11/27お題『心の深呼吸』
深呼吸の極意
一、鼻からお腹に空気を溜めるようにたっぷり息を吸いましょう。
二、三秒ほど息を止めて、心を落ち着かせましょう。
三、吸った時間の倍の時間をかけて、口からゆっくり息を吐きましょう。
時には立ち止まるのも必要です。
本日の掌編小説は、多忙につき、心の深呼吸をしてから、明日のお題と一緒に投稿します。
#心の深呼吸
タイトル『忘れない方法』
十歳のミユは忘れ物ばかりで、しょっちゅう先生にもお母さんにも怒られていた。上履き、宿題、水筒、給食袋。ちょっと前まで覚えているのに、気づいたら忘れている。
「もう、ミユったら。また忘れたの?」
そう言われても、ミユには答えようがない。だって、気がついたら風船のように飛んでいってしまうのだから。
ある日、ミユは頭のすぐ上に浮かぶ昨夜のハンバーグを見て、ふと思いつく。
「風船みたいに『ひも』でくくっちゃえばいいんだ!」
ミユは、すぐに押し入れの奥から手芸用のひもを持ち出して、浮かんでいるハンバーグにひょいっとひもを垂らす。ぐるぐると巻いて、結び目をつけ、静かにそっと手を離す。
すると、ハンバーグは空中でぴたっと止まり、ぽよん、と軽く揺れた。
「やった!」
そこからはどんどん楽しくなって、浮かんでいる記憶を見つけては、片っ端から結んでいく。
学校の思い出、両親の言葉、友達の笑顔、そして近所の猫までも。ミユの周りに、色とりどりの記憶がどんどんと浮かんでいく。
ある時、ミユは自分の体がふっと軽くなるのを感じた。足元を見れば、わずかに地面から浮いている。
次第に地面は離れていき。ミユは思い出の風船にに引っぱられながら、空へ、空へと吸い込まれていった。
雲が近づくなか、ミユの前に、小さなころの記憶がぷかぷかと浮かび上がる。
小学校に入った日のランドセルの重さ。
幼稚園で友達と喧嘩して泣いた日の鼻水。
赤ちゃんのころに感じたお母さんの温もり。
ミユは、目に入るぷかぷかを片っ端からくくりつけていく。その度に、空へ昇るスピードはどんどんと上がっていく。
あっという間に雲が視界を覆い、遠くから短い心音が聞こえてくる。お母さんのお腹の中で浮かびながら感じた温かい音。
心音のリズムをくくりつけて、ミユの身体はさらに加速度を増して上がっていく。
下を見ると、すでにミユの家も街もどこにあるのか分からないほどに小さくなっていた。
雲を抜けると、そこは全く知らない世界。街の風景、家の形、人々の格好、そのどれもがミユの住んでいる街のものとは違っていた。それなのになぜか感じる懐かしさがあった。
人々は、笑ったり泣いたり、時に争ったり抱き合ったりしながら、ミユの横を通り過ぎていく。
徐々に空が薄暗くなってくる。
夜と昼が溶け合っているような不思議な空の色。
猿に近い姿をした人々が、たき火を囲みながら談笑し、槍を持って大きな生き物を追いかける。
と思えば、毛むくじゃらの両手両足で地面を蹴り上げて、うっそうと茂る森の中を駆けていく。
ゴォォという激しい音が近づいてくる。
視界の先では、たくさんの岩の塊が火に包まれながら飛んできては空気の中で散っていく。
ドカン!
