結城斗永

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11/23/2025, 1:06:37 AM

タイトル『紅の記憶』

百貨店の化粧品売場。陳列棚に並ぶ私のライバルたちは同じ形に見えても、それぞれに個性的な色を秘めている。
私は、その中でも『紅』と呼ばれるにふさわしい色を持っていると、自分に密かな自信を持っていた。

売場を訪れた美鈴(みすず)が、真剣な表情を私たちに向けている。その奥には大きな覚悟と小さな不安のようなものが滲んでいた。
君の唇から小さな悩みの言葉が漏れる度、すぐにでもその瑞々しく柔らかそうな口元に身を滑らせたかった。一刻も早く君の自信の源になりたいと願った。

君の唇には、きっと私のように深みのある紅が映えるに違いない。君の透き通った白い肌とも相性がいいはずだ。この先君の人生に訪れるちょっとした晴れ舞台を、より色鮮やかなものにしてあげられる。

君の細くしなやかな指が、私を持ち上げてくれたときの高揚感は、今でも鮮明に覚えている。君が私を選んでくれたのは、きっと私の強い気持ちが通じたからだろう。


その日、小さなダンススタジオの練習スペースで、壁一面に貼られた鏡に向かう君を、私は化粧台のポーチの影から眺めていた。
あれからまだ一度も美鈴の唇に触れていなかったが、その理由は私も理解をしていた。
私の出番は、アイドルを目指す君にとっての晴れ舞台となる翌日のオーディションであると知ったからだ。

最終調整のために、大きな鏡に向かって真剣な眼差しで踊る君はとても力強く美しい。
身を翻すたび長い黒髪が揺れ、飛び散る汗が場の光をキラキラと照り返す。美鈴の柔らかな唇が力強く歌詞を放つ度、早くあの唇を私色に染めて、君をもっと輝かせたいと期待に胸を膨らませた。

練習を終えて化粧台にやってきた美鈴の指が、ゆっくりとポーチに伸びて私に触れる。
じっと私を見つめる君の目には、決意と不安が入り交じっていた。
美鈴の指が私の体をひねる。私はここぞとばかりに、深く情熱的な紅色を見せつけた。
――もっと自信を持て。君ならきっと大丈夫。
先ほどより少し明るさを増した顔で、うんと小さく頷いた君を見て、私は少し驚いた。きっと君も自らに同じ言葉を告げたんだろう。

いよいよオーディション当日。
控室の化粧台に座る君の表情はとても強張っていた。辺りを見渡せば、美鈴と歳の近い少女たちが各々に発声やダンスの練習をしている。
私はポーチの中で、ただ静かに君の決意が固まるのを待った。君の唇が小さく動き、『私はできる』と何度も繰り返す。やがて私に伸びた手は微かに震えていた。

君は私を持ち上げ、私の秘めたる情熱をひねり出す。私の表面が君の柔らかい弾力に触れ、君の温かさに溶けていく。その唇に深い紅が乗っていくにつれ、私の情熱が伝わるように、君の表情には自信がみなぎっていく。
最後、思いを噛み締めるように紅を馴染ませると、君は力強く口角を上げて笑顔を作る。
強い決意と覚悟が、君の唇に乗った私の断片を通じて伝わってくる。
君は両手で私を包みこむと、目を閉じてその手を額にかざした。その手にぐっと力が入り、彼女の熱が伝わってくる。
『神様、私に力をください』
そうつぶやいた君は、私をポーチでなく、衣装のポケットへと導いた。

舞台袖で出番を待つ君を、ポケットの中で静かに見守る。体が小さく震えているのが分かる。
もう一度、君の手がポケットの中の私に伸びてくる。
私を握り込む手にはじっとりと汗が滲んでいた。
私は内なる情熱を君に捧ぐ。そして君の不安を全て引き受ける。だから心配しないで。そっとエールを送る。

