掌編連作『寄り道』第六話
※また少し間が空きました。2025.10.31投稿『光と影』の続きです。
ママさんと二人、失踪した僕の父親探しの物語。
【前回までのあらすじ】
父と親しかった孝雄からの情報で、父親の女らしき『メグミ』の影を追って港町のスナックを訪れた僕とママさん。ママさんの先輩である玲子からメグミが勤めていた店の情報を得るが、僕はまだ自分の気持ちに整理がつかないでいる。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
玲子の店を出ると、潮の匂いを含んだ夜風が頬を撫でた。港町のネオンは夜の闇の中に半分生気を吸い取られたようなぼんやりとした光を放っている。
「こんな濃い一日は久しぶりだわ」
ママさんがぼそりと呟く。僕も同じことを思っていた。
孝雄の部屋を訪ねてからまだ半日も経っていないのが信じられないほど、多くのことが頭の中で入り乱れている。
仕事熱心で、真面目で、叱られた記憶などほとんどなかった優しい父。
一方で、夜の街で酒を煽り、ツケを残して女と消えた父。
どちらが本当の父なのか、はたまたどちらも本当の父なのか、あまりにも乖離が大きすぎてその差を埋めるのが難しい。
分かれ道と行き止まりの連続はまるで迷路のように僕を迷わせる。しかも刻々と形を変えるタチの悪い迷路だ。
先の見えない曲がり角の向こうに何が待っているのかが怖くて思わず足が竦む。この感情は最終的にどこかにたどり着くんだろうか。
唐突にぐぅと腹の虫が鳴る。頭の中は悩みでいっぱいなのに、胃の中は空っぽなのが妙に可笑しく思えてくる。
「何か食べに行こうか――」
ママさんがほぼ同じタイミングで言ったので、僕は虫の音を聞かれたのだろうかと恥ずかしくなる。
少し車を走らせ、港町にある唯一のファミレスへとたどり着く。
店内の暖かい照明に、耳馴染みはあるが名前の分からないクラシック音楽が薄く流れている。
二人で窓際の席に腰を下ろすと、ママさんはメニューを開いてこちらに差し出す。
「好きなの頼みな」
僕は無言で頷きながらメニューを見る。今となってはありふれたファミレスのメニューですら、過去に僕を引き戻す。
「じゃあ、ハンバーグで……」
遠慮しがちに僕が言うと、ママさんは呼び出しベルを押して店員を呼んだ。
ふと窓の外に目をやると、夜の闇の中で窓ガラスが鏡のように自分の顔を映し出す。客観的に見ると目は虚ろで、とても疲れているように見えた。
視界に駐車場の街灯が滲み、ふと母の顔が浮かぶ。
――いってらっしゃい。
そう言って父を見送る母はいつも笑っていた。
なんとなくだが、母は父が少しずつ離れていることに気づいていたのではないか。自分ではない誰かに、家庭ではないどこかに、心を預けていることに。
僕だけが、何も知らずに『幸せな家族』を信じていたんだろうか。僕は家族の表面だけを見ていたのかもしれない。
僕は窓に映る自分の迷いから逃げるように、テーブルへと視線を落とす。
「母は知っていたと思いますか?」
気づけば声に出していた。
「その――、父の別の姿のことを」
僕の言葉にママさんは少し考えて、言葉を選ぶように口を開く。
「さあ、どうだろうね。でも、もし知っていたとしても、口には出さないだろうね」
「何でですか?」
僕は顔を上げた。店内の明かりがママさんの横顔を照らす。
「人ってのはさ、守るものがある時には、それを壊さないように動くものなんだよ」
ママさんが窓の外に視線を外す。まるで自分に向き合うように。
母の守りたかったものとは何なんだろう。家族の形か、それとも僕か。もしくは、父という人間を信じる自分自身だったのか。
行き着く先の見えない思考の中を右往左往しながら、行き止まりに阻まれては、後ろを向いて引き返す。
店員の声とともに料理が運ばれ、皿の音がテーブルを打つ。目の前のハンバーグが、黒い鉄板の上で食欲をそそる香りを放ちながら微かな湯気を上げる。
