タイトル『紅の記憶』
百貨店の化粧品売場。陳列棚に並ぶ私のライバルたちは同じ形に見えても、それぞれに個性的な色を秘めている。
私は、その中でも『紅』と呼ばれるにふさわしい色を持っていると、自分に密かな自信を持っていた。
売場を訪れた美鈴(みすず)が、真剣な表情を私たちに向けている。その奥には大きな覚悟と小さな不安のようなものが滲んでいた。
君の唇から小さな悩みの言葉が漏れる度、すぐにでもその瑞々しく柔らかそうな口元に身を滑らせたかった。一刻も早く君の自信の源になりたいと願った。
君の唇には、きっと私のように深みのある紅が映えるに違いない。君の透き通った白い肌とも相性がいいはずだ。この先君の人生に訪れるちょっとした晴れ舞台を、より色鮮やかなものにしてあげられる。
君の細くしなやかな指が、私を持ち上げてくれたときの高揚感は、今でも鮮明に覚えている。君が私を選んでくれたのは、きっと私の強い気持ちが通じたからだろう。
その日、小さなダンススタジオの練習スペースで、壁一面に貼られた鏡に向かう君を、私は化粧台のポーチの影から眺めていた。
あれからまだ一度も美鈴の唇に触れていなかったが、その理由は私も理解をしていた。
私の出番は、アイドルを目指す君にとっての晴れ舞台となる翌日のオーディションであると知ったからだ。
最終調整のために、大きな鏡に向かって真剣な眼差しで踊る君はとても力強く美しい。
身を翻すたび長い黒髪が揺れ、飛び散る汗が場の光をキラキラと照り返す。美鈴の柔らかな唇が力強く歌詞を放つ度、早くあの唇を私色に染めて、君をもっと輝かせたいと期待に胸を膨らませた。
練習を終えて化粧台にやってきた美鈴の指が、ゆっくりとポーチに伸びて私に触れる。
じっと私を見つめる君の目には、決意と不安が入り交じっていた。
美鈴の指が私の体をひねる。私はここぞとばかりに、深く情熱的な紅色を見せつけた。
――もっと自信を持て。君ならきっと大丈夫。
先ほどより少し明るさを増した顔で、うんと小さく頷いた君を見て、私は少し驚いた。きっと君も自らに同じ言葉を告げたんだろう。
いよいよオーディション当日。
控室の化粧台に座る君の表情はとても強張っていた。辺りを見渡せば、美鈴と歳の近い少女たちが各々に発声やダンスの練習をしている。
私はポーチの中で、ただ静かに君の決意が固まるのを待った。君の唇が小さく動き、『私はできる』と何度も繰り返す。やがて私に伸びた手は微かに震えていた。
君は私を持ち上げ、私の秘めたる情熱をひねり出す。私の表面が君の柔らかい弾力に触れ、君の温かさに溶けていく。その唇に深い紅が乗っていくにつれ、私の情熱が伝わるように、君の表情には自信がみなぎっていく。
最後、思いを噛み締めるように紅を馴染ませると、君は力強く口角を上げて笑顔を作る。
強い決意と覚悟が、君の唇に乗った私の断片を通じて伝わってくる。
君は両手で私を包みこむと、目を閉じてその手を額にかざした。その手にぐっと力が入り、彼女の熱が伝わってくる。
『神様、私に力をください』
そうつぶやいた君は、私をポーチでなく、衣装のポケットへと導いた。
舞台袖で出番を待つ君を、ポケットの中で静かに見守る。体が小さく震えているのが分かる。
もう一度、君の手がポケットの中の私に伸びてくる。
私を握り込む手にはじっとりと汗が滲んでいた。
私は内なる情熱を君に捧ぐ。そして君の不安を全て引き受ける。だから心配しないで。そっとエールを送る。
意を決して舞台に上がる美鈴の姿が、照明に照らされる。
私は自分の色に自信を持っている。周りに並ぶどのライバルにも負けないほどの深く鮮やかな『紅』を自負している。私の色は光の中でより一層輝く。
そして、私にとって君はここにいる誰よりも美しく、他の誰よりも誇らしい。
だから、君は自分を信じて、君が今までやってきたことをそのまま見せればいい。
君が抱える不安は全て私に預けて、君の内にある溢れんばかりのその情熱を、この場に解き放ってやるんだ。
#紅の記憶
11/23/2025, 1:06:37 AM