結城斗永

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人は総じて羽根を持っているものと思っていた。だから公園のベンチに座る羽根のない女性を見かけた時、僕は彼女のことが気になって仕方がなかった。

誰にも信じてもらえないが、僕は小さい頃から人の背中に羽根を見ることができた。
どうやら羽根の大きさは、その人がどれだけ自分の人生を受け入れているかで決まるようだった。自分の信じた道を歩く人の羽根は大きく、不平不満を漏らす人の羽根はとても小さく見えた。
なぜそれが見えるようになったのか、具体的にいつから見えているのか、自分でもよく覚えていない。

彼女に出会ったのは、秋の初め頃だった。本を片手に佇む女性の表情は落ち着いた笑みを抱いて、人生への不満など微塵も感じさせない。
羽根のない人の心の内とはどんなものなのだろうか。最初は純粋な興味だった。

「ご一緒してもいいですか?」
気づけば話しかけていた。彼女は僕の言葉で顔を上げ、何を言うでもなく小さく微笑み頷く。
シンプルな生成りのブックカバー越しにチラリと見えた本はどうやら詩集のようである。
「詩がお好きなんですね」
僕が尋ねると彼女はまた小さく頷く。
「詩は私の知らない自分に気づかせてくれる。言葉の表層として現れるのはほんの一部分だけど、その奥には無限の行間が広がってる」
普段詩を読まない僕にはよくわからない感覚だったが、彼女の言葉には、心の中にすっと入り込むような優しく穏やかな響きがあった。

それから僕は、公園を訪れてはベンチで本を読む彼女に声をかけた。彼女のことをより理解したくて詩集も読み始めた。
次第に僕の興味は、彼女の人生を満足させるために何ができるかに向いた。
僕は彼女にいろんな景色を見せたくなった。知らない世界に触れれば、彼女の羽根が動くような気がして。
僕は彼女に様々な提案をし、彼女はそれを一切断ることはなかった。不平不満も漏らさず、その表情は常に落ち着いていて、詩集を読んでいる時の顔と何ひとつ変わらない。
不思議と彼女といる時間には、妙な落ち着きと安心感があった。でもその正体は分からないまま時は過ぎていく。

やがて冬が訪れ、冷たい空気が街を包んでいた。
空には今にも雪を落としそうな灰色がかった雲が立ち込めている。それを雪催と言うのだと、彼女は教えてくれた。
「君と出会って僕の世界は大きく変わった気がする」
「私もあなたのおかげで生きている心地がしてる」
彼女の返事に胸の奥にすっと澄んだ空気が入り込む。
「ただ、どうしても君の羽根だけが見えないんだ」
僕の言葉は、はたから見れば詩的に聞こえるかもしれない。それを彼女がどう受け止めたかは分からない。
「見えない透明な羽根……、なんだか素敵ね」
彼女はいつものように全てを柔らかく受け入れる。

思えば、僕が彼女を満足させようとしてきたことは、僕の勝手な思い込みでわがままだったのかもしれない。でも彼女はそれを否定することもなく、僕のやりたいようにさせてくれた。
全てを受け入れてくれる感覚、それが彼女に感じていた安心感の正体なのかもしれない。

ふと、雲の切れ間から淡い光が漏れ、彼女の背中に静かに落ちてきた。冷たい風を含んだ空気がキラキラと輝き、背中にぼんやりとした輪郭を浮かび上がらせる。
その輪郭は、行く先を持たず空気の中に溶け込んでいくようだった。まるで、この世界を満たす空気すべてが彼女の羽根であるかのように。

そうか――。彼女には羽根がないのではなく、あまりにも大きすぎて、僕の視界には収まりきらなかったのだ。

彼女の気配に満たされた空から、白い雪の結晶がふわりと風に乗って落ち始める。
「見えないものに気づけるのは、たくさんの見えるものを取りこぼさずに拾ってきたからよ」
彼女の言葉が、足元にぼんやりと映る僕自身の影に落ち、雪とともに僕の中に溶けていく。
その影の背中にはとても小さな羽根が生えていた――。

「僕にも羽根があったんだ……」
僕がそう言うと彼女は優しく微笑む。
僕はこれまで人の背中ばかりを見て、自分の背中にも羽根があることを忘れていた。そして誰かの羽根を広げるために自分の時間を削ってきた。

でも彼女と出会ってからは、それすらも肯定できるほどに、内面から湧き上がる衝動に生きてきた気がする。
そこに僕の生きる理由があったのかもしれない。
「たまには自分の羽根も羽繕いしてあげてね」
彼女の言葉が雪として落ちるたび、地面に映る影の羽根は、少しずつ大きくなっていく気がした。

彼女と二人見上げた雪の交じる冬の空はとても澄み渡っていた。空気を満たす彼女の透明な羽根に包まれるように僕の心はじんわりと温かくなる。

#透明な羽根

11/8/2025, 10:44:08 PM