※【ホラー】大変センシティブな内容を扱っています。終始救いのないお話ですので、場合によっては気分を害される方もいらっしゃると思います。この先の閲覧は自己責任でお願いいたします。
※この物語はフィクションです。実在する人物および団体とは一切関係ありません。
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玄関で脱いだ靴をそろえる気力もなく、ぶら下げた買い物袋を台所に放り落とす。疲れた体を締め付けるスーツもそのままに、母親としての仕事が再開する。
「ユウタ、すぐにご飯できるからね」
まだ幼い息子に声をかける。うまく笑えていただろうか。自信がない。冷蔵庫の扉で顔を隠すようにして、静かにため息をつく。
今日、上司に言われた言葉が頭の中で繰り返される。
『何回言わせるんだ。こんな仕事、バカでもできるぞ』
単純なミス。数字の打ち間違い。育児も睡眠不足も言い訳にはできない。それでも冷たい刃のような言葉は、容赦なく胸を抉るように突き刺さる。
ユウタはタブレットを見ながら笑っていた。
画面では最近人気の芸人が腹を出しながら、大して笑えないギャグを披露している。ユウタも真似をするように変なポーズを取る。
そんな息子の無邪気な姿が、今の私にとっては唯一の救いのように感じた。
――そう思っていた矢先のことだった。
「ねえ、ママ見て!」
息子がタブレットの画面を差し出しながら、屈託のない笑顔をこちらに向ける。
「この人、変なの――『バカ』みたい!」
息子の言葉に、私の思考が一瞬止まる。
「いま、何て言ったの……?」
思わず声に出ていた。目の焦点が合わず、呼吸が荒くなる。
「えっ……、バカみ――」
「ユウタ!」
言い放った瞬間、ユウタの肩がびくりと震えるのが分かった。
「そんな言葉使わないの。『バカ』なんて絶対に言っちゃダメ。二度と使わないって約束して」
どうしよう。止まらない。――こんなの良くないのは分かってるのに。
タブレットから笑い声が響く。嘲るような笑い。
「もし約束破ったら――」
これ以上は言っちゃいけない。こんな脅すような言い方。頭の中で上司の声がする。『バカ』と罵る言葉が何度も私を責め立てる。
「ママ、ごめんなさい――」
気づくとユウタはそう言ってとぼとぼと奥の和室へと歩いていた。叱られたときのいつもの行動。ふすまを閉め切ってしばらく黙り込む。そこでいつも私は冷静になる。
「ごめん、ユウタ――」
いまさらそんな言葉をかけたところで、口から出てしまった言葉をなかったことになどできるはずもない。返ってこないユウタの声がまた虚しく心を抉る。
それからしばらく経ったある日、夕飯の支度をしながら手が震え、私は思わず包丁を手放した。
あの忌々しい上司の声が今日もトラウマのように頭に響く。
『いつになったら、ちゃんとできるようになるんだ』
『お前、もう何年目だ?』
胃がキリキリと痛む。疲れがどっと体を覆い、重たい空気がキッチンを満たしていく。
「バカ上司……」
つい口から漏れて、はっと息を呑む。あの日の約束を思い出して、思わずリビングで遊んでいるユウタの背中を見る。
それまではしゃいでいた息子が、まるで何かに取り憑かれたようにぴたりと動きを止めた。
「ママ、――いま何て言ったの……?」
ユウタが私に背を向けたまま言う。息子の口から出ているとは思えない重く冷たい声だった。
「ちがうの、ユウタ……。これは――」
焦りからかポロポロと弁解が口を割って出る。
ユウタはおもむろに立ち上がり歩き出す。和室のふすまが静かに閉まり、部屋がしんと静まり返った。
どうしてあの日、あんなことを口走ってしまったんだろう。息子にはあんなことを言っておいて、私は自制なんてできないでいる。『約束』なんて言う言葉を軽々しく使っておいて、私はそれすらも守れないでいる。
スッ――とふすまが開き、ユウタが顔を出す――。
ずんと暗闇に沈み込んだような顔が和室の向こうに浮かんでいる。
顔の下でぎらりと何かが光った。ぬっと飛び出たそれが和室の裁縫箱にしまってあった『布裁ち鋏』だと気づくのに時間はかからなかった。
「ユウタ、それ――」
私の声にユウタの声がかぶさる。先ほどよりもずっと重たく黒い声。
「約束破ったらどうなるか……覚えてるよね」
――私はあの日、何を言った?
冷たい汗が頬を伝い、全身の毛が逆立つようにゾワリと悪寒が走る。
思い出そうとすると頭がズキズキと痛む。上司の声ばかりが頭に響く。あの日の自分が発した言葉すらも、ぼんやりとして輪郭を持たない。
和室から静かに近づいてくる無表情のユウタを前にして、私の体は何故か硬直したように動かなかった。鼓動が激しくなる。口を開いても言葉が出てこない。
「約束破ったら――ベロ……ちょん切っちゃうんだよね」
私はそんな酷いことを言っていたのか。
ユウタの手元で布裁ち鋏の重たい鈍色が光る。後ずさりする足が上手く動かず、その場に腰から崩れ落ちる。ユウタと視線が合う。生気のない眼差しの奥に闇が広がっていた。
「ユウタ……、ごめんなさ……」
私の声を遮るように、鋏の冷たい感触が唇に触れる。
ユウタの姿をした約束の権化がゆっくりと首を傾げながらニタリと笑う。
「言ったことは――守らなきゃ」
押し当てられた刃先が唇を開き、乾いていく舌先に鉄の味がじりじりと滲んでいく。じりじりと……。じりじりと。。。
#ささやかな約束
11/14/2025, 3:47:52 PM