎ去った未来』第三話に続く
1/25/2026, 10:50:31 AM