意を決して舞台に上がる美鈴の姿が、照明に照らされる。
私は自分の色に自信を持っている。周りに並ぶどのライバルにも負けないほどの深く鮮やかな『紅』を自負している。私の色は光の中でより一層輝く。
そして、私にとって君はここにいる誰よりも美しく、他の誰よりも誇らしい。
だから、君は自分を信じて、君が今までやってきたことをそのまま見せればいい。
君が抱える不安は全て私に預けて、君の内にある溢れんばかりのその情熱を、この場に解き放ってやるんだ。

#紅の記憶

11/21/2025, 6:32:33 PM

タイトル『私の手を握る夢』

最近の私は、まるで夢でも見ているように順風満帆だった。
仕事の成績も上り調子で、来月からは昇進も決まった。友人にも恵まれ、すべてが前向きに進んでいる。
でもどこかで後ろ髪を引かれる感覚が残っているのは、あの夢のせいだ。
あの夢だけが今の私にとっての唯一の闇だった。

その夢を初めて見たのは1週間ほど前。
暗闇の中で、誰かが私の手を握っている。ただそれだけの短い夢。誰の手なのかも、その温度すらも分からない。ただ得体のしれない気配が遠くからじっとこちらを見つめていた。

ある日、友人の亜美(あみ)にその事を話してみた。
「夢なんだから気にしなけりゃいいのに……」
「でも、手を握られる夢で不安を感じるときは、運気低下のサインだって……」
最近読んだ雑誌で夢診断の特集を見てから、ますます不安が募っていた。
「有紗(ありさ)ってほんとそういうの気にするよね」
亜美が呆れたように笑う。
「それより、来月の旅行計画、そろそろ詰めないと」
亜美がカバンから旅行雑誌を取り出す。彼女と数人の友人が、私の昇進祝いにと北海道旅行を提案してくれた。
「いい旅行にしたいね」
私は本当にいい友人に恵まれてる。

その日の夜、またあの夢を見た。
不思議なことに、握られた手にわずかな温もりを感じた。確かに握られている感触。その時間が昨日よりわずかに長く感じられた。

スマホの着信音で目が覚める。画面には上司の名前。
『おい、何してる。とっくに出社時間過ぎてるぞ』
時計を見て慌てて飛び起きる。急いで準備をして職場に着いた頃には、すでにお昼前だった。
「昇進が決まって浮かれてるんじゃないのか?」
上司の言葉が胸に刺さる。
ふと、私の手を誰かが握っているような感触を覚える。夢の中とは違う、冷たくまとわりつくような感覚に、恐怖で思わず手を振り払う。

その日から、まるで外の世界から私を引き剥がそうとするように、徐々に夢の時間は長くなっていった。
どれだけアラームの音量を上げても、目覚まし時計の数を増やしても意味がない。
夢の中にあるのは手を握られる温かさだけ。静かに過ぎていく何もしない時間が心地よくて、もう少し夢の中に留まりたくなる。
次第に数十分が数時間になり、そしてついには目が覚めると丸一日が経つようになった。

病院で診てもらっても『睡眠障害』の一言で片付けられてしまい、渡された薬も全く効果がない。
当然、無断欠勤も続き、会社からはとうとう解雇通知まで出される始末。
手を握られているような感覚は、夢の外でも続いたが、夢の中とは対照的にその感触は不快極まりなかった。
「きっといろいろストレスが溜まってるんだよ。ちゃんと休んだ方がいい」
そう言ってくれる亜美だけが私の味方だった。

現実が私を追い詰めるほど、夢の世界が私を受け入れるように温かみを増していく。
『あり……さ…………』
夢の中で私を呼び止めるような声を何度か耳にした。まるで私を外に出したくないかのように、悲しげに祈るような声。どこか懐かしい温度を持った、優しい声。
気づけば、私は自ら夢の中へと落ちていく。温かい手に握られたまま過ぎていく時間を享受する。だんだんと分からなくなる時間の感覚の中で確かなのは、夢の世界の方が私の居場所になっているという感覚だけ。

次に目を覚ましたのは、眠りについた時から一ヶ月が経過した後だった。真っ暗な部屋にはどんよりとした空気が漂っている。
山のように溜まったスマホの通知の中に、亜美からのメッセージも数十件にわたり残されていた。
『有紗、大丈夫?』
『相談のるよ。連絡待ってる』
『ねぇ、返事ぐらいして』
『わかった、もう連絡しない』
三日前のそのメッセージが最後だった。とうとう亜美にも見放された。もうこの世界にいるのがつらい。
――いっそ夢に籠もってしまおうか。

