結城斗永

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※9/29から続く水墨画シリーズの続きです。
『落款の花』と題して連作化します。
 前回10/27『消えない焔』から続く第四話です。
 水墨画の世界を旅する少年と鵺のお話。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
 湖から続く道をたどり、少年とともに旅を続ける鵺(ぬえ)はとある廃村にたどり着いた。
 鋭い線で描かれた藁葺き屋根の家々に人の気配はなく、ただ白く乾いた空気だけが吹き荒んでいる。
 妖術を使い切った鵺は、慣れない二本足におぼつかない足取りだった。村の中ほどに差し掛かったところで蹴躓き、盛大によろけた体はそのまま脇にあった酒樽の山へと倒れ込んでいく。
 がしゃん――と鵺の頭の上で木製の樽が音を立てて砕け散り、中に溜まっていた酒が鵺の全身に被さるように降り注ぐ。鼻を突く甘い香りの奥に、ふわりと熱のようなものが漂う。肺を通る空気が滲む淡墨のように全身を巡り、視界が大きく歪む。久しぶりの感覚。
 ――おかしい。我がたかだか酒などに酔わされるはずが……。
「だ、大丈夫ですか?」
 少年の問いかけが頭の中で反響する。視界がゆがむ。しかし、鵺は自らを奮い立たせ何とか意識を保ちながら、「当たり前だ」と短く答えた。

 鵺は視界の外れに人のような影を見て振り返る。
 ――まさか人間などいるはずがあるまい……。
 次いで体を向けると、確かにそこには人のかたちをした何かが倒れ込んでいた。それは長く伸びた髪に、体表を猿のような灰色の毛に覆われ、腰に瓢箪を括りつけた妖の姿であった。
 ――夢猩々(ゆめしょうじょう)か……。
 酒と踊りを愛し、酔う者の夢を喰って生きる猿の妖。相当弱っているようで、本来真っ赤な体毛もすっかりその色を失っていた。
「ここで何をしている」
 鵺は猩々に声をかけながら、その背を軽く叩く。すると、よろよろと体を起こした猩々は掠れた声で応えた。
「夢も……記憶も……全部置いてきてしもうた――」猩々の視線が村の奥へと伸びる。「どこじゃったかな……赤提灯の中じゃ……」
「赤い毛並みもそこに忘れてきたのか?」
 鵺の問いかけに、猩々はまるで眠りの中で首を落とすようにこくりと頷いた。

 鵺は猩々とともに、赤提灯を求めて村中を探し回った。しかし軒にぶら下がる提灯はいずれも白い。
「何か手がかりはないのか」
「赤提灯は……酔いの淀みの中じゃ……」
 そう言って猩々は腰の瓢箪をぐいと差し出す。鵺は瓢箪に入った酒をあおり、視界はさらに歪んだ。
 鵺の酔いが回るほどに、視界の先に赤い灯火がぼんやりと浮かんで見えた。ぽつんとひとつ、輪郭も朧げで虚空に揺らめく鬼火のような灯りに、自然と鵺の意識は吸い込まれてゆく。

 でんでん――ひょろろ――でんひょろろ。
 次第に鵺の回りを笛や太鼓の賑やかな音が行き交う。軒を埋め尽くすように並ぶ赤提灯の先は酒気で満され、人々の熱が渦まいていた。皆一様に踊り狂い、赤ら顔には笑みが浮かぶ。
 猩々は人々の輪の中で舞いながら、人々の頭に浮かぶ陽気な夢をつまんでは、口へと運ぶ。その度に猩々の体毛が赤みを帯びていく。
「愉しかろう、愉しかろう。お前さんも一緒にどうじゃ」
 すっかり赤くなった猩々に手を引かれ、鵺も渦の一部となる。熱気の中で踊り明かすほどに、鵺の体に力が漲っていく。

 永遠に続くかと思われた宴は、どこからか流れ込んだ白い煙によって、突如として終焉を迎えた。
 白い煙はあっという間に村を覆い尽くす。赤提灯は再び白くなり、人々の姿も消えていく。
 煙は鼻口を抜け、肺に尖った灰を落としていく。鵺は喉の奥を針が刺すような刺激に耐え切れず、思わず咳き込んだ。鉛でも飲み込んだかのように体が重くなる。

 それでも鵺は踊ることをやめなかった。踊らねばならぬ気がした。その身を鼓舞しながら、猿のように赤い顔で、虎のように力強く、蛇のように身をくねらせながら、胸の内に漲る鼓動だけを頼りに踊り続けた。その姿に釣られて猩々も踊りだす。白く漂う静寂の中に二つの熱だけが舞い続けた。
 ぽつりぽつりと白提灯が赤く灯っていく。
「お前さんの夢も美味そうじゃ」
 猩々が鵺の頭上に手を伸ばし、夢をひとつ、またひとつとつまんでいく。次第に鵺の意識が薄れていく。
 眠けにも似た、ぼんやりとする視界の中で、赤く色づく気配が鵺の心に赤い灯火を落とす。

 微睡みの中で鵺は自分を呼ぶ声を聞いた。
 次第に鮮明になる声は、あの少年のものであった。
「鵺様、起きてください――」
 鵺の目の前にぼんやりと少年の顔が浮かぶ。体を起こすと、辺りにはあの酒樽が転がっていた。
 鵺はずんずんと痛む頭を抱えながらあたりを見渡す。藁葺き屋根の軒には提灯もなければ、宴の残響すら残っていない。
 ――夢を見たのか?
 すでに曖昧になりつつある記憶を手繰りながら、鵺は猩々の姿を探す。遥か遠く、満足そうに腹をさする赤い影が村の奥に消えていくように見えた。
 途端、鵺の胸にぽつりと残る赤い灯火が、ぼぅと明るくなり、焔鯉が鵺の中に残した火種がわずかにその大きさを増した。

#記憶のランタン
#落款の花

11/18/2025, 8:15:59 PM