結城斗永

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11/17/2025, 2:20:50 PM

※11/6のお題『冬支度』を読んでいただけると、より楽しめるかと思います。
ぜひ併せてお楽しみください。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

拝啓 白き旅人『冬』殿

いやぁ、冬殿!
元気にしておられますかな?
冬殿が国を去られてから数日が経ちましたが、こちら南の王国は、いまだに冬殿の話題で持ちきりでございますぞ。
王のわたしとしては、冬殿が残してくれたあの冷たい贈り物をどうにか夏まで蓄えておけまいかと考えておるのですが、どうにも冷凍庫へのしまい方がわからず困っておるところです。

さて、こうして筆を執りましたのは……何と申し上げればよいか。
そう、冬殿にお越しいただいたお礼と、その後の近況をお伝えしたいと思いましてな。
まずは南の王国を代表して、この度のご来訪を熱く、いや暑く御礼申し上げます。

いやぁ、冬殿、あの『白い息』というやつ、あれは本当に大人気でしたぞ。
冬殿が帰られた後も、子どもたちは大はしゃぎで「どっちが息を白くできるか競争しようぜ!」と勝手に大会を開くほどでございます。

料理長にいたっては、冷たくなったスープ鍋を見て最初こそ目を回しておりましたが、翌日には「冬殿に捧ぐ冷製スープを作ります!」と、張り切って新しい鍋を抱えておりました。
これがまた国民にウケましてな。「夏が戻っても食べたい」という声が後を絶ちませぬ。次に冬殿がお越しの際には、より一層美味しくなった冷製スープをお届けできるものと思っているところであります。

織物係も「毛布がこんなに売れたの、生まれて初めて!」と泣き笑いしておりました。
ここのところ、織り機も休むことなく稼働しております。国に流れるサンバのリズムに、新たなパーカッションの音が加わったようで、国民もより一層にぎやかな陽気に包まれております。

そして、なんと言っても、冬殿がお見せくださった『雪』という魔法がなんとも粋でしたなぁ。
空から静かに落ちてくる白い粒が、あれほど美しいとは思いもよりませんでした。
それまで白い粒と言えば、砂糖かココナッツでしたからな。中には口を開けて天を仰ぐ者までおりましたぞ。
わたしも積もった雪をひと掬い食べてみましたが、どうやらわたしにはジェラートの方が口に合うようです。

思い返せば、あの夜の焚き火の橙色と雪の白が混じり合った風景──。
あれはわたしの王歴の中で、間違いなく最上級の『名場面』です。宮中画家にあの光景を描かせなかったことが悔やまれるほどであります。
次にいらっしゃる時には、ぜひ冬殿をモデルに王室に飾る絵を描かせていただきたいものだ。

はてさて、冬殿が我が国にお越しくださった際、どうにも心残りに思っていることがございます。

わたしども、冬殿に喜んでいただこうと『温かいおもてなし』ばかりを準備しましたが、冬殿にとっては、あれは些か無粋なおもてなしだったのかもしれませんな。
スープは凍るし、毛布も霜だらけ、焚き火の火は雪粒になるし。
我々は張り切っておりましたが、うっかりとして、冬殿のお好みを伺わずじまいでございました。

それでも冬殿は、ふわりと微笑んで、静かに旅路を歩き去られた。あれがまた良かったんですよ。
なんというか、ああいう『無言の優しさ』、我が国の国民性から考えて、今まで触れることのなかった文化でして。

ですので、次にいらっしゃるときはぜひ、冬殿のお好みを先に教えてくだされば、こちらもそれに向けて精一杯のご準備をいたします。

静かなもてなしをご所望とあれば、太鼓隊と踊り子には少々休んでいてもらいましょう。
白いものがお好きなら、ココナッツの実を全部磨いて国の至る所に飾りましょう。
何もいらぬというのであれば、ただ隣で夏についてのお話を差し上げましょうぞ。

そしてこれは何より大切なことでありますが、国民が、本当に本当に冬殿の再来を待ち望んでおります。

「また冬殿は来てくれるのか?」
「次は雪だるまというものを作ってみたい!」
「冬殿のために薪をもっともっと集めておこう!」

とまあ、国じゅうがそんな調子でして、わたしも毎晩焚き火を前にすると「また冬殿に会いたいなぁ」と思いがよぎるのです。

南国ゆえ、夏ばかりが我が物顔をしていましたが、冬殿のおかげでこの国に『もうひとつの季節』が宿りました。
どうか時間と風の流れのままに、またいつかふらりとお越しください。いつでも歓迎しますぞ。
その日のために、毛布を畳んで、焚き火の火種を絶やさずにお待ちしております。