「とりあえず食べな。腹が減ってちゃ、まとまる考えもまとまんないだろ」
ハンバーグを一口頬張る。
――出来すぎた味だ。
なぜかそう思った。きれいに成形された、美味しく感じるように作られた味。母が作った歪なハンバーグはどんな味をしていただろうか。
ママさんは、無言で食事を続ける僕をじっと見つめていた。
「美味いかい?」
「はい……」
ママさんの言葉に頷きながら答える。ママさんはホッとした表情で頷き返す。
僕は、父の行方を知りたいというより、母が見ていた父の姿を知りたいのかもしれない。母はどんな思いで、あの人を見送っていたのか。
変わりゆく迷路が、僕の中で目的地すら変えていく。
父を探すことよりも、彼をひとりの人間として知りたくなった。今の僕には、まだ今の父を受け入れることはできない。会う前にちゃんと心構えをしないといけない――そんな気がした。
#心の迷路
#寄り道
※この物語はフィクションです。実在する人物および団体とは一切関係ありません。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
結婚二十年目の記念にと訪れた沖縄旅行。国際通り近くにある小さな土産品店で、『やちむん』と呼ばれる焼き物を前に、妻はしゃがみこんだまま動かない。
俺にとってはどれも同じように見える陶器のカップを、彼女は真剣な眼差しで見比べている。
食器の類に大したこだわりもない俺は、旅行の疲れもあって店内に小さな椅子を見つけて腰を下ろす。
「カップが変わったところで、紅茶の味は同じだろ?」
俺が妻の背中に声をかけると、彼女は手にしたカップの舌触りを確かめるかのように、エッジを指でなぞりながら答える。
「まったく、相変わらずロマンがないんだから。なにも紅茶の味は舌だけで決まるわけじゃないのよ」
「はぁ、そうですか」
妻のカップ収集癖は数ヶ月前から通っている市民教室の『紅茶の淹れ方講座』がきっかけだった。食器棚には日に日にカップが増えていくが、中には一度しか使われず棚の奥に追いやられているものも少なくはない。
「五感と、それに心の在り様も……、全部合わせて『味』になるんだから」
俺が興味薄に苦笑いしていると、店の奥から店員が近づき、声をかけてきた。
「奥様のおっしゃる通りですよ。器が違えば飲み物の味も変わるんです」
「え、本当に?」
俺が思わず口にすると、店員は沖縄独特のなまりを交えて説明を始める。
「やちむんの表面には細かい穴がたくさん空いているんです。その穴が香りを広げて、苦みもまろやかにしてくれるんですよ」
確かに陶器のざらつきは無数の穴の集まりに見えなくもない。
「なるほど……そういうことなんですね」
「私の言葉は全然信じなかったくせに」
妻が拗ねたように小さく頬を膨らませる。
「あなたのも選んであげよっか?」
しばらくして妻が笑顔でこちらを振り返る。
この店に入ってすでに三十分以上が経過していた。俺は時計を気にしながら返事をする。
「俺は今のでいいよ。使い勝手もいいし気に入ってるから」
自宅にある百均のマグカップ。どうせ紅茶やコーヒーの味なんて分からないのだから、俺にはそれで十分だった。
「ねぇ、さっきの店員さんの話、聞いてた?」
妻が呆れたように笑う。
妻は同じ魚の模様のカップを二つ手に取り、どちらの表情がより好みかと最終の決断に迷っていた。
「外で待っとくよ」
俺はレジへと向かう妻に背を向けて店の外に出る。
夕暮れ時、木陰に涼しい風が吹き、沖縄にも秋はあるんだなと実感する。
「おまたせ」
小さな紙袋を一つぶら下げて店から出てきた妻の顔はとても満足げだった。
国際通りで夕食を済ませた後、ホテルの部屋に戻った俺たちは、ほっと一息ついて窓際のソファに腰を掛ける。
窓の外に広がる那覇の街灯りが、漆黒の海と空へ境目もなくつながっている。
「紅茶でも淹れようか」
やちむんの入った紙袋を手に妻が言う。新聞紙をほどくと、器に描かれた魚の模様が、部屋の温かい照明の中でふわりと光る。
