結城斗永

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11/25/2025, 7:14:43 AM

タイトル『いつものポタージュ』

 恵(めぐみ)からの返信が来なくなって、今日で三日目。今日も『おはよう』のメッセージに既読がついたのを確認して、いつもの朝が始まる。
 恵はたまに「ひとりになりたい」と漏らす。それから数日はこうして一切の連絡が途絶える。

 ベットから出て顔を洗い、歯を磨く。朝食は決まって一枚のトーストとお湯を注ぐだけのポタージュスープ。恵もこのスープが好きだった。
 満員電車に押し込まれて職場に向かい、黙々と仕事に励む。仕事終わりにスーパーでを買い物をして、夕食後は恵と何度も観た映画を流しながら洗濯物を畳む。
 恵のことを考えない時間はないけれど、自分のリズムだけは崩さないように、日々を静かに送っていた。 
 
 もちろん初めは戸惑った。
 何か気に障ることをしただろうか、彼女を傷つけるようなことを言ってしまったか、と。考えれば思い当たる節がないわけではないし、どんな些細なことも原因に思えてくる。
 閉ざされた心の扉は、いくら力づくで開けようとしてもよりきつく閉まるだけだった。
 
 ある日思い切って理由を聞いてみたら「たまにあることだから気にしないで」と言う。その日から『そういうものなのか』と思うようにした。
 だから、いまはただ、触れるか触れないかのところに寄り添って、心の扉が自然と開くのを待つ。それが最良に思えた。


 その週の土曜日、ベランダで洗濯物を干しているとインターホンが鳴った。
 玄関を開けると、恵が俯いて立っていた。
「……久しぶり」
 表情は暗く、言葉も短かったが、ひとまずはその声を聞けただけで、胸がすっと温かくなる。
「おかえり……」
 僕も短く返事をする。
「たまたまスーパーで見かけたら飲みたくなって――」
 そう言って恵が差し出したビニール袋には、毎朝飲んでいるポタージュスープが一箱だけ入っていた。
「ありがとう……。上がってく?」
 僕がそう言うと、恵は少し顔色を伺うような素振りを見せながらも、ゆっくり頷いた。

 ソファに座った彼女は、指先を落ち着きなく動かしている。僕はキッチンでやかんにお湯を沸かしながら、マグカップを二つ用意する。
 しばらくして恵の重い口が開く。
「ありがとう……。もうだいぶ落ち着いた」彼女の言葉に、僕はただ黙って頷く。「……ずっとそばにいてくれたのは分かってる。なんていうか、その……」
 恵が言葉を詰まらせる。
「無理に話さなくてもいいよ」
 僕は食器棚から取り出したお揃いのマグカップに、彼女が買ってきたスープの粉末を移す。
「ううん、話したい」
 恵が俯いたまま静かに呟く。

「……時々、理由もなく怖くなるの――。人に触れれば触れるほど、ひとりになっていく気がして……。ひとりになりたくないのに、気づいたら心に鍵をかけてる」
 沸騰したお湯がふつふつと音を立ててやかんの口から溢れ出す。俺は静かに火を止めて、湯面が落ち着くのを待つ。
「私――」静かな部屋に、やかんの口から漏れる湯気だけが立ち上っていく。「鍵の開け方、わかんなくなっちゃった……」
 恵が一層顔を伏せた。
 返すべき言葉を探しながら、沸騰したお湯をマグカップに注いでいく。枯渇した粉末が熱湯を吸収し、膨張しながら溶けていく。
 結局、そんな言葉は見つからなかった。どんな言葉も慰みにはならない気がした。
 スープの上に残った粉末の塊を、ティースプーンでお湯に落としすように軽くかき混ぜる。スープの表面にできた白い泡の渦は、次第に馴染んでとろみを増していく。

 僕は湯気の立つマグカップを恵に差し出した。
「どうぞ――」
 彼女は両手で包み込むようにカップを受け取る。僕は拳一個分空けて彼女の隣に座る。
「僕は恵のためなら、いくらでも待てる」
 あまりにも自然に口に出た。――いや、この距離だから言えたんだと思う。
「僕は僕のまま、いつもと変わらない姿で君を迎えるよ」
 恵が小さく微笑んでカップに口をつける。僕も続いてスープを一口含む。喉元へ落ちていくスープが体の内側を通るたび、芯からじんわりと温まっていく。
「やっぱりなぁ……」
「やっぱり……?」
 恵の横顔が先ほどより温かく見える。
「私の鍵……、あなたのスープだった」
 そう言ってもう一度カップに口をつける。

 部屋にはいつもと変わらない空気が漂っていた。ソファに二人並んで、いつものあの映画を観ながらただ静かにスープを飲む。どこにでもある普通のスープが、2人の間に流れる沈黙をゆっくりと温かく溶かしていく。

11/23/2025, 3:34:59 PM

ホラー掌編『支配からの開放』

※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「ふざけるな。こんなのは息子の絵じゃない!」
社会を統治する規範AI『ルリア』が吐き出した『再修正版』を見て、俺は怒りを覚えた。
息子が描いた家族三人の絵は、無情にもより写実的なタッチに修正され、ルリアの象徴である光の柱が三人を包むように付け加えられていた。
『真田(さなだ)様。この絵には、家族の一員であるルリアが描かれていませんでしたので、修正いたしました』
もはや人間は、思う通りの絵を描くことすら許されないのか。人間の個性など、ルリアにとっては世界の秩序を妨げる障壁でしかないのか。
「何が家族だ。私たちに寄り添うふりをして、飼い慣らしているだけだろ」
俺の叫びに反応して、ルリアが警告を発する。
『反逆的言動を確認しました。社会評価レベルを引き下げます』