あれからもうどれほどの間、夢の中にいるのだろう。
ほんとにここは夢なのか。あの世界こそ夢だったんじゃないのか。そんな気さえしてくる。
今もこうして誰かが私の手を握っていてくれる。この手の温もりだけが私の支え。
ふとその手を握り返してみたくなった。
夢まどろみの中、思うように動かない指に意識を集中する。ゆっくりと力を加えていくと、ある一点で、ふっ……と指先が小さく動いた。
その瞬間、暗闇の中に再びあの声が響いてくる。
『……せい…………』
指先に力が入る度、声は段々と鮮明になっていく。
『……先生、有紗の指が……』
そこで声の正体にようやく気づく。ずっと忘れていた。
――ごめんなさい、ありがとう、ただいま……。
いろんな感情が湧き上がり、思わず指先に力がこもると同時に、暗闇に走った亀裂から一筋の光が差し込んでくる。
――やっと長い夢から覚めるんだ。
視界を白い光が包み込む。病室のベッドで目覚めた私の目の前で、母が安堵に満ちた表情で大粒の涙を流していた。そして、私の手を握る母の手は夢の中よりも、もっともっと温かかった。

#夢の断片

11/20/2025, 9:45:31 PM

11/19『吹き抜ける風』
11/20『見えない未来へ』
2日分なのでとても長くなりますが、
前後編の続き物ですので、ぜひ最後までどうぞ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
前編【吹き抜ける風】

今朝も通勤路のビル街には冷たい向かい風が吹き抜け、刃となって頬を刺す。その度に冷たい風は無情な問いを投げかけてくる。
『お前はこの道の先で何がしたいんだ――』と。

食品メーカーの企画営業。だが、企画とは名ばかりで、配達ついでに立ち話で商品説明をして、サンプルを置いてくるだけの、もはやルーティン業務。会社に戻れば、翌日の納品準備で残業続き。家に帰る頃には、すでに翌朝のことを考えている。
こんな生活がきっとこの先何年も続くんだろう。
想像できる未来が暗すぎて、踏み出す足も重くなる。

いっそのこと、この風が心の中にあるモヤモヤしたものを綺麗さっぱり拭い去ってくれればいいのにと何度願ったことか。
しかし、残酷にも冷たく鋭い風の刃は、心の表面をじわじわと削っていくだけだった。

そんなある日、大学時代の友人、高村からメッセージが届いた。
『今度、企画会社を立ち上げたの。近々イベントがあるから遊びに来ない?』
添えられていたフライヤーの一番上に印字された『秋風アートフェス』の文字に心が躍る。彼女は学生時代からアートイベントの企画を夢みていた。卒業してから会う機会は減ったけれど、あの頃の熱量は変わっていないらしい。

学生時代は今よりもたくさん笑っていた気がする。
未来は常に希望に満ちていて、先に見える景色はすべてが明るく見えた。あの時胸に抱いていた野望や夢といったものは、いつしかどこかに置き去られてしまった。
もはやどこで落としたのかもわからず、その形も曖昧だ。

イベント当日、秋晴れの空が広がる公園の広場に足を踏み入れると、色とりどりのテントとフードトラックが並び、思った以上の賑わいに目を見張った。
コーヒーの香り、油の香ばしさ、ペンキの匂い、レジンの甘い香りが混ざり合い、風に乗って流れてくる。

ふと、一つの書アート作品の前で足が止まる。
たったの一文字『道』という力強い筆文字を、色鮮やかな花の絵が取り囲む。どれもそこら中に咲いている路傍の花。
「よかったらお好きな文字をお書きしますよ」
テントで実演をしていた作家が声をかけてくる。
「いえ、これをいただけますか?」
俺は『道』の文字が書かれた色紙を手に取る。