と目の前に浮かんだ火山が噴火したかと思えば、一転して目線が高くなる。目の前を翼竜が飛び、足元を小さな恐竜が素早く駆けていく。私は首の長い恐竜のようで、視界を大きく振りながら、辺りを悠々と見渡す。
辺りはすっかり暗くなった。太陽の光と星空が一緒に広がる不思議な景色。まるで太陽の光が夜の闇に吸い込まれていくようだった。
それは、まるで深い海のようにも見えて、暗がりの中でチカチカと光る魚やイカのような、それよりもっと単純で透明なものが目の前を漂っている。どれもミユが初めて見るものだったが、それらはなんとなく生きている気がした。
とうとう泡の音も、水の音も消え、辺りは静寂に包まれる。しんと張り詰めた暗闇の中、もはや形すらも分からないものがふわふわと浮かぶ。生きているのかも分からない。ミユ自身も自分が動いているのか、ましてや自分と闇の境界線すら分からない。
いつしかミユの周りに集まった思い出は、ひもも見えないほどに大きくなっていた。
時間も空間も飛び越えて、様々な生物、自然の記憶が混在している。それでも、ミユの心は確かにそこにあり、懐かしいという感情はいつまでも残っていた。
――そっか、浮かんでいった思い出は、ここに帰ってこようとしてたんだね。また別の誰かの思い出になるために。
ミユを覆う思い出が、暗闇の中に消えていく。次第にミユの心に、体の輪郭が蘇ってくる。
目を開けると、ミユは部屋の真ん中で横になっていた。
とても壮大な夢を見た気分。早くお母さんに伝えたくて、廊下をバタバタと走っていく。
「ねぇ、お母さん。すごい夢見た!」
キッチンで晩御飯の準備をしていたお母さんが、驚いた様子でミユを全身で受け止める。
「あら、どんな夢なの?」
お母さんに答えようとして、ミユがはたと動きを止める。
「あれ、なんだっけ?」
夢の内容は、すっかりミユの頭から消えていた。
「忘れちゃった」
「もう、ミユったら」
ミユが笑って、お母さんも笑う。
そうして、ミユの頭の上に思い出がひとつ、またぷかぷかと浮かんで空の彼方へ飛んでいくのだった。
#時を繋ぐ糸
掌編小説『葉を落とした木』
十一月も終わりに近づくと、街にはすでに冬の雰囲気が漂っていた。
今日は久々にバイトもなく、気分転換に散歩でもしようと街へ出た。吸い込んだ冷たい空気が肺を凍らせるように息苦しさを感じて思わず立ち止まる。
踏み付けた枯れ葉が、虚しく情けない音を立てた。落ちてしまった期待が壊れ、信頼が崩れる音。
『頼まれ事は試され事』
中学時代、サッカー部の顧問がよく言っていた口癖は、今でも俺の心に刻まれていた。
周囲の期待が自分を成長させる。その言葉を信じて、今のバイト先でも、シフトの交代やら雑用やら、殆ど断らずに引き受けた。逆に断れば相手を裏切るように思えて怖かった。
気づけば、面倒くさい仕事は全部俺に回ってきた。薄々気づいてる。自分はただ都合よく使われてるんだろうって。それなのにまだ現状を変えるのが怖い。
ドクン――と胸の奥が波打って、急に視界がチカチカと白く光る。瞬間、景色がグワンと揺れた。膝が自分の重みに耐え切れなくなったように崩れ落ちる。薄れゆく意識の中で、枯れた葉がガサガサとノイズのような音を立てて砕けていく。
――おーい、副島(そえじま)。
ぼんやりとした意識の中で、中学時代の親友、中岡(なかおか)の声がする。
同じサッカー部で、二人揃って万年補欠。俺が補欠なのは練習しなかったからだけど、中岡の場合は顧問と相性最悪だったからだ。
――副島ぁ、生きてっかぁ?