妻は教室で習った手順を思い出すように、時間をかけて紅茶を淹れてくれた。茶葉を蒸らす間、部屋全体が紅茶の香りに包まれる。
しばらくして妻が二つのカップを手に戻ってくる。やちむんのカップは妻の手に残り、俺の前にホテル名の入った白いマグカップが差し出された。
一口含むと香りとともに紅茶の温かさが体の中に染み渡る。今日一日の疲れがフッと抜けるようだった。
「私のも飲んでみる?」
妻がそう言って、カップを差し出す。
あんなことを言ってしまった手前、俺は少し照れながらも口をつける。うまく説明はできないが、言われてみれば確かに陶器で飲む方がふんわりと香り高い気がする。
「……なんとなく、まろやかだな」
妻がくすりと笑う。
「でしょ?」
そう言いながら妻はそっと紙袋を引き寄せ、中から新聞紙に包まれた塊を取り出した。開けば、それは妻のものと同じ模様をした、もう一つのやちむんだった。
「実はあなたのも買っちゃった」
「なんで今頃?」
嬉しそうにカップを見せる妻に問いかけると、彼女は笑いながら言う。
「だって、先に出したら『無駄遣い』って言うでしょ? でも違いが分かった後なら納得する。あなたはそういう人」
「まいったな……」
妻の笑っている顔に、思わず俺の口元も緩む。
俺は再び自分の白いカップから紅茶を一口すすると、心なしか、さっきよりも香りが立っている気がした。
――心の在り様も全部合わせて『味』になるんだから。
妻が店で言っていた言葉が、湯気の中にやわらかく蘇る。この時間が愛おしくて、俺はしばらく黙って紅茶を見つめていた。やちむんの中で漂う細かな茶葉に二十年という時間の流れを感じながら、その日、二人の夜はいつもよりも長く続いていた。
#ティーカップ
※この物語はフィクションです。実在する人物および団体とは一切関係ありません。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
バイト帰りに立ち寄るスーパーマーケット。午後五時の店内は多くの客で賑わっている。
俺は買い物かごも取らずに自動ドアをくぐり、店内をまっすぐ進む。
半額のシールが貼られた弁当を手に取り、冷蔵ケースからエナジードリンクを一本手に取ってそのままレジに並ぶ。体に染みついたいつものルートだった。
レジに並びながら、入口を入ってくる老婦人に目をやる。
毎日同じ時間にやってきては、商品を陳列している男性店員に話しかける。
老婦人は腰も曲がり、かがんでいる男性店員とほぼ同じ背丈だった。買い物かごと呼ぶにはあまりに小さい籐籠を左手にぶら下げて、右手には杖をついている。
「この前、駅前のパン屋さんでね――」
「あれ、納豆ちょっと高くなったんじゃない?」
忙しそうに野菜を並べる店員の後ろで、老婦人の大きなおしゃべりは止まらない。店員も手を止めずに彼女の話に付き合っている。
――店員さん、毎日大変そうだな……。
俺はそんなことを思いながら、レジのカウンターに商品を置いた。
会計を終えたころ、老婦人はようやく「じゃあ、またね」と店員の肩を叩いた。
結局、手ぶらのまま小さく体を揺らしながらトボトボと帰っていく。
――何も買わないのかよ……。
心の中でそう吐き捨てながら俺も店を出て、使い古したマイバックを自転車のかごに放り込む。
自転車を走らせ、先ほどの老婦人の脇を通り過ぎる瞬間、チラリと脇目で彼女を見る。
――ああいう老人にはなりたくないな。
あっという間に老婦人の姿は後方に流れ、小さくなっていく。
いつものように誰もいない真っ暗な玄関に向かって「ただいま」と独り言つ。
六畳一間のワンルームは決して掃除が行き届いているとはいえなかった。
弁当をレンジに突っ込み、エナジードリンクの缶を開けながらパソコンの電源を入れる。
上着をハンガーにかけ、パソコンが起動を終えたころ、薄暗い部屋にレンジの音が響く。
ショート動画を流し見ながら、エナジードリンク片手に生暖かい弁当を食らう。
――ああいう老人にはなりたくない。
