結城斗永

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 十九時を少し過ぎたオフィスの駐車場。営業車の窓から小さく細い三日月が浮かんでいるのが目に入った。そのか弱い姿が、今にも消えてしまいそうな私の気力と重なって思わず溜息が漏れる。
 残業続きの毎日。アスファルトの地面にヒールの踵が落ちる度、浮腫んだ足にずんと重い感触が伝わる。
 ――でも、負けちゃいけない。
 私は自分自身を奮い立たせながら、電気の消えたオフィスビルへと歩みを進める。
 
「お疲れ様、珍しいね――」
 喫煙スペースに君の姿を見つけて、思わず声をかけていた。冷たそうな壁に背をもたれ、細身のスーツパンツで気だるそうに煙草を咥える君の姿は、空に浮かぶ三日月よりも凛と研ぎ澄まされたような雰囲気があった。私より五歳下の後輩なのに、その姿は妙に大人びていた。
「遅くまでお疲れ様です。先輩もまだ仕事ですか?」
 君は私に気づいて姿勢を軽く正すと、空気を切るような低く鋭い声で答える。
「何件か急ぎの対応があってね。でもすぐ終わる」
 私は疲れた表情筋に鞭打って笑顔をつくる。明日には明日の仕事が入ってくる。今日できることは終わらせておきたかった。

 部長には『もっと後輩に仕事をふれるようになれ』と諭されたが、後輩にはできれば負担を押し付けたくはなかった。だから後輩には努めて笑顔で接した。自分が少し残って片付ければそれですべてが終わる。
 対して君は、自分の芯を持っていて他人に媚びたりしない。任せられた仕事は卒なくこなし、いつも冷静で周りが指摘する前にすべてを片付けていた。だから、君がこうして夜のオフィスに残っているのは少し意外だった。

 ――君みたいになりたい。
 気づけばそう感じることが多くなっていた。後輩に憧れるなんておかしな話かもしれないけれど。
「君は強いよね。落ち着いてるし――芯があるっていうか……」
 言うつもりじゃなかった本音が零れた。君は驚いた顔をして少しだけ視線をそらした。
「そんなんじゃないです。ただ周りに負けたくないだけで――」
 君の言葉はいつも少し冷たくて、少し温かい。身を刺す夜風の中で、なぜか胸の奥が熱を持つ。
「君って『月』みたいだな――って思う。静かだけど、凛としてて研ぎ澄まされてるっていうか……」
「月って――自力では輝けないんですよ」
 君は皮肉めいた口調で笑った。
「そういうつもりじゃ……」
「――早く終わらせちゃいましょう」
 私の言葉を遮るようにそう言って、君はそそくさと仕事に戻っていく。その背中にはか細く冷たい月明かりが差しているように見えた。


 それから数日後。朝から大粒の雨がだった。部長に呼び出され、背後に社内の視線を受けながらプレゼン用資料の間違いを指摘される。大きな問題にはならなかったものの、ついで事のようにまたチクチクと小言が入る。
『後輩とうまくやれてるのか?』
『最近、集中力が欠けてるんじゃないのか』
『時間の管理も仕事のうちだぞ』
 強い先輩でいたいのに――。部長の言葉が胸に刺さる度、喉の奥が枯れたように痛む。

「――先輩はちゃんとやってます」
 デスクに戻った私の背後から、君の声がした気がして振り返ると、君はすでに自分のパソコンに向かっていた。思わず涙が溢れそうになるのをぐっとこらえて、心の中だけで『ありがとう』と告げる。
 君はいつも少し冷たく、少し温かい。

 その日の夜、休憩所の窓辺で外を見ていた君を見つけて声をかけた。
「今日はありがとう」
「何がですか?」
 君は視線を外に向けたまま、そっけない返事をする。
「君の言葉に助けられたから」
 しばらくの間があって、君が静かに口を開く。
「先輩、前に私のこと『月』みたいって言ってくれましたよね……」
「あぁ……あれね。気にしないで。君はちゃんと輝いてるよ。むしろ私より強いくらいに――」
 顔を伏せながら思わず本音が漏れ出る。
「強いですよ、先輩は――」意外な言葉だった。「――ちゃんと気付いてます。先輩が無理して笑ってること……」
 寸前で堪えていた涙が溢れ出る。涙なんて誰にも――特に君には見られたくなかったのに――。
「『月』みたいって言葉、妙に腑に落ちました。ずっと先輩のこと、太陽みたいな人だと思ってたから……。先輩はいつも笑ってて、それなのに自分で自分のことを燃やし続けてる」
 君の横顔が、あの日よりも少し膨らんだ月に照らされて静かに影を落としている。
「――そんなんじゃ……ない……」
 嗚咽でうまく声が出ない。とてもうれしいのに、なぜか出てくるのはいつもの強がり。君の細くしなやかな指が私の手を包み込む。月の光のように柔らかい。
「もっと甘えてください。私、照らされて輝くタイプなんで」
 君が静かに笑う。いつもどこか少し冷たいはずなのに、今日の君はどこまでも温かい。その温かさに引き寄せられるように自然と君の胸で泣いていた。
 私も君に照らされる『月』でありたい。そして、君を照らす『月』でありたい。
 二人を包み込む月の光は、どこまでも静かで優しく、温かかった。

#君を照らす月

11/17/2025, 4:16:24 AM