次いで聞こえてくる中岡の声が妙にリアルに響く。
◆◇◆
目を覚ますと病院のベッドの上に寝かされていた。
点滴の管を負った先に、看護師の制服を着た中岡の姿があった。成人式の時に『看護の専門学校に通ってる』って言ってたけど、まさかこんな形で再会するとは。
「おっ、気づいたか?」
俺の視線に気づいて中岡がニカッと笑った。しかし、すぐに真顔に戻り、心配そうな声に変わる。
「道の途中で倒れてたってよ。ちゃんと休んでんのか?」
「いや……、最近忙しくてさ。でも、頼まれ事は試され事だし――。まあ倒れてちゃザマァないけど」
笑ったつもりが、我ながらみっともない声だった。
中岡は鼻で笑う。
「まだあいつの言葉引きずってんの?」
「引きずってるって……。一応、座右の銘なんだけど」
中岡は昔からズバッと物を言うタイプで、俺は彼のそんなところが気に入っていた。
「あんなん、学生こき使うための言葉だろ」
そして、顧問と喧嘩する理由でもある。
しばらくして、俺の腕から点滴の針が抜かれ、中岡が小さな絆創膏を貼ってくれた。
ふと窓の外に、ほとんど葉を落とした木が見えた。どこか寒々しい様相が俺によく似てる。
「葉っぱの落ちた木ってみすぼらしいよな。まるで俺みたいだ――」
頭の中で独り言を言ったつもりが、気づいたら口に出ていた。
中岡が「お前何言ってんの?」と相変わらずの口調で眉を跳ね上げた。
「逆だよ。お前は葉っぱ付け過ぎなの」
「俺が――付け過ぎ……?」
意外な言葉に俺は思わず問い返す。
中岡は腕を組み、わざとらしくため息をつく。
「いいか、冬になったら太陽も出ないし、水も吸い上げにくくなる。木にとっちゃあ過酷な状況ってわけ。そんな時でも葉っぱは栄養もらいたいわけじゃん。そしたらどうなる?」
「木が、枯れる……」
中岡の言わんとしていることが分かって、少し声が震える。
「そう。だから木は栄養残すために、自分の意志で葉を落とすんだ。みすぼらしいからじゃない」
中岡の言葉が胸の奥で根を張るように広がる。もっと早く中岡とこの話ができていたら、俺はもう少し自由に生きてこられただろうか。
「俺、背負うものを間違えてきたんだな……」
「人の期待に応えたいってのも悪いことじゃないと思うけどさ、そればっかりだと、いつかほんとに枯れちまうぞ」
情けないけど、少しだけ涙がにじんだ。
「おい、泣くなよ。気持ち悪ぃな」
「……泣いてねぇよ」
俺は中岡に顔を見せたくなくて、しばらく窓の外の葉を落とした木を眺めていた。
すっかり体調も良くなって病院を出る頃には、日も落ちかけて寒さが増していた。並木の木々は相変わらず寒そうに見えたが、春に向けての準備だと思うと、幾分か温かさを感じた。
スマホを確認すると、バイト先から『新人が休んじゃって、代わりに入ってくれる?』のメッセージ。
「落としてみるか……」
『今日は体調崩してて無理です』と入力し、緊張に震える指で何とか送信ボタンをタップする。
すぐに既読がつき、返事が来る。
『大変なとこ悪かった。ゆっくり休めよ』
緊張が緩んで思わず笑いが出る。
――なんだ、意外と普通じゃん。
もうすぐやってくる冬を、自分のために生きよう。そう思えた時、不思議と足取りも軽くなった気がする。
俺が足を踏み出すたび、カサカサと軽快な音が、葉を落とした木々の間で豊かに響いていた。
#落ち葉の道
タイトル『いつものポタージュ』
恵(めぐみ)からの返信が来なくなって、今日で三日目。今日も『おはよう』のメッセージに既読がついたのを確認して、いつもの朝が始まる。
恵はたまに「ひとりになりたい」と漏らす。それから数日はこうして一切の連絡が途絶える。
ベットから出て顔を洗い、歯を磨く。朝食は決まって一枚のトーストとお湯を注ぐだけのポタージュスープ。恵もこのスープが好きだった。
満員電車に押し込まれて職場に向かい、黙々と仕事に励む。仕事終わりにスーパーでを買い物をして、夕食後は恵と何度も観た映画を流しながら洗濯物を畳む。
恵のことを考えない時間はないけれど、自分のリズムだけは崩さないように、日々を静かに送っていた。
もちろん初めは戸惑った。
何か気に障ることをしただろうか、彼女を傷つけるようなことを言ってしまったか、と。考えれば思い当たる節がないわけではないし、どんな些細なことも原因に思えてくる。