数週間後、相変わらずの帰宅ルート。
ただ、その日はあのスーパーに老婦人の姿がなかった。
俺はレジに並びながら、無意識に入口へ視線を向ける。いつも老婦人に対応している男性店員は業務をこなしながらも、時折心配そうな表情で外の方に目をやる。
店を出ようとしたとき、男性店員と店長らしき男性の会話が耳に入る。
「来てないですね……」
「ちょっと連絡してみようか」
俺は家路に自転車を走らせながら、なぜかあの老婦人のことを考えていた。
何の関係もないはずなのに、胸の奥にもやもやとしたものが漂っている。
形の定まらない不安が、膨張と収縮を繰り返す。
冬の近づいた空は薄曇り、信号待ちの体に冷たい風が吹く。思わず上着のファスナーを顎まで上げた。
次の日も老婦人は店に姿を見せなかったが、店員の表情は昨日より明るかった。
「早めに見つかってよかったよ」
「ええ。本当に……」
どうやらあの後、店長は老婦人の家に電話を掛けたが繋がらず、念のため救急に連絡したところ、家の中でぐったりとしている彼女が発見されたという。
まるで心の痞えが取れたようだった。と同時に自分の境遇と重ねて別の不安が募る。
半額の弁当を手に取った時、ふと近くの冷蔵ケースでプリンが安くなっていた。
レジに商品を置いた俺に、レジの女性店員がバーコードを読み取りながら言った。
「何か、いいことありました?」
俺は一瞬固まって、首を横に振った。
「いや、別に……」
彼女は軽く微笑み、その後は淡々といつも通りのレジ業務をこなす。
外に出ると、空は薄い紫に色づいていた。マイバッグがプリンの分だけ少し重い。
玄関の暗闇にただいまを告げて、いつものようにパソコンを起動する。
薄暗い部屋で弁当を食べながら、画面を流れていくショート動画の内容がほとんど頭に入ってこない。
――何か、いいことありました?
あの女性店員の声が頭をよぎる。あの店は老婦人にとって居場所のひとつだったのだろう。何を買うわけでもないが、周りもそれを受け入れている。気づかなかっただけで俺もその輪の中にいる。
俺はプリンを一口含む。甘いカスタードと仄かに苦いカラメルが喉を通って体の一部になっていく。
なぜ俺はあの時プリンを手に取ったのだろう。安堵からくる喜びの衝動なのか、はたまた将来に対する不安への自己防衛なのか。
いつもより広く暗い部屋にプリンの甘い香りが薄く漂っていた。
#寂しくて
【ホラー】※この物語はフィクションです。実在する人物および団体とは一切関係ありません。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
中嶋康介は一人、夜のオフィスに残っていた。一人きりの夜というのは善悪の境目を曖昧にする。殊更、ここのところ残業が続き、疲労からか体調も優れない。朦朧とする意識が余計に倫理観を鈍らせる。
一刻も早く残った業務を終わらせて帰りたかった中嶋は、もうかれこれ三十分もの間、仕事も手につかず同僚である篠宮真由美のデスクを睨み続けていた。
静寂の中、時計の秒針が時を刻む音と、唸るようなエアコンの稼働音が頭に響く。
初めは視界の隅に映り込むものの正体が分からなかった。整頓されたデスクにぽつんと置かれたそれは、まるで意図的に中嶋の視界に入り込もうとでもするように、ちらちらと部屋の明かりを照らし返した。
それが手帳の留め具だと分かった瞬間から、彼の中に眠る卑しい部分がぬらぬらと顔を出し始める。
中嶋から見た篠宮は、決して社内で目立っているタイプではない。どちらかと言えば大人しい方で口数も少なく、外回りの多い中嶋とは、あまり会話を交わすこともなかった。
それ故なのか、中嶋は手帳の奥にある彼女の内面に触れてみたいという衝動に駆られた。そこが禁忌の領域だと理解しながらも、中嶋の手は湧き上がる欲求を抑えられず、手帳へと伸びていく。