また会えるその時まで、ご壮健に。
白き旅人の道行きが、穏やかな静けさに包まれますようお祈り申し上げます。

敬具
夏しか知らなかった国の王より


#冬へ

11/17/2025, 4:16:24 AM

 十九時を少し過ぎたオフィスの駐車場。営業車の窓から小さく細い三日月が浮かんでいるのが目に入った。そのか弱い姿が、今にも消えてしまいそうな私の気力と重なって思わず溜息が漏れる。
 残業続きの毎日。アスファルトの地面にヒールの踵が落ちる度、浮腫んだ足にずんと重い感触が伝わる。
 ――でも、負けちゃいけない。
 私は自分自身を奮い立たせながら、電気の消えたオフィスビルへと歩みを進める。
 
「お疲れ様、珍しいね――」
 喫煙スペースに君の姿を見つけて、思わず声をかけていた。冷たそうな壁に背をもたれ、細身のスーツパンツで気だるそうに煙草を咥える君の姿は、空に浮かぶ三日月よりも凛と研ぎ澄まされたような雰囲気があった。私より五歳下の後輩なのに、その姿は妙に大人びていた。
「遅くまでお疲れ様です。先輩もまだ仕事ですか?」
 君は私に気づいて姿勢を軽く正すと、空気を切るような低く鋭い声で答える。
「何件か急ぎの対応があってね。でもすぐ終わる」
 私は疲れた表情筋に鞭打って笑顔をつくる。明日には明日の仕事が入ってくる。今日できることは終わらせておきたかった。

 部長には『もっと後輩に仕事をふれるようになれ』と諭されたが、後輩にはできれば負担を押し付けたくはなかった。だから後輩には努めて笑顔で接した。自分が少し残って片付ければそれですべてが終わる。
 対して君は、自分の芯を持っていて他人に媚びたりしない。任せられた仕事は卒なくこなし、いつも冷静で周りが指摘する前にすべてを片付けていた。だから、君がこうして夜のオフィスに残っているのは少し意外だった。

 ――君みたいになりたい。
 気づけばそう感じることが多くなっていた。後輩に憧れるなんておかしな話かもしれないけれど。
「君は強いよね。落ち着いてるし――芯があるっていうか……」
 言うつもりじゃなかった本音が零れた。君は驚いた顔をして少しだけ視線をそらした。
「そんなんじゃないです。ただ周りに負けたくないだけで――」
 君の言葉はいつも少し冷たくて、少し温かい。身を刺す夜風の中で、なぜか胸の奥が熱を持つ。
「君って『月』みたいだな――って思う。静かだけど、凛としてて研ぎ澄まされてるっていうか……」
「月って――自力では輝けないんですよ」
 君は皮肉めいた口調で笑った。
「そういうつもりじゃ……」
「――早く終わらせちゃいましょう」
 私の言葉を遮るようにそう言って、君はそそくさと仕事に戻っていく。その背中にはか細く冷たい月明かりが差しているように見えた。


 それから数日後。朝から大粒の雨がだった。部長に呼び出され、背後に社内の視線を受けながらプレゼン用資料の間違いを指摘される。大きな問題にはならなかったものの、ついで事のようにまたチクチクと小言が入る。
『後輩とうまくやれてるのか?』
『最近、集中力が欠けてるんじゃないのか』
『時間の管理も仕事のうちだぞ』
 強い先輩でいたいのに――。部長の言葉が胸に刺さる度、喉の奥が枯れたように痛む。

「――先輩はちゃんとやってます」
 デスクに戻った私の背後から、君の声がした気がして振り返ると、君はすでに自分のパソコンに向かっていた。思わず涙が溢れそうになるのをぐっとこらえて、心の中だけで『ありがとう』と告げる。
 君はいつも少し冷たく、少し温かい。