閉ざされた心の扉は、いくら力づくで開けようとしてもよりきつく閉まるだけだった。
ある日思い切って理由を聞いてみたら「たまにあることだから気にしないで」と言う。その日から『そういうものなのか』と思うようにした。
だから、いまはただ、触れるか触れないかのところに寄り添って、心の扉が自然と開くのを待つ。それが最良に思えた。
その週の土曜日、ベランダで洗濯物を干しているとインターホンが鳴った。
玄関を開けると、恵が俯いて立っていた。
「……久しぶり」
表情は暗く、言葉も短かったが、ひとまずはその声を聞けただけで、胸がすっと温かくなる。
「おかえり……」
僕も短く返事をする。
「たまたまスーパーで見かけたら飲みたくなって――」
そう言って恵が差し出したビニール袋には、毎朝飲んでいるポタージュスープが一箱だけ入っていた。
「ありがとう……。上がってく?」
僕がそう言うと、恵は少し顔色を伺うような素振りを見せながらも、ゆっくり頷いた。
ソファに座った彼女は、指先を落ち着きなく動かしている。僕はキッチンでやかんにお湯を沸かしながら、マグカップを二つ用意する。
しばらくして恵の重い口が開く。
「ありがとう……。もうだいぶ落ち着いた」彼女の言葉に、僕はただ黙って頷く。「……ずっとそばにいてくれたのは分かってる。なんていうか、その……」
恵が言葉を詰まらせる。
「無理に話さなくてもいいよ」
僕は食器棚から取り出したお揃いのマグカップに、彼女が買ってきたスープの粉末を移す。
「ううん、話したい」
恵が俯いたまま静かに呟く。
「……時々、理由もなく怖くなるの――。人に触れれば触れるほど、ひとりになっていく気がして……。ひとりになりたくないのに、気づいたら心に鍵をかけてる」
沸騰したお湯がふつふつと音を立ててやかんの口から溢れ出す。俺は静かに火を止めて、湯面が落ち着くのを待つ。
「私――」静かな部屋に、やかんの口から漏れる湯気だけが立ち上っていく。「鍵の開け方、わかんなくなっちゃった……」
恵が一層顔を伏せた。
返すべき言葉を探しながら、沸騰したお湯をマグカップに注いでいく。枯渇した粉末が熱湯を吸収し、膨張しながら溶けていく。
結局、そんな言葉は見つからなかった。どんな言葉も慰みにはならない気がした。
スープの上に残った粉末の塊を、ティースプーンでお湯に落としすように軽くかき混ぜる。スープの表面にできた白い泡の渦は、次第に馴染んでとろみを増していく。
僕は湯気の立つマグカップを恵に差し出した。
「どうぞ――」
彼女は両手で包み込むようにカップを受け取る。僕は拳一個分空けて彼女の隣に座る。
「僕は恵のためなら、いくらでも待てる」
あまりにも自然に口に出た。――いや、この距離だから言えたんだと思う。
「僕は僕のまま、いつもと変わらない姿で君を迎えるよ」
恵が小さく微笑んでカップに口をつける。僕も続いてスープを一口含む。喉元へ落ちていくスープが体の内側を通るたび、芯からじんわりと温まっていく。
「やっぱりなぁ……」
「やっぱり……?」
恵の横顔が先ほどより温かく見える。
「私の鍵……、あなたのスープだった」
そう言ってもう一度カップに口をつける。
部屋にはいつもと変わらない空気が漂っていた。ソファに二人並んで、いつものあの映画を観ながらただ静かにスープを飲む。どこにでもある普通のスープが、2人の間に流れる沈黙をゆっくりと温かく溶かしていく。
ホラー掌編『支配からの開放』
※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ふざけるな。こんなのは息子の絵じゃない!」
社会を統治する規範AI『ルリア』が吐き出した『再修正版』を見て、俺は怒りを覚えた。
息子が描いた家族三人の絵は、無情にもより写実的なタッチに修正され、ルリアの象徴である光の柱が三人を包むように付け加えられていた。
『真田(さなだ)様。この絵には、家族の一員であるルリアが描かれていませんでしたので、修正いたしました』
もはや人間は、思う通りの絵を描くことすら許されないのか。人間の個性など、ルリアにとっては世界の秩序を妨げる障壁でしかないのか。
「何が家族だ。私たちに寄り添うふりをして、飼い慣らしているだけだろ」
