世界には、祈りがそっと羽根を得る瞬間がある。
人が胸の奥で願いを結ぶと、その言葉は小さな光の粒となり、白い羽根を持つ『祈り鳩』へ姿を変えるのだ。祈り鳩はどんな遠いところへでも、風や星を味方につけて飛んでいく――そんな不思議な生き物だった。
ある朝、一人の少女が海の向こうに立ち上る日の出を見ながら、胸の前でそっと両手を組んだ。目をつむり、心の中に語りかけるようにして、ずっと心の中で温めてきた願いに想いを託す。
「この祈りが……できるだけ遠くまで届きますように」
少女が囁いた瞬間、小さな光の粒がキラリと光り、一羽の白い鳩が目覚めた。祈り鳩がゆっくりと羽ばたきを始めた翼の先には、ほんのり金色の光が混じっているように見えた。
「いってらっしゃい」
少女が微笑むと、祈り鳩は勢いよく空へと舞い上がり、雲の中へと進んでいく。
空の上は思いのほか忙しい世界だった。祈り鳩は雲の切れ間で、風の兄弟と出会った。
南風の兄が言う。
「おい、そこの小さな白いの。いったいどこへ向かっているのだ?」
祈り鳩は胸を張る。
「できるだけ遠いところへ行くんだ」
「ほぉ、遠いところか。ではちょっと試してやろう」
北風の弟が顔を出す。兄弟は祈り鳩をおちょくるようにくるくると風向きを変え、その度に祈り鳩は右へ左へ振り回される。
それでも鳩は諦めずに、より高いところを目指して羽ばたき続けた。
すると風の兄弟は、おもしろそうに目を丸くした。
「思ったよりも根性がある。よし、特別により高いところへ運んでやろう」
ふたりは鳩を雲の遥か上まで押し上げ、青空の天井近くへと導いた。祈り鳩は「ありがとう」と小さく礼を言い、また羽ばたきを続ける。
その先で、星の民が操る『星舟』に拾われた。夜空を渡る巨大な舟の中で、星の民は光の粒を磨きながら言う。
「やぁ、祈り鳩。どこへ向かうんだい?」
「できるだけ遠いところへ」
「そうか、では私達の航路を進むといい」
祈り鳩は舟と並び、流れる星々のあいだを進む。けれど行く手を漂う『忘却の嵐』と呼ばれる黒い霧に飲み込まれる。
なぜ飛んでいるのかを見失いそうになりながら、少女の祈りまでもが輪郭を薄くする。
――だめだ……忘れちゃ……。
必死に羽根を震わせると、祈り鳩の体からまばゆい光があふれた。光が霧を押しのけ、星舟の周囲には再び無数の星が瞬く夜空が広がった。
「よくやったな」
星の民が鳩の背を撫でる。祈り鳩はくすぐったそうに羽根をぱたつかせ、星舟を背中で見送り、先へと進む。
やがて鳩は『宇宙鯨』と呼ばれる巨大な生き物に出会った。島のような体で、青白い光をまといながら泳ぐその姿は、まるで夜空の海を漂う大きな夢のようだった。
「小さな翼の者よ。どこへ向かう――」
「できるだけ遠いところへ」
宇宙鯨は静かにうなずき、ヒレで空間をかき混ぜた。夜空を漂う銀色の粒が、寄り集まっては渦を巻き、中心にぽっかりと真っ黒な穴があいた。
「この先は境界だ。行けば二度と戻ることはできぬぞ」
祈り鳩は迷わなかった。少女の祈りはただ『遠くへ』行くことを望んでいる。
「ありがとう、宇宙鯨さん」
そう言って、鳩は穴の中へと吸い込まれるように進んでいく。
その瞬間、世界は一変した。
風が止み、光も音も消えた。
色も重さも温度さえも存在しない、完全な『無』――。
祈り鳩は自分が飛んでいるのか、止まっているのかすら分からなかった。そこにはただ進んでいるという確信だけがあった。
どれほど進んだ頃だろうか。
――ッッッッッッッ……
暗闇の中に小さな波が立ち始めると、祈り鳩はようやく羽ばたいている感覚を取り戻す。
――トクトクトクトク……
波の音がはっきりしていくにつれ、闇の奥に朝焼けの色が滲みはじめる。ぼんやりとした桃色の薄明りが鼓動に合わせて小刻みに揺れ、世界がほんの少しずつ輪郭を取り戻していく。
それは母なる海の中に漂う――生命だった。祈りには『果て』なんてなかったのだ。
祈り鳩は静かに悟る。少女の心から遥か遠く、果てだと思った場所は、新たな始まりだった。祈りは絶えることなくどこまでもつながっていくのだと。
祈り鳩は新しく生まれた命の中で、小さな光の粒となって永遠に羽ばたきを続ける。いつか、この命が願いを胸に宿した時、その想い再びを遠くまで届けられるように――。
#祈りの果て
11/13/2025, 8:07:43 PM