 その日の夜、休憩所の窓辺で外を見ていた君を見つけて声をかけた。
「今日はありがとう」
「何がですか?」
 君は視線を外に向けたまま、そっけない返事をする。
「君の言葉に助けられたから」
 しばらくの間があって、君が静かに口を開く。
「先輩、前に私のこと『月』みたいって言ってくれましたよね……」
「あぁ……あれね。気にしないで。君はちゃんと輝いてるよ。むしろ私より強いくらいに――」
 顔を伏せながら思わず本音が漏れ出る。
「強いですよ、先輩は――」意外な言葉だった。「――ちゃんと気付いてます。先輩が無理して笑ってること……」
 寸前で堪えていた涙が溢れ出る。涙なんて誰にも――特に君には見られたくなかったのに――。
「『月』みたいって言葉、妙に腑に落ちました。ずっと先輩のこと、太陽みたいな人だと思ってたから……。先輩はいつも笑ってて、それなのに自分で自分のことを燃やし続けてる」
 君の横顔が、あの日よりも少し膨らんだ月に照らされて静かに影を落としている。
「――そんなんじゃ……ない……」
 嗚咽でうまく声が出ない。とてもうれしいのに、なぜか出てくるのはいつもの強がり。君の細くしなやかな指が私の手を包み込む。月の光のように柔らかい。
「もっと甘えてください。私、照らされて輝くタイプなんで」
 君が静かに笑う。いつもどこか少し冷たいはずなのに、今日の君はどこまでも温かい。その温かさに引き寄せられるように自然と君の胸で泣いていた。
 私も君に照らされる『月』でありたい。そして、君を照らす『月』でありたい。
 二人を包み込む月の光は、どこまでも静かで優しく、温かかった。

#君を照らす月

11/16/2025, 12:23:51 AM

タイトル『眩しすぎる太陽』
(お題:木漏れ日の跡)

 僕が暮らす森の国は、その真ん中にそびえる大樹に守られている。もう何百年も昔からずっと変わらず大きな存在として国のシンボルになっている。
 
 僕の父は、その大樹に住まう太陽神の加護を受け、大樹を狙う魔物を退治するため、騎士として立派に戦っていた。人々は父を『光の英雄』と呼び、褒め称えた。
 父が剣を振るうたび、風すらも刃となって魔物を蹴散らしたと。そして戦地から戻る際には、その身体に傷ひとつなかったと。

「お前もそろそろ十六になる歳だ。大樹の守り人になる覚悟を決めなきゃならない」
 魔物退治のためほとんど家に戻ることのない父が、久しぶりに家に戻ってきた。二言三言会話をしたが、その言葉だけが強く僕の胸に残っていた。すぐに戦地へと戻っていく父の背中を見ながら、あまりにも短い再会とその言葉の重みで僕の心が沈んでいく。
 
 街を歩けば父の話をされ、期待と衆望のまなざしを向けられる。完璧すぎる父の姿は、僕にとって呪いであり、単なる重荷でしかない。街で父の話が聞こえると、隠れるように踵を返していた。

 僕にとって父の姿は、まるで太陽のように眩しすぎた。その光を直接見つめれば、目も心も焼かれ灰になってしまいそうで、いつしか父のことも避けるようになっていた。

 僕が父のように強くなれないのは分かりきっていた。剣術の成績も中の下で、筋肉もないし動きもトロい。頭も良くなければ、人を助けられるだけの勇気もない。
 ――僕は父みたいにはなれない。
 そう思う度に、僕はこの家に生まれた自分を呪った。強すぎる光が落とす影は、あまりにも濃くて暗い。

「薬草を採りに行きましょう」
 ある日、母がそう言って、ひとりで家に籠もりがちの僕を薬草採りに誘った。
 母は、大樹に宿る精霊の血が混じった半人半妖で、森の治癒師として、森の力を人々に分け与える仕事をしている。大樹の周りに生える薬草には、病を治し、心を落ち着かせる効果があるらしい。

 薬草採りの途中、僕は木の根に躓いて膝を擦りむいた。森の中の少し開けた空間で、丸太に腰掛けて休憩をすることにした。木々の太い幹から大きく横に伸びる枝葉が、地面に柔らかい影を落としている。
 母は僕の膝に手をかざして目を閉じる。周囲の木々がざわざわと揺れ、母の手から熱のようなものが伝わる。そうして徐々に赤く滲んでいた膝が元の色を取り戻していく。昔から怪我をした時には母がこうして治してくれた。
 傷を治し終えた母がクスリと笑った。
「どうしたの?」
 僕が問いかけると、母は何かを思い出すように森を見渡す。
「この前、お父さんが森で迷子になっちゃったときのことを思い出してね――」
 ――父が迷子?
 聞き間違いかと思ったが、母は話を続ける。
「この間、森の木々が『お父さんが森で迷子になってる』って教えてくれたの。魔物を追ううちに帰り道が分からなくなっちゃったみたいでね。森の木々にお願いしてようやく戻ってこられたのよ」
「父さんが迷子だなんて、信じられないよ」
 僕がそう言うと母はまたクスリと笑って、それ以上は話さなかった。

