結城斗永

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タイトル『いつものポタージュ』

 恵(めぐみ)からの返信が来なくなって、今日で三日目。今日も『おはよう』のメッセージに既読がついたのを確認して、いつもの朝が始まる。
 恵はたまに「ひとりになりたい」と漏らす。それから数日はこうして一切の連絡が途絶える。

 ベットから出て顔を洗い、歯を磨く。朝食は決まって一枚のトーストとお湯を注ぐだけのポタージュスープ。恵もこのスープが好きだった。
 満員電車に押し込まれて職場に向かい、黙々と仕事に励む。仕事終わりにスーパーでを買い物をして、夕食後は恵と何度も観た映画を流しながら洗濯物を畳む。
 恵のことを考えない時間はないけれど、自分のリズムだけは崩さないように、日々を静かに送っていた。 
 
 もちろん初めは戸惑った。
 何か気に障ることをしただろうか、彼女を傷つけるようなことを言ってしまったか、と。考えれば思い当たる節がないわけではないし、どんな些細なことも原因に思えてくる。
 閉ざされた心の扉は、いくら力づくで開けようとしてもよりきつく閉まるだけだった。
 
 ある日思い切って理由を聞いてみたら「たまにあることだから気にしないで」と言う。その日から『そういうものなのか』と思うようにした。
 だから、いまはただ、触れるか触れないかのところに寄り添って、心の扉が自然と開くのを待つ。それが最良に思えた。


 その週の土曜日、ベランダで洗濯物を干しているとインターホンが鳴った。
 玄関を開けると、恵が俯いて立っていた。
「……久しぶり」
 表情は暗く、言葉も短かったが、ひとまずはその声を聞けただけで、胸がすっと温かくなる。
「おかえり……」
 僕も短く返事をする。
「たまたまスーパーで見かけたら飲みたくなって――」
 そう言って恵が差し出したビニール袋には、毎朝飲んでいるポタージュスープが一箱だけ入っていた。
「ありがとう……。上がってく?」
 僕がそう言うと、恵は少し顔色を伺うような素振りを見せながらも、ゆっくり頷いた。

 ソファに座った彼女は、指先を落ち着きなく動かしている。僕はキッチンでやかんにお湯を沸かしながら、マグカップを二つ用意する。
 しばらくして恵の重い口が開く。
「ありがとう……。もうだいぶ落ち着いた」彼女の言葉に、僕はただ黙って頷く。「……ずっとそばにいてくれたのは分かってる。なんていうか、その……」
 恵が言葉を詰まらせる。
「無理に話さなくてもいいよ」
 僕は食器棚から取り出したお揃いのマグカップに、彼女が買ってきたスープの粉末を移す。
「ううん、話したい」
 恵が俯いたまま静かに呟く。

「……時々、理由もなく怖くなるの――。人に触れれば触れるほど、ひとりになっていく気がして……。ひとりになりたくないのに、気づいたら心に鍵をかけてる」
 沸騰したお湯がふつふつと音を立ててやかんの口から溢れ出す。俺は静かに火を止めて、湯面が落ち着くのを待つ。
「私――」静かな部屋に、やかんの口から漏れる湯気だけが立ち上っていく。「鍵の開け方、わかんなくなっちゃった……」
 恵が一層顔を伏せた。
 返すべき言葉を探しながら、沸騰したお湯をマグカップに注いでいく。枯渇した粉末が熱湯を吸収し、膨張しながら溶けていく。
 結局、そんな言葉は見つからなかった。どんな言葉も慰みにはならない気がした。
 スープの上に残った粉末の塊を、ティースプーンでお湯に落としすように軽くかき混ぜる。スープの表面にできた白い泡の渦は、次第に馴染んでとろみを増していく。

 僕は湯気の立つマグカップを恵に差し出した。
「どうぞ――」
 彼女は両手で包み込むようにカップを受け取る。僕は拳一個分空けて彼女の隣に座る。
「僕は恵のためなら、いくらでも待てる」
 あまりにも自然に口に出た。――いや、この距離だから言えたんだと思う。
「僕は僕のまま、いつもと変わらない姿で君を迎えるよ」
 恵が小さく微笑んでカップに口をつける。僕も続いてスープを一口含む。喉元へ落ちていくスープが体の内側を通るたび、芯からじんわりと温まっていく。
「やっぱりなぁ……」
「やっぱり……?」
 恵の横顔が先ほどより温かく見える。
「私の鍵……、あなたのスープだった」
 そう言ってもう一度カップに口をつける。

 部屋にはいつもと変わらない空気が漂っていた。ソファに二人並んで、いつものあの映画を観ながらただ静かにスープを飲む。どこにでもある普通のスープが、2人の間に流れる沈黙をゆっくりと温かく溶かしていく。

11/25/2025, 7:14:43 AM