中嶋は手帳を持つ篠宮の小さな手を想像した。ペン先を握るか細い指。篠宮がページにしたためる文字はどんな形をしていて、どんな筆圧を持っているだろうか。そして、その文字はどんな言葉を紡ぎ、どんな意味を成すのだろうか。中嶋の中で膨らむ妄想が、手帳への欲求をさらに掻き立てる。
罪悪感に抑圧された好奇心ほど恐ろしいものはない。それは抑えるほどに黒く大きくなり、強いては罪悪感の根源に正当な理由をこじつけ始める。
篠宮はこの手帳を置いて帰った。しかもデスクの見える位置に堂々と。つまりそれは中身を見てほしいという主張にほかならない。
少なくとも中嶋の穿った解釈を否定するものはこの場にいない。
中嶋は額にじっとりと汗をかきながら、じわじわとその指を手帳へと近づけていく。手帳と指先があと数センチまで近づく。その短い距離がなかなか埋まらない。罪悪感が邪魔をする。
三センチ……、二センチ……、あと一センチ……。
カツ、カツ、カツ。
床を打ち鳴らす靴音がドアの向こうに響き、中嶋は反射的に手を引いた。慌てて自分のデスクに腰掛ける。
ガチャリ……と開いたドアから慌てた様子の篠宮が入ってくるなりデスクへと駆け寄った。篠宮の視線に一瞬の疑いを感じたのは気のせいか。
中嶋は適当な書類を手にとり、さもそれまで読んでいたように装う。額の汗をワイシャツの袖で拭い、何もなかったのだと自らに言い聞かせるように呼吸を整える。
「おつかれさま、何か忘れ物?」
中嶋は震える声をかけながら、何か変な証拠は残っていないかと、不安な視線をデスクの上で泳がせる。
篠宮は変わらない様子の手帳を見てホッとした表情を浮かべると、それを手にとって中嶋に見せた。
「これ……」
短い返事のあと、彼女は照れたように微笑む。その表情を見た中嶋は罪悪感だけではない何かを感じていた。
「あまり無理しないでくださいね」
そう言って足早に去っていく篠宮の後ろ姿を、中嶋は静かに見送る。
再びオフィス内に秒針とエアコンの音だけが響く。
――危なかった……。もう少しで決して跨いではいけない一線を越えてしまうところだった。
安堵が罪悪感と重なりながら中嶋の胸の内に広がっていく――。
◆◇◆
篠宮真由美はオフィスを出たところで、高鳴る心臓の音を抑えるように深呼吸をする。
――危なかった……。
篠宮はオフィス向かいの物陰に身を置き、手帳の留め具を外す。手帳にすき間なく記された文字。
【朝から疲れた顔。夜中何度か起きてたもんね。今日は青に金のストライプのネクタイ。先週駅前の百貨店で選んでたやつ。右の頬にカミソリ負けの跡。不器用なところかわいい】
篠宮は一日を振り返りながら思わず頬を緩める。
【トイレ行く時スマホ置きっぱなし。暗証番号誕生日とか全く無用心なんだから。今日もお昼はコンビニのおにぎり。口元にご飯粒つけてた。取ってあげたい。かわいい。お昼寝の時間。寝顔ずっと隣で見てたい。今日も外回りに出る時間か。憂鬱。早く戻ってきて】
ページには中嶋康介の一日の行動が事細かく記されていた。篠宮はペンを手に取り、続きを記すように細く繊細な文字で言葉を綴っていく。
【手帳忘れて焦った。見られたかな。でも最近残業続きで心配。昨日も会社出てきたの十時過ぎてたし。家着いてすぐ電気消えたから、相当疲れてたんだと思う。あまり無理しないで】
篠宮は手帳を閉じ、まだ煌々と光るオフィスの窓を見守るように微笑んだ。窓の向こうに中嶋の影が揺れるたび、篠宮は彼のもっと深いところに触れたい衝動に駆られるのだった。
#心の境界線
人は総じて羽根を持っているものと思っていた。だから公園のベンチに座る羽根のない女性を見かけた時、僕は彼女のことが気になって仕方がなかった。
誰にも信じてもらえないが、僕は小さい頃から人の背中に羽根を見ることができた。
どうやら羽根の大きさは、その人がどれだけ自分の人生を受け入れているかで決まるようだった。自分の信じた道を歩く人の羽根は大きく、不平不満を漏らす人の羽根はとても小さく見えた。
なぜそれが見えるようになったのか、具体的にいつから見えているのか、自分でもよく覚えていない。