 それから数週間が経ったある日、僕はひとり薬草を探して森の中を歩いていた。
 ふと耳を澄ますと、木々の奥からヒュンと風を切る音とが繰り返し聞こえてくる。
 気になって近づいてみると、そこには木漏れ日の下でひとりで剣を振り続ける父の姿があった。父が剣を振り下ろす度に木々が揺れ、切り裂いた風を刃に変えていく。
 父の姿がとてもかっこよく見えた。

 父は大粒の汗を流しながら、ただ一点を見つめて休むことなく剣を振り続ける。日々のたゆまぬ努力が父の眩しさを作り上げていた。木々が太陽をわずかに遮ってくれているおかげで、その父の姿をまっすぐ見られているような気がした。
 ふと父が剣を止め、森の木々へと視線を流す。いつも威厳に満ちていた父の顔が柔らかく緩む。父が見せた久しぶりの笑顔だった。
「いつもありがとう――」
 父は森の木々に向けて囁くように言う。森がざわざわと揺れる。そこになぜか母の気配を感じ、辺りを見渡すが父以外の姿は見えなかった。

 父と視線が合い、思わず顔を背ける。父が剣をしまい、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
「……見られてしまったか」
 そう言って父は僕の肩にポンと軽く手を添えて、バツが悪そうに笑った。
「ねぇ、僕に剣術を教えて……」
 僕の言葉で、父の笑みが深くなる。今の父にはなぜか自然と言葉を告げられた。恐らくこれも木漏れ日のおかげだ。
 
 父のようになれるかは分からない。でもまずは剣の振り方を覚えるところから始めることにする。
 僕は父に――いや、父と母の二人に見守られながら重たい剣を振るう。その間、空から降り注ぐ眩い太陽の光が、木々の間をすり抜けて、ずっと僕の足元に柔らかい影を揺らしていた。

#木漏れ日の跡

11/14/2025, 3:47:52 PM

※【ホラー】大変センシティブな内容を扱っています。終始救いのないお話ですので、場合によっては気分を害される方もいらっしゃると思います。この先の閲覧は自己責任でお願いいたします。
※この物語はフィクションです。実在する人物および団体とは一切関係ありません。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 玄関で脱いだ靴をそろえる気力もなく、ぶら下げた買い物袋を台所に放り落とす。疲れた体を締め付けるスーツもそのままに、母親としての仕事が再開する。
「ユウタ、すぐにご飯できるからね」
 まだ幼い息子に声をかける。うまく笑えていただろうか。自信がない。冷蔵庫の扉で顔を隠すようにして、静かにため息をつく。

 今日、上司に言われた言葉が頭の中で繰り返される。
『何回言わせるんだ。こんな仕事、バカでもできるぞ』
 単純なミス。数字の打ち間違い。育児も睡眠不足も言い訳にはできない。それでも冷たい刃のような言葉は、容赦なく胸を抉るように突き刺さる。

 ユウタはタブレットを見ながら笑っていた。
 画面では最近人気の芸人が腹を出しながら、大して笑えないギャグを披露している。ユウタも真似をするように変なポーズを取る。
 そんな息子の無邪気な姿が、今の私にとっては唯一の救いのように感じた。
 ――そう思っていた矢先のことだった。
「ねえ、ママ見て!」
 息子がタブレットの画面を差し出しながら、屈託のない笑顔をこちらに向ける。
「この人、変なの――『バカ』みたい!」