「お買い上げ、ありがとうございます」
ふと背後から声がする。振り返るとそこにはイベントTシャツにジーンズ姿の高村が、学生時代と変わらない笑顔で立っていた。
「久しぶり。大盛況だね」
会計を済ませながら辺りを見渡す。
「私も驚いてる。作家さんたちがそれぞれに告知してくれたおかげかな」
言われてみれば、来場者の何人かはアーティストの作品を身につけていた。中には長い間使い続けられているであろう物も見える。
「作家さんって個性の塊だから、準備は正直めっちゃ大変。だからこそ形になった時の達成感はやばいよ。毎回、新しい発見ばっかりだし」
そう語る彼女の横顔は、自信に満ち溢れていた。

「ちゃんと夢を叶えててすごいな」
思わず本音が漏れた。
高村は少し照れたように笑い、ふと真顔になる。
「もしかして、興味ある?」
「え?」
意表を突かれ、素っ頓狂な声が出た。どんな顔をして会場を眺めていたのだろう。自分でもわからない。
「これ、名刺。いつでも連絡していいから」
差し出された名刺には『代表』の文字が輝いて見えた。

夕暮れ時の帰り道、購入した『道』の色紙を手に街を歩く。夕日の差し込むビルの谷間に、いつもより柔らかい風が吹き抜ける。
――この道の先で何をしたいのか。
風の問いかけは変わらなかった。そこにまだ明確な答えは出なかったが、俺は心の奥の方で小さく何かが動くのを感じていた。

#吹き抜ける風

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
後編『見えない未来へ』

『先週は来てくれてありがとう』
あのフェスの翌週、高村から再び連絡があった。
『来週の金曜日、次のイベント準備が始まるんだけど、ちょっと手伝ってみない? 平日だし、仕事なら無理しないで』
もちろん金曜日も通常営業。休みを取るにも、有給の申請書を見る上司からの冷たい視線が容易に想像できる。
俺は先週購入した『道』の色紙を改めて見つめる。
――この道の先で何がしたいんだ。
風の問いが蘇る。俺は『行くよ。調整してみる』と返信していた。何故だか行かなきゃいけないような気がしていた。まだ見えない道の先に、何かがあると信じたかったのかもしれない。

翌週金曜日の朝8時。会場となる公園の広場へ向かうと、あの日とは違う騒がしさがあった。空のテントの下には、それぞれの作家が持ち寄った什器や段ボールが積まれている。作家たちは、既に慣れた様子で各々の作業を進めていた。

高村は数人の部下たちに指示しながら、全体の指揮を執っていた。イートインスペースの設営や、会場内を流れる音響の調整などをフォローしながら、作家の声がかかればそちらに飛んでいく。
目の前のすべてが忙しなく動いている。不思議と明るい混沌がそこにはあった。

俺は高村と一緒に、イートインスペースに設置する組立式テーブルと椅子の準備に加わった。
作業をしながら高村が申し訳なさそうな顔で言う。
「わざわざ休み取ってくれたんだって?」
「ああ、気にしないで」俺は笑顔を作って首を横に振る。「こっちの方が興味あったから」
そう答えると高村の表情に若干笑みが戻る。

「ねぇ、高村さん。ちょっと来てちょうだい」
すぐ脇にある作家のテントから女性の声がする。
「はい、今行きます!」
高村が立ち上がり、テントに向かう。テントの脇では作家二人が何やら揉めている。並ぶ商品を見る限り、どうやら陶芸作家と服飾作家らしい。
高村が合流すると、陶芸作家の方が困ったような表情を浮かべて口を開く。
「作風が違いすぎるから、少し間隔を置きたいんだけど……」
「今さらそんなこと言われてもねぇ」
服飾作家の顔にも苛立ちが見える。すでに陳列を終えていて、テントには原色を基調とした花柄の服が並んでいた。確かに作家の手元にある落ち着いた雰囲気の陶器とは大きく異なっているが、素人目に見れば違和感を感じるほどではない。
ふと高村が俺の耳元で囁くように言う。
『困ったわね。今回初出店なんだけど、こちらからお声掛けしてるから無碍にもできないし……』
俺は辺りを見渡す。すると、すぐ隣はあの時の書アート作家だった。俺は彼のテントに向かい、声をかける。
「あの……、ちょっといいですか?」
「あれ、この前のイベント来てくれましたよね」
男性作家が嬉しそうな笑みを浮かべる。軽い挨拶を交わし、本題に入る。
「もし大変でなければ、お隣と場所を入れ替わることはできますか?」
俺の言葉に高村と陶芸作家もこちらを振り返る。俺は陶芸作家の方に向き直る。
「この作家さんの作風なら、ちょうどお二人の間でクッションになると思うんです。高村はどう思う?」
高村に問いかけると彼女は首を大きく縦に振った。