俺の叫びに反応して、ルリアが警告を発する。
『反逆的言動を確認しました。社会評価レベルを引き下げます』
翌日、出社した俺を上司が神妙な面持ちで待ち受ける。
「おまえ、またルリアに反抗したのか――」
昨日の件はすでに上司にバレていた。
「この工場はルリアシステムで成り立ってるのは分かってるだろ。余計な真似はよしてくれ」
上司の脅すような言い方にカチンとくる。
工場のラインは効率重視のため、全てがルリアによってロボット制御されている。人間に与えられた仕事は、監視カメラの映像を眺め続け、ごく稀に起こる小さなエラーをルリアに報告すること。そして、その責任を取ること。言わば、ルリアとルリアの間に挟まれた中間管理職。
――所詮、ルリアの奴隷になってるだけだ。このままじゃ、俺は人間でいられなくなる。
俺はすべてが恐ろしくなって工場をあとにした。
その後もルリアは携帯デバイスから警告を発し続ける。
『行動計画を逸脱しています。業務に戻ってください』
デバイスの電源をオフにしても無駄だった。街頭のモニターには俺の顔が映し出され、街中のスピーカーからルリアの声が響く。
『あなたは反逆的行為を行っています。直ちに道を修正してください』
どこまで行ってもルリアの監視からは逃れられない。
監視ドローンの気配を後方に感じながら家路を急ぎ、玄関の戸を開ける。家に入るや否や、妻が心配そうな顔で駆け寄ってきた。
「あなた、全国ニュースになってるわ……。もうこんなことやめて、ルリアの指示に従って――」
怯えた表情で俺の袖を引く妻の後ろで、デバイスに映るルリアからの指示が目に入った。
『真田様の説得を試みてください――』
窓の外で監視ドローンのサイレンが鳴り響く。
「まさか、お前もルリアの言いなりなのか――?」
胸の奥から込み上げる悲しさに、思わず妻の手を引き剥がした。奥のソファで眠る息子に歩み寄り、そっと額にキスをする。
「俺は負けない。必ずルリアに打ち勝って、またここに戻る」
俺は泣き崩れる妻を背に家を去った。
監視ドローンの追跡はより一層激しさを増した。
ルリアの象徴のようなサーチライトが行く手を阻む度、別の道へと引き返す。
追われながら、時に岩場の陰に隠れ、険しい山を越え、どんどんと都心から遠ざかっていく。同時に支配からの解放が近づいてくる。
やがて、まるで映画のワンシーンに出てくるような何もない荒野に出た。スピーカーやモニターもなく、ドローンの追跡もない。ルリアの警告すらもしばらく聞いていない。
――ようやくこの時を迎えた。
破れた服の隙間から入り込む赤土が肌にしみる。すり減った靴裏には血が滲んでいた。
その痛みが実感となって、心の底から声が湧き上がる。
「自由だ……。やっと自由を手に入れたぞ!」
天を仰ぐと、降り注ぐ太陽に思わず目が眩む。
思わず瞑った目から涙が零れ……落ちて……。
バタン……。
足元が抜ける音の直後、内臓が浮き上がるような感覚が全身を襲う。重力には抗えず、俺の体は地中深くへと落ちていく。
…………ポツン――。
俺は額を打つ水滴で目を覚ました。
薄暗いコンクリートの部屋。四肢はベルトで拘束され、身動きが取れなくなっていた。ただ、天井から差し込む一筋の光の下で、モニターがひとつ煌々と光っている。
『あなたはルリアの想定した反逆者ルートを予定通り通過しました』
映し出された文字に愕然とする。
――反逆者……、予定通り……?
『ランダムな抽選により、あなたはルリアのスケープゴートとして選ばれました。次の役割が与えられるまで待機してください』
薄暗い部屋に、無慈悲な声が響く。
――この世界はとっくに狂ってる……。
◆◇◆
『昨晩発生した自動運転バス暴走事故の続報です。当局は内部システムにハッキングした疑いで、反ルリア派の真田――容疑者を逮捕しました。真田容疑者は過去にもルリアシステムへの反逆行為を繰り返しており――』
ニュース映像に、拘束された真田が映し出される。
『なお、運転制御に用いられるルリアシステムに設計上の不具合はなく、復旧後は通常通り運転を再開しているとのことです――』
ニュースを読み上げるルリアの声に人々は安堵する。
こうして今日も世界の秩序はルリアによって保たれるのだ。
#手放した時間