 息子の言葉に、私の思考が一瞬止まる。
「いま、何て言ったの……?」
 思わず声に出ていた。目の焦点が合わず、呼吸が荒くなる。
「えっ……、バカみ――」
「ユウタ!」
 言い放った瞬間、ユウタの肩がびくりと震えるのが分かった。
「そんな言葉使わないの。『バカ』なんて絶対に言っちゃダメ。二度と使わないって約束して」
 どうしよう。止まらない。――こんなの良くないのは分かってるのに。
 タブレットから笑い声が響く。嘲るような笑い。
「もし約束破ったら――」
 これ以上は言っちゃいけない。こんな脅すような言い方。頭の中で上司の声がする。『バカ』と罵る言葉が何度も私を責め立てる。
「ママ、ごめんなさい――」
 気づくとユウタはそう言ってとぼとぼと奥の和室へと歩いていた。叱られたときのいつもの行動。ふすまを閉め切ってしばらく黙り込む。そこでいつも私は冷静になる。
「ごめん、ユウタ――」
 いまさらそんな言葉をかけたところで、口から出てしまった言葉をなかったことになどできるはずもない。返ってこないユウタの声がまた虚しく心を抉る。


 それからしばらく経ったある日、夕飯の支度をしながら手が震え、私は思わず包丁を手放した。
 あの忌々しい上司の声が今日もトラウマのように頭に響く。
『いつになったら、ちゃんとできるようになるんだ』
『お前、もう何年目だ?』
 胃がキリキリと痛む。疲れがどっと体を覆い、重たい空気がキッチンを満たしていく。

「バカ上司……」
 つい口から漏れて、はっと息を呑む。あの日の約束を思い出して、思わずリビングで遊んでいるユウタの背中を見る。
 それまではしゃいでいた息子が、まるで何かに取り憑かれたようにぴたりと動きを止めた。
「ママ、――いま何て言ったの……?」
 ユウタが私に背を向けたまま言う。息子の口から出ているとは思えない重く冷たい声だった。
「ちがうの、ユウタ……。これは――」
 焦りからかポロポロと弁解が口を割って出る。
 ユウタはおもむろに立ち上がり歩き出す。和室のふすまが静かに閉まり、部屋がしんと静まり返った。

 どうしてあの日、あんなことを口走ってしまったんだろう。息子にはあんなことを言っておいて、私は自制なんてできないでいる。『約束』なんて言う言葉を軽々しく使っておいて、私はそれすらも守れないでいる。

 スッ――とふすまが開き、ユウタが顔を出す――。
 ずんと暗闇に沈み込んだような顔が和室の向こうに浮かんでいる。
 顔の下でぎらりと何かが光った。ぬっと飛び出たそれが和室の裁縫箱にしまってあった『布裁ち鋏』だと気づくのに時間はかからなかった。
「ユウタ、それ――」
 私の声にユウタの声がかぶさる。先ほどよりもずっと重たく黒い声。
「約束破ったらどうなるか……覚えてるよね」

 ――私はあの日、何を言った?
 冷たい汗が頬を伝い、全身の毛が逆立つようにゾワリと悪寒が走る。
 思い出そうとすると頭がズキズキと痛む。上司の声ばかりが頭に響く。あの日の自分が発した言葉すらも、ぼんやりとして輪郭を持たない。

 和室から静かに近づいてくる無表情のユウタを前にして、私の体は何故か硬直したように動かなかった。鼓動が激しくなる。口を開いても言葉が出てこない。
「約束破ったら――ベロ……ちょん切っちゃうんだよね」
 私はそんな酷いことを言っていたのか。
 ユウタの手元で布裁ち鋏の重たい鈍色が光る。後ずさりする足が上手く動かず、その場に腰から崩れ落ちる。ユウタと視線が合う。生気のない眼差しの奥に闇が広がっていた。
「ユウタ……、ごめんなさ……」
 私の声を遮るように、鋏の冷たい感触が唇に触れる。
 ユウタの姿をした約束の権化がゆっくりと首を傾げながらニタリと笑う。
「言ったことは――守らなきゃ」
 押し当てられた刃先が唇を開き、乾いていく舌先に鉄の味がじりじりと滲んでいく。じりじりと……。じりじりと。。。

#ささやかな約束

11/13/2025, 8:07:43 PM

 世界には、祈りがそっと羽根を得る瞬間がある。
 人が胸の奥で願いを結ぶと、その言葉は小さな光の粒となり、白い羽根を持つ『祈り鳩』へ姿を変えるのだ。祈り鳩はどんな遠いところへでも、風や星を味方につけて飛んでいく――そんな不思議な生き物だった。

