※この物語はフィクションです。実在する人物および団体とは一切関係ありません。
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結婚二十年目の記念にと訪れた沖縄旅行。国際通り近くにある小さな土産品店で、『やちむん』と呼ばれる焼き物を前に、妻はしゃがみこんだまま動かない。
俺にとってはどれも同じように見える陶器のカップを、彼女は真剣な眼差しで見比べている。
食器の類に大したこだわりもない俺は、旅行の疲れもあって店内に小さな椅子を見つけて腰を下ろす。
「カップが変わったところで、紅茶の味は同じだろ?」
俺が妻の背中に声をかけると、彼女は手にしたカップの舌触りを確かめるかのように、エッジを指でなぞりながら答える。
「まったく、相変わらずロマンがないんだから。なにも紅茶の味は舌だけで決まるわけじゃないのよ」
「はぁ、そうですか」
妻のカップ収集癖は数ヶ月前から通っている市民教室の『紅茶の淹れ方講座』がきっかけだった。食器棚には日に日にカップが増えていくが、中には一度しか使われず棚の奥に追いやられているものも少なくはない。
「五感と、それに心の在り様も……、全部合わせて『味』になるんだから」
俺が興味薄に苦笑いしていると、店の奥から店員が近づき、声をかけてきた。
「奥様のおっしゃる通りですよ。器が違えば飲み物の味も変わるんです」
「え、本当に?」
俺が思わず口にすると、店員は沖縄独特のなまりを交えて説明を始める。
「やちむんの表面には細かい穴がたくさん空いているんです。その穴が香りを広げて、苦みもまろやかにしてくれるんですよ」
確かに陶器のざらつきは無数の穴の集まりに見えなくもない。
「なるほど……そういうことなんですね」
「私の言葉は全然信じなかったくせに」
妻が拗ねたように小さく頬を膨らませる。
「あなたのも選んであげよっか?」
しばらくして妻が笑顔でこちらを振り返る。
この店に入ってすでに三十分以上が経過していた。俺は時計を気にしながら返事をする。
「俺は今のでいいよ。使い勝手もいいし気に入ってるから」
自宅にある百均のマグカップ。どうせ紅茶やコーヒーの味なんて分からないのだから、俺にはそれで十分だった。
「ねぇ、さっきの店員さんの話、聞いてた?」
妻が呆れたように笑う。
妻は同じ魚の模様のカップを二つ手に取り、どちらの表情がより好みかと最終の決断に迷っていた。
「外で待っとくよ」
俺はレジへと向かう妻に背を向けて店の外に出る。
夕暮れ時、木陰に涼しい風が吹き、沖縄にも秋はあるんだなと実感する。
「おまたせ」
小さな紙袋を一つぶら下げて店から出てきた妻の顔はとても満足げだった。
国際通りで夕食を済ませた後、ホテルの部屋に戻った俺たちは、ほっと一息ついて窓際のソファに腰を掛ける。
窓の外に広がる那覇の街灯りが、漆黒の海と空へ境目もなくつながっている。
「紅茶でも淹れようか」
やちむんの入った紙袋を手に妻が言う。新聞紙をほどくと、器に描かれた魚の模様が、部屋の温かい照明の中でふわりと光る。
妻は教室で習った手順を思い出すように、時間をかけて紅茶を淹れてくれた。茶葉を蒸らす間、部屋全体が紅茶の香りに包まれる。
しばらくして妻が二つのカップを手に戻ってくる。やちむんのカップは妻の手に残り、俺の前にホテル名の入った白いマグカップが差し出された。
一口含むと香りとともに紅茶の温かさが体の中に染み渡る。今日一日の疲れがフッと抜けるようだった。
「私のも飲んでみる?」
妻がそう言って、カップを差し出す。
あんなことを言ってしまった手前、俺は少し照れながらも口をつける。うまく説明はできないが、言われてみれば確かに陶器で飲む方がふんわりと香り高い気がする。
「……なんとなく、まろやかだな」
妻がくすりと笑う。
「でしょ?」
そう言いながら妻はそっと紙袋を引き寄せ、中から新聞紙に包まれた塊を取り出した。開けば、それは妻のものと同じ模様をした、もう一つのやちむんだった。
「実はあなたのも買っちゃった」
「なんで今頃?」
嬉しそうにカップを見せる妻に問いかけると、彼女は笑いながら言う。
「だって、先に出したら『無駄遣い』って言うでしょ? でも違いが分かった後なら納得する。あなたはそういう人」
「まいったな……」
妻の笑っている顔に、思わず俺の口元も緩む。
俺は再び自分の白いカップから紅茶を一口すすると、心なしか、さっきよりも香りが立っている気がした。
――心の在り様も全部合わせて『味』になるんだから。
妻が店で言っていた言葉が、湯気の中にやわらかく蘇る。この時間が愛おしくて、俺はしばらく黙って紅茶を見つめていた。やちむんの中で漂う細かな茶葉に二十年という時間の流れを感じながら、その日、二人の夜はいつもよりも長く続いていた。
#ティーカップ
11/11/2025, 5:05:28 PM