結城斗永

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タイトル『私の手を握る夢』

最近の私は、まるで夢でも見ているように順風満帆だった。
仕事の成績も上り調子で、来月からは昇進も決まった。友人にも恵まれ、すべてが前向きに進んでいる。
でもどこかで後ろ髪を引かれる感覚が残っているのは、あの夢のせいだ。
あの夢だけが今の私にとっての唯一の闇だった。

その夢を初めて見たのは1週間ほど前。
暗闇の中で、誰かが私の手を握っている。ただそれだけの短い夢。誰の手なのかも、その温度すらも分からない。ただ得体のしれない気配が遠くからじっとこちらを見つめていた。

ある日、友人の亜美(あみ)にその事を話してみた。
「夢なんだから気にしなけりゃいいのに……」
「でも、手を握られる夢で不安を感じるときは、運気低下のサインだって……」
最近読んだ雑誌で夢診断の特集を見てから、ますます不安が募っていた。
「有紗(ありさ)ってほんとそういうの気にするよね」
亜美が呆れたように笑う。
「それより、来月の旅行計画、そろそろ詰めないと」
亜美がカバンから旅行雑誌を取り出す。彼女と数人の友人が、私の昇進祝いにと北海道旅行を提案してくれた。
「いい旅行にしたいね」
私は本当にいい友人に恵まれてる。

その日の夜、またあの夢を見た。
不思議なことに、握られた手にわずかな温もりを感じた。確かに握られている感触。その時間が昨日よりわずかに長く感じられた。

スマホの着信音で目が覚める。画面には上司の名前。
『おい、何してる。とっくに出社時間過ぎてるぞ』
時計を見て慌てて飛び起きる。急いで準備をして職場に着いた頃には、すでにお昼前だった。
「昇進が決まって浮かれてるんじゃないのか?」
上司の言葉が胸に刺さる。
ふと、私の手を誰かが握っているような感触を覚える。夢の中とは違う、冷たくまとわりつくような感覚に、恐怖で思わず手を振り払う。

その日から、まるで外の世界から私を引き剥がそうとするように、徐々に夢の時間は長くなっていった。
どれだけアラームの音量を上げても、目覚まし時計の数を増やしても意味がない。
夢の中にあるのは手を握られる温かさだけ。静かに過ぎていく何もしない時間が心地よくて、もう少し夢の中に留まりたくなる。
次第に数十分が数時間になり、そしてついには目が覚めると丸一日が経つようになった。

病院で診てもらっても『睡眠障害』の一言で片付けられてしまい、渡された薬も全く効果がない。
当然、無断欠勤も続き、会社からはとうとう解雇通知まで出される始末。
手を握られているような感覚は、夢の外でも続いたが、夢の中とは対照的にその感触は不快極まりなかった。
「きっといろいろストレスが溜まってるんだよ。ちゃんと休んだ方がいい」
そう言ってくれる亜美だけが私の味方だった。

現実が私を追い詰めるほど、夢の世界が私を受け入れるように温かみを増していく。
『あり……さ…………』
夢の中で私を呼び止めるような声を何度か耳にした。まるで私を外に出したくないかのように、悲しげに祈るような声。どこか懐かしい温度を持った、優しい声。
気づけば、私は自ら夢の中へと落ちていく。温かい手に握られたまま過ぎていく時間を享受する。だんだんと分からなくなる時間の感覚の中で確かなのは、夢の世界の方が私の居場所になっているという感覚だけ。

次に目を覚ましたのは、眠りについた時から一ヶ月が経過した後だった。真っ暗な部屋にはどんよりとした空気が漂っている。
山のように溜まったスマホの通知の中に、亜美からのメッセージも数十件にわたり残されていた。
『有紗、大丈夫?』
『相談のるよ。連絡待ってる』
『ねぇ、返事ぐらいして』
『わかった、もう連絡しない』
三日前のそのメッセージが最後だった。とうとう亜美にも見放された。もうこの世界にいるのがつらい。
――いっそ夢に籠もってしまおうか。

あれからもうどれほどの間、夢の中にいるのだろう。
ほんとにここは夢なのか。あの世界こそ夢だったんじゃないのか。そんな気さえしてくる。
今もこうして誰かが私の手を握っていてくれる。この手の温もりだけが私の支え。
ふとその手を握り返してみたくなった。
夢まどろみの中、思うように動かない指に意識を集中する。ゆっくりと力を加えていくと、ある一点で、ふっ……と指先が小さく動いた。
その瞬間、暗闇の中に再びあの声が響いてくる。
『……せい…………』
指先に力が入る度、声は段々と鮮明になっていく。
『……先生、有紗の指が……』
そこで声の正体にようやく気づく。ずっと忘れていた。
――ごめんなさい、ありがとう、ただいま……。
いろんな感情が湧き上がり、思わず指先に力がこもると同時に、暗闇に走った亀裂から一筋の光が差し込んでくる。
――やっと長い夢から覚めるんだ。
視界を白い光が包み込む。病室のベッドで目覚めた私の目の前で、母が安堵に満ちた表情で大粒の涙を流していた。そして、私の手を握る母の手は夢の中よりも、もっともっと温かかった。

#夢の断片

11/21/2025, 6:32:33 PM