 ある朝、一人の少女が海の向こうに立ち上る日の出を見ながら、胸の前でそっと両手を組んだ。目をつむり、心の中に語りかけるようにして、ずっと心の中で温めてきた願いに想いを託す。
「この祈りが……できるだけ遠くまで届きますように」
 少女が囁いた瞬間、小さな光の粒がキラリと光り、一羽の白い鳩が目覚めた。祈り鳩がゆっくりと羽ばたきを始めた翼の先には、ほんのり金色の光が混じっているように見えた。
「いってらっしゃい」
 少女が微笑むと、祈り鳩は勢いよく空へと舞い上がり、雲の中へと進んでいく。

 空の上は思いのほか忙しい世界だった。祈り鳩は雲の切れ間で、風の兄弟と出会った。
 南風の兄が言う。
「おい、そこの小さな白いの。いったいどこへ向かっているのだ?」
 祈り鳩は胸を張る。
「できるだけ遠いところへ行くんだ」
「ほぉ、遠いところか。ではちょっと試してやろう」
 北風の弟が顔を出す。兄弟は祈り鳩をおちょくるようにくるくると風向きを変え、その度に祈り鳩は右へ左へ振り回される。
 それでも鳩は諦めずに、より高いところを目指して羽ばたき続けた。
 すると風の兄弟は、おもしろそうに目を丸くした。
「思ったよりも根性がある。よし、特別により高いところへ運んでやろう」
 ふたりは鳩を雲の遥か上まで押し上げ、青空の天井近くへと導いた。祈り鳩は「ありがとう」と小さく礼を言い、また羽ばたきを続ける。

 その先で、星の民が操る『星舟』に拾われた。夜空を渡る巨大な舟の中で、星の民は光の粒を磨きながら言う。
「やぁ、祈り鳩。どこへ向かうんだい?」
「できるだけ遠いところへ」
「そうか、では私達の航路を進むといい」
 祈り鳩は舟と並び、流れる星々のあいだを進む。けれど行く手を漂う『忘却の嵐』と呼ばれる黒い霧に飲み込まれる。
 なぜ飛んでいるのかを見失いそうになりながら、少女の祈りまでもが輪郭を薄くする。
 ――だめだ……忘れちゃ……。
 必死に羽根を震わせると、祈り鳩の体からまばゆい光があふれた。光が霧を押しのけ、星舟の周囲には再び無数の星が瞬く夜空が広がった。
「よくやったな」
 星の民が鳩の背を撫でる。祈り鳩はくすぐったそうに羽根をぱたつかせ、星舟を背中で見送り、先へと進む。

 やがて鳩は『宇宙鯨』と呼ばれる巨大な生き物に出会った。島のような体で、青白い光をまといながら泳ぐその姿は、まるで夜空の海を漂う大きな夢のようだった。
「小さな翼の者よ。どこへ向かう――」
「できるだけ遠いところへ」
 宇宙鯨は静かにうなずき、ヒレで空間をかき混ぜた。夜空を漂う銀色の粒が、寄り集まっては渦を巻き、中心にぽっかりと真っ黒な穴があいた。
「この先は境界だ。行けば二度と戻ることはできぬぞ」
 祈り鳩は迷わなかった。少女の祈りはただ『遠くへ』行くことを望んでいる。
「ありがとう、宇宙鯨さん」
 そう言って、鳩は穴の中へと吸い込まれるように進んでいく。

 その瞬間、世界は一変した。
 風が止み、光も音も消えた。
 色も重さも温度さえも存在しない、完全な『無』――。

 祈り鳩は自分が飛んでいるのか、止まっているのかすら分からなかった。そこにはただ進んでいるという確信だけがあった。

 どれほど進んだ頃だろうか。
 ――ッッッッッッッ……
 暗闇の中に小さな波が立ち始めると、祈り鳩はようやく羽ばたいている感覚を取り戻す。
 ――トクトクトクトク……
 波の音がはっきりしていくにつれ、闇の奥に朝焼けの色が滲みはじめる。ぼんやりとした桃色の薄明りが鼓動に合わせて小刻みに揺れ、世界がほんの少しずつ輪郭を取り戻していく。

 それは母なる海の中に漂う――生命だった。祈りには『果て』なんてなかったのだ。

 祈り鳩は静かに悟る。少女の心から遥か遠く、果てだと思った場所は、新たな始まりだった。祈りは絶えることなくどこまでもつながっていくのだと。
 
 祈り鳩は新しく生まれた命の中で、小さな光の粒となって永遠に羽ばたきを続ける。いつか、この命が願いを胸に宿した時、その想い再びを遠くまで届けられるように――。

#祈りの果て

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