【ホラー】※この物語はフィクションです。実在する人物および団体とは一切関係ありません。
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中嶋康介は一人、夜のオフィスに残っていた。一人きりの夜というのは善悪の境目を曖昧にする。殊更、ここのところ残業が続き、疲労からか体調も優れない。朦朧とする意識が余計に倫理観を鈍らせる。
一刻も早く残った業務を終わらせて帰りたかった中嶋は、もうかれこれ三十分もの間、仕事も手につかず同僚である篠宮真由美のデスクを睨み続けていた。
静寂の中、時計の秒針が時を刻む音と、唸るようなエアコンの稼働音が頭に響く。
初めは視界の隅に映り込むものの正体が分からなかった。整頓されたデスクにぽつんと置かれたそれは、まるで意図的に中嶋の視界に入り込もうとでもするように、ちらちらと部屋の明かりを照らし返した。
それが手帳の留め具だと分かった瞬間から、彼の中に眠る卑しい部分がぬらぬらと顔を出し始める。
中嶋から見た篠宮は、決して社内で目立っているタイプではない。どちらかと言えば大人しい方で口数も少なく、外回りの多い中嶋とは、あまり会話を交わすこともなかった。
それ故なのか、中嶋は手帳の奥にある彼女の内面に触れてみたいという衝動に駆られた。そこが禁忌の領域だと理解しながらも、中嶋の手は湧き上がる欲求を抑えられず、手帳へと伸びていく。
中嶋は手帳を持つ篠宮の小さな手を想像した。ペン先を握るか細い指。篠宮がページにしたためる文字はどんな形をしていて、どんな筆圧を持っているだろうか。そして、その文字はどんな言葉を紡ぎ、どんな意味を成すのだろうか。中嶋の中で膨らむ妄想が、手帳への欲求をさらに掻き立てる。
罪悪感に抑圧された好奇心ほど恐ろしいものはない。それは抑えるほどに黒く大きくなり、強いては罪悪感の根源に正当な理由をこじつけ始める。
篠宮はこの手帳を置いて帰った。しかもデスクの見える位置に堂々と。つまりそれは中身を見てほしいという主張にほかならない。
少なくとも中嶋の穿った解釈を否定するものはこの場にいない。
中嶋は額にじっとりと汗をかきながら、じわじわとその指を手帳へと近づけていく。手帳と指先があと数センチまで近づく。その短い距離がなかなか埋まらない。罪悪感が邪魔をする。
三センチ……、二センチ……、あと一センチ……。
カツ、カツ、カツ。
床を打ち鳴らす靴音がドアの向こうに響き、中嶋は反射的に手を引いた。慌てて自分のデスクに腰掛ける。
ガチャリ……と開いたドアから慌てた様子の篠宮が入ってくるなりデスクへと駆け寄った。篠宮の視線に一瞬の疑いを感じたのは気のせいか。
中嶋は適当な書類を手にとり、さもそれまで読んでいたように装う。額の汗をワイシャツの袖で拭い、何もなかったのだと自らに言い聞かせるように呼吸を整える。
「おつかれさま、何か忘れ物?」
中嶋は震える声をかけながら、何か変な証拠は残っていないかと、不安な視線をデスクの上で泳がせる。
篠宮は変わらない様子の手帳を見てホッとした表情を浮かべると、それを手にとって中嶋に見せた。
「これ……」
短い返事のあと、彼女は照れたように微笑む。その表情を見た中嶋は罪悪感だけではない何かを感じていた。
「あまり無理しないでくださいね」
そう言って足早に去っていく篠宮の後ろ姿を、中嶋は静かに見送る。
再びオフィス内に秒針とエアコンの音だけが響く。
――危なかった……。もう少しで決して跨いではいけない一線を越えてしまうところだった。
安堵が罪悪感と重なりながら中嶋の胸の内に広がっていく――。
◆◇◆
篠宮真由美はオフィスを出たところで、高鳴る心臓の音を抑えるように深呼吸をする。
――危なかった……。
篠宮はオフィス向かいの物陰に身を置き、手帳の留め具を外す。手帳にすき間なく記された文字。
【朝から疲れた顔。夜中何度か起きてたもんね。今日は青に金のストライプのネクタイ。先週駅前の百貨店で選んでたやつ。右の頬にカミソリ負けの跡。不器用なところかわいい】
篠宮は一日を振り返りながら思わず頬を緩める。
【トイレ行く時スマホ置きっぱなし。暗証番号誕生日とか全く無用心なんだから。今日もお昼はコンビニのおにぎり。口元にご飯粒つけてた。取ってあげたい。かわいい。お昼寝の時間。寝顔ずっと隣で見てたい。今日も外回りに出る時間か。憂鬱。早く戻ってきて】
ページには中嶋康介の一日の行動が事細かく記されていた。篠宮はペンを手に取り、続きを記すように細く繊細な文字で言葉を綴っていく。
【手帳忘れて焦った。見られたかな。でも最近残業続きで心配。昨日も会社出てきたの十時過ぎてたし。家着いてすぐ電気消えたから、相当疲れてたんだと思う。あまり無理しないで】
篠宮は手帳を閉じ、まだ煌々と光るオフィスの窓を見守るように微笑んだ。窓の向こうに中嶋の影が揺れるたび、篠宮は彼のもっと深いところに触れたい衝動に駆られるのだった。
#心の境界線
11/9/2025, 10:22:16 PM