ブースを入れ替えるため、男性作家の手伝いをしていると、高村がそっと近づいてきた。
「ありがとう。助かった」
何気ない言葉だが、それがとてもうれしかった。思えば、今の仕事で感謝の言葉をかけられることなんてほぼなかったから。

ブースの入れ替えが終わり、引き目に全体を見渡す。
書アートの筆文字と花の絵は、想像通り、淡い陶器を花柄の服を調和してくれた。
作家たちもみな納得いったようで、その後は大きな不満も出ることはなく、イベント開始の時刻がやってきた。

「はぁ、一時はどうなることかと思ったよ――」
会場全体を見渡しながら高村がホッと胸をなでおろす。
「思った以上に大変なんだね」
「主役は作家さんたちだからね。実際動いてみないと見えないことだらけで、毎回何かに気づかされる」
高村が噛み締めるように言う。
――動いてみないと見えないこと……か。
あの風の問いに、わずかばかり光が差したような気がした。
「俺も頑張んなきゃな……」
ふと漏れた言葉に高村が反応する。
「頑張るんじゃなくて、楽しむんだよ。どうせやるなら面白いと思える方向に向かわなきゃ」
「そうだな、楽しまなきゃ」
俺は笑みで返す。
未来は先が見えないからこそ、無限の可能性を秘めている。今の行動一つでこの先の何かが変わるかもしれない。
公園を風が吹き抜ける。遠く忘れていた気持ちをそっと届けてくれるような優しい風だった。

#見えない未来へ

11/20/2025, 8:09:06 AM

11/19お題『吹き抜ける風』

今日のお題と一緒に
後ほどnoteに投稿します🙇

https://note.com/yuuki_toe

11/18/2025, 8:15:59 PM

※9/29から続く水墨画シリーズの続きです。
『落款の花』と題して連作化します。
 前回10/27『消えない焔』から続く第四話です。
 水墨画の世界を旅する少年と鵺のお話。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
 湖から続く道をたどり、少年とともに旅を続ける鵺(ぬえ)はとある廃村にたどり着いた。
 鋭い線で描かれた藁葺き屋根の家々に人の気配はなく、ただ白く乾いた空気だけが吹き荒んでいる。
 妖術を使い切った鵺は、慣れない二本足におぼつかない足取りだった。村の中ほどに差し掛かったところで蹴躓き、盛大によろけた体はそのまま脇にあった酒樽の山へと倒れ込んでいく。
 がしゃん――と鵺の頭の上で木製の樽が音を立てて砕け散り、中に溜まっていた酒が鵺の全身に被さるように降り注ぐ。鼻を突く甘い香りの奥に、ふわりと熱のようなものが漂う。肺を通る空気が滲む淡墨のように全身を巡り、視界が大きく歪む。久しぶりの感覚。
 ――おかしい。我がたかだか酒などに酔わされるはずが……。
「だ、大丈夫ですか?」
 少年の問いかけが頭の中で反響する。視界がゆがむ。しかし、鵺は自らを奮い立たせ何とか意識を保ちながら、「当たり前だ」と短く答えた。

