タイトル『忘れない方法』
十歳のミユは忘れ物ばかりで、しょっちゅう先生にもお母さんにも怒られていた。上履き、宿題、水筒、給食袋。ちょっと前まで覚えているのに、気づいたら忘れている。
「もう、ミユったら。また忘れたの?」
そう言われても、ミユには答えようがない。だって、気がついたら風船のように飛んでいってしまうのだから。
ある日、ミユは頭のすぐ上に浮かぶ昨夜のハンバーグを見て、ふと思いつく。
「風船みたいに『ひも』でくくっちゃえばいいんだ!」
ミユは、すぐに押し入れの奥から手芸用のひもを持ち出して、浮かんでいるハンバーグにひょいっとひもを垂らす。ぐるぐると巻いて、結び目をつけ、静かにそっと手を離す。
すると、ハンバーグは空中でぴたっと止まり、ぽよん、と軽く揺れた。
「やった!」
そこからはどんどん楽しくなって、浮かんでいる記憶を見つけては、片っ端から結んでいく。
学校の思い出、両親の言葉、友達の笑顔、そして近所の猫までも。ミユの周りに、色とりどりの記憶がどんどんと浮かんでいく。
ある時、ミユは自分の体がふっと軽くなるのを感じた。足元を見れば、わずかに地面から浮いている。
次第に地面は離れていき。ミユは思い出の風船にに引っぱられながら、空へ、空へと吸い込まれていった。
雲が近づくなか、ミユの前に、小さなころの記憶がぷかぷかと浮かび上がる。
小学校に入った日のランドセルの重さ。
幼稚園で友達と喧嘩して泣いた日の鼻水。
赤ちゃんのころに感じたお母さんの温もり。
ミユは、目に入るぷかぷかを片っ端からくくりつけていく。その度に、空へ昇るスピードはどんどんと上がっていく。
あっという間に雲が視界を覆い、遠くから短い心音が聞こえてくる。お母さんのお腹の中で浮かびながら感じた温かい音。
心音のリズムをくくりつけて、ミユの身体はさらに加速度を増して上がっていく。
下を見ると、すでにミユの家も街もどこにあるのか分からないほどに小さくなっていた。
雲を抜けると、そこは全く知らない世界。街の風景、家の形、人々の格好、そのどれもがミユの住んでいる街のものとは違っていた。それなのになぜか感じる懐かしさがあった。
人々は、笑ったり泣いたり、時に争ったり抱き合ったりしながら、ミユの横を通り過ぎていく。
徐々に空が薄暗くなってくる。
夜と昼が溶け合っているような不思議な空の色。
猿に近い姿をした人々が、たき火を囲みながら談笑し、槍を持って大きな生き物を追いかける。
と思えば、毛むくじゃらの両手両足で地面を蹴り上げて、うっそうと茂る森の中を駆けていく。
ゴォォという激しい音が近づいてくる。
視界の先では、たくさんの岩の塊が火に包まれながら飛んできては空気の中で散っていく。
ドカン!
と目の前に浮かんだ火山が噴火したかと思えば、一転して目線が高くなる。目の前を翼竜が飛び、足元を小さな恐竜が素早く駆けていく。私は首の長い恐竜のようで、視界を大きく振りながら、辺りを悠々と見渡す。
辺りはすっかり暗くなった。太陽の光と星空が一緒に広がる不思議な景色。まるで太陽の光が夜の闇に吸い込まれていくようだった。
それは、まるで深い海のようにも見えて、暗がりの中でチカチカと光る魚やイカのような、それよりもっと単純で透明なものが目の前を漂っている。どれもミユが初めて見るものだったが、それらはなんとなく生きている気がした。
とうとう泡の音も、水の音も消え、辺りは静寂に包まれる。しんと張り詰めた暗闇の中、もはや形すらも分からないものがふわふわと浮かぶ。生きているのかも分からない。ミユ自身も自分が動いているのか、ましてや自分と闇の境界線すら分からない。
いつしかミユの周りに集まった思い出は、ひもも見えないほどに大きくなっていた。
時間も空間も飛び越えて、様々な生物、自然の記憶が混在している。それでも、ミユの心は確かにそこにあり、懐かしいという感情はいつまでも残っていた。
――そっか、浮かんでいった思い出は、ここに帰ってこようとしてたんだね。また別の誰かの思い出になるために。
ミユを覆う思い出が、暗闇の中に消えていく。次第にミユの心に、体の輪郭が蘇ってくる。
目を開けると、ミユは部屋の真ん中で横になっていた。
とても壮大な夢を見た気分。早くお母さんに伝えたくて、廊下をバタバタと走っていく。
「ねぇ、お母さん。すごい夢見た!」
キッチンで晩御飯の準備をしていたお母さんが、驚いた様子でミユを全身で受け止める。
「あら、どんな夢なの?」
お母さんに答えようとして、ミユがはたと動きを止める。
「あれ、なんだっけ?」
夢の内容は、すっかりミユの頭から消えていた。
「忘れちゃった」
「もう、ミユったら」
ミユが笑って、お母さんも笑う。
そうして、ミユの頭の上に思い出がひとつ、またぷかぷかと浮かんで空の彼方へ飛んでいくのだった。
#時を繋ぐ糸
11/27/2025, 3:59:40 AM