彼女に出会ったのは、秋の初め頃だった。本を片手に佇む女性の表情は落ち着いた笑みを抱いて、人生への不満など微塵も感じさせない。
羽根のない人の心の内とはどんなものなのだろうか。最初は純粋な興味だった。
「ご一緒してもいいですか?」
気づけば話しかけていた。彼女は僕の言葉で顔を上げ、何を言うでもなく小さく微笑み頷く。
シンプルな生成りのブックカバー越しにチラリと見えた本はどうやら詩集のようである。
「詩がお好きなんですね」
僕が尋ねると彼女はまた小さく頷く。
「詩は私の知らない自分に気づかせてくれる。言葉の表層として現れるのはほんの一部分だけど、その奥には無限の行間が広がってる」
普段詩を読まない僕にはよくわからない感覚だったが、彼女の言葉には、心の中にすっと入り込むような優しく穏やかな響きがあった。
それから僕は、公園を訪れてはベンチで本を読む彼女に声をかけた。彼女のことをより理解したくて詩集も読み始めた。
次第に僕の興味は、彼女の人生を満足させるために何ができるかに向いた。
僕は彼女にいろんな景色を見せたくなった。知らない世界に触れれば、彼女の羽根が動くような気がして。
僕は彼女に様々な提案をし、彼女はそれを一切断ることはなかった。不平不満も漏らさず、その表情は常に落ち着いていて、詩集を読んでいる時の顔と何ひとつ変わらない。
不思議と彼女といる時間には、妙な落ち着きと安心感があった。でもその正体は分からないまま時は過ぎていく。
やがて冬が訪れ、冷たい空気が街を包んでいた。
空には今にも雪を落としそうな灰色がかった雲が立ち込めている。それを雪催と言うのだと、彼女は教えてくれた。
「君と出会って僕の世界は大きく変わった気がする」
「私もあなたのおかげで生きている心地がしてる」
彼女の返事に胸の奥にすっと澄んだ空気が入り込む。
「ただ、どうしても君の羽根だけが見えないんだ」
僕の言葉は、はたから見れば詩的に聞こえるかもしれない。それを彼女がどう受け止めたかは分からない。
「見えない透明な羽根……、なんだか素敵ね」
彼女はいつものように全てを柔らかく受け入れる。
思えば、僕が彼女を満足させようとしてきたことは、僕の勝手な思い込みでわがままだったのかもしれない。でも彼女はそれを否定することもなく、僕のやりたいようにさせてくれた。
全てを受け入れてくれる感覚、それが彼女に感じていた安心感の正体なのかもしれない。
ふと、雲の切れ間から淡い光が漏れ、彼女の背中に静かに落ちてきた。冷たい風を含んだ空気がキラキラと輝き、背中にぼんやりとした輪郭を浮かび上がらせる。
その輪郭は、行く先を持たず空気の中に溶け込んでいくようだった。まるで、この世界を満たす空気すべてが彼女の羽根であるかのように。
そうか――。彼女には羽根がないのではなく、あまりにも大きすぎて、僕の視界には収まりきらなかったのだ。
彼女の気配に満たされた空から、白い雪の結晶がふわりと風に乗って落ち始める。
「見えないものに気づけるのは、たくさんの見えるものを取りこぼさずに拾ってきたからよ」
彼女の言葉が、足元にぼんやりと映る僕自身の影に落ち、雪とともに僕の中に溶けていく。
その影の背中にはとても小さな羽根が生えていた――。
「僕にも羽根があったんだ……」
僕がそう言うと彼女は優しく微笑む。
僕はこれまで人の背中ばかりを見て、自分の背中にも羽根があることを忘れていた。そして誰かの羽根を広げるために自分の時間を削ってきた。
でも彼女と出会ってからは、それすらも肯定できるほどに、内面から湧き上がる衝動に生きてきた気がする。
そこに僕の生きる理由があったのかもしれない。
「たまには自分の羽根も羽繕いしてあげてね」
彼女の言葉が雪として落ちるたび、地面に映る影の羽根は、少しずつ大きくなっていく気がした。
彼女と二人見上げた雪の交じる冬の空はとても澄み渡っていた。空気を満たす彼女の透明な羽根に包まれるように僕の心はじんわりと温かくなる。
#透明な羽根