 鵺は視界の外れに人のような影を見て振り返る。
 ――まさか人間などいるはずがあるまい……。
 次いで体を向けると、確かにそこには人のかたちをした何かが倒れ込んでいた。それは長く伸びた髪に、体表を猿のような灰色の毛に覆われ、腰に瓢箪を括りつけた妖の姿であった。
 ――夢猩々(ゆめしょうじょう)か……。
 酒と踊りを愛し、酔う者の夢を喰って生きる猿の妖。相当弱っているようで、本来真っ赤な体毛もすっかりその色を失っていた。
「ここで何をしている」
 鵺は猩々に声をかけながら、その背を軽く叩く。すると、よろよろと体を起こした猩々は掠れた声で応えた。
「夢も……記憶も……全部置いてきてしもうた――」猩々の視線が村の奥へと伸びる。「どこじゃったかな……赤提灯の中じゃ……」
「赤い毛並みもそこに忘れてきたのか?」
 鵺の問いかけに、猩々はまるで眠りの中で首を落とすようにこくりと頷いた。

 鵺は猩々とともに、赤提灯を求めて村中を探し回った。しかし軒にぶら下がる提灯はいずれも白い。
「何か手がかりはないのか」
「赤提灯は……酔いの淀みの中じゃ……」
 そう言って猩々は腰の瓢箪をぐいと差し出す。鵺は瓢箪に入った酒をあおり、視界はさらに歪んだ。
 鵺の酔いが回るほどに、視界の先に赤い灯火がぼんやりと浮かんで見えた。ぽつんとひとつ、輪郭も朧げで虚空に揺らめく鬼火のような灯りに、自然と鵺の意識は吸い込まれてゆく。

 でんでん――ひょろろ――でんひょろろ。
 次第に鵺の回りを笛や太鼓の賑やかな音が行き交う。軒を埋め尽くすように並ぶ赤提灯の先は酒気で満され、人々の熱が渦まいていた。皆一様に踊り狂い、赤ら顔には笑みが浮かぶ。
 猩々は人々の輪の中で舞いながら、人々の頭に浮かぶ陽気な夢をつまんでは、口へと運ぶ。その度に猩々の体毛が赤みを帯びていく。
「愉しかろう、愉しかろう。お前さんも一緒にどうじゃ」
 すっかり赤くなった猩々に手を引かれ、鵺も渦の一部となる。熱気の中で踊り明かすほどに、鵺の体に力が漲っていく。

 永遠に続くかと思われた宴は、どこからか流れ込んだ白い煙によって、突如として終焉を迎えた。
 白い煙はあっという間に村を覆い尽くす。赤提灯は再び白くなり、人々の姿も消えていく。
 煙は鼻口を抜け、肺に尖った灰を落としていく。鵺は喉の奥を針が刺すような刺激に耐え切れず、思わず咳き込んだ。鉛でも飲み込んだかのように体が重くなる。

 それでも鵺は踊ることをやめなかった。踊らねばならぬ気がした。その身を鼓舞しながら、猿のように赤い顔で、虎のように力強く、蛇のように身をくねらせながら、胸の内に漲る鼓動だけを頼りに踊り続けた。その姿に釣られて猩々も踊りだす。白く漂う静寂の中に二つの熱だけが舞い続けた。
 ぽつりぽつりと白提灯が赤く灯っていく。
「お前さんの夢も美味そうじゃ」
 猩々が鵺の頭上に手を伸ばし、夢をひとつ、またひとつとつまんでいく。次第に鵺の意識が薄れていく。
 眠けにも似た、ぼんやりとする視界の中で、赤く色づく気配が鵺の心に赤い灯火を落とす。

 微睡みの中で鵺は自分を呼ぶ声を聞いた。
 次第に鮮明になる声は、あの少年のものであった。
「鵺様、起きてください――」
 鵺の目の前にぼんやりと少年の顔が浮かぶ。体を起こすと、辺りにはあの酒樽が転がっていた。
 鵺はずんずんと痛む頭を抱えながらあたりを見渡す。藁葺き屋根の軒には提灯もなければ、宴の残響すら残っていない。
 ――夢を見たのか?
 すでに曖昧になりつつある記憶を手繰りながら、鵺は猩々の姿を探す。遥か遠く、満足そうに腹をさする赤い影が村の奥に消えていくように見えた。
 途端、鵺の胸にぽつりと残る赤い灯火が、ぼぅと明るくなり、焔鯉が鵺の中に残した火種がわずかにその大きさを増した。

#記憶のランタン
#落款の花

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