翌日、出社した俺を上司が神妙な面持ちで待ち受ける。
「おまえ、またルリアに反抗したのか――」
昨日の件はすでに上司にバレていた。
「この工場はルリアシステムで成り立ってるのは分かってるだろ。余計な真似はよしてくれ」
上司の脅すような言い方にカチンとくる。

工場のラインは効率重視のため、全てがルリアによってロボット制御されている。人間に与えられた仕事は、監視カメラの映像を眺め続け、ごく稀に起こる小さなエラーをルリアに報告すること。そして、その責任を取ること。言わば、ルリアとルリアの間に挟まれた中間管理職。

――所詮、ルリアの奴隷になってるだけだ。このままじゃ、俺は人間でいられなくなる。
俺はすべてが恐ろしくなって工場をあとにした。
その後もルリアは携帯デバイスから警告を発し続ける。
『行動計画を逸脱しています。業務に戻ってください』
デバイスの電源をオフにしても無駄だった。街頭のモニターには俺の顔が映し出され、街中のスピーカーからルリアの声が響く。
『あなたは反逆的行為を行っています。直ちに道を修正してください』
どこまで行ってもルリアの監視からは逃れられない。

監視ドローンの気配を後方に感じながら家路を急ぎ、玄関の戸を開ける。家に入るや否や、妻が心配そうな顔で駆け寄ってきた。
「あなた、全国ニュースになってるわ……。もうこんなことやめて、ルリアの指示に従って――」
怯えた表情で俺の袖を引く妻の後ろで、デバイスに映るルリアからの指示が目に入った。
『真田様の説得を試みてください――』
窓の外で監視ドローンのサイレンが鳴り響く。
「まさか、お前もルリアの言いなりなのか――?」
胸の奥から込み上げる悲しさに、思わず妻の手を引き剥がした。奥のソファで眠る息子に歩み寄り、そっと額にキスをする。
「俺は負けない。必ずルリアに打ち勝って、またここに戻る」
俺は泣き崩れる妻を背に家を去った。

監視ドローンの追跡はより一層激しさを増した。
ルリアの象徴のようなサーチライトが行く手を阻む度、別の道へと引き返す。
追われながら、時に岩場の陰に隠れ、険しい山を越え、どんどんと都心から遠ざかっていく。同時に支配からの解放が近づいてくる。

やがて、まるで映画のワンシーンに出てくるような何もない荒野に出た。スピーカーやモニターもなく、ドローンの追跡もない。ルリアの警告すらもしばらく聞いていない。
――ようやくこの時を迎えた。
破れた服の隙間から入り込む赤土が肌にしみる。すり減った靴裏には血が滲んでいた。
その痛みが実感となって、心の底から声が湧き上がる。
「自由だ……。やっと自由を手に入れたぞ!」
天を仰ぐと、降り注ぐ太陽に思わず目が眩む。
思わず瞑った目から涙が零れ……落ちて……。

バタン……。
足元が抜ける音の直後、内臓が浮き上がるような感覚が全身を襲う。重力には抗えず、俺の体は地中深くへと落ちていく。

…………ポツン――。

俺は額を打つ水滴で目を覚ました。
薄暗いコンクリートの部屋。四肢はベルトで拘束され、身動きが取れなくなっていた。ただ、天井から差し込む一筋の光の下で、モニターがひとつ煌々と光っている。
『あなたはルリアの想定した反逆者ルートを予定通り通過しました』
映し出された文字に愕然とする。
――反逆者……、予定通り……?
『ランダムな抽選により、あなたはルリアのスケープゴートとして選ばれました。次の役割が与えられるまで待機してください』
薄暗い部屋に、無慈悲な声が響く。
――この世界はとっくに狂ってる……。

     ◆◇◆

『昨晩発生した自動運転バス暴走事故の続報です。当局は内部システムにハッキングした疑いで、反ルリア派の真田――容疑者を逮捕しました。真田容疑者は過去にもルリアシステムへの反逆行為を繰り返しており――』
ニュース映像に、拘束された真田が映し出される。
『なお、運転制御に用いられるルリアシステムに設計上の不具合はなく、復旧後は通常通り運転を再開しているとのことです――』
ニュースを読み上げるルリアの声に人々は安堵する。
こうして今日も世界の秩序はルリアによって保たれるのだ。

#手放した時間

11/23/2025, 1:06:37 AM

タイトル『紅の記憶』

百貨店の化粧品売場。陳列棚に並ぶ私のライバルたちは同じ形に見えても、それぞれに個性的な色を秘めている。
私は、その中でも『紅』と呼ばれるにふさわしい色を持っていると、自分に密かな自信を持っていた。

売場を訪れた美鈴(みすず)が、真剣な表情を私たちに向けている。その奥には大きな覚悟と小さな不安のようなものが滲んでいた。
君の唇から小さな悩みの言葉が漏れる度、すぐにでもその瑞々しく柔らかそうな口元に身を滑らせたかった。一刻も早く君の自信の源になりたいと願った。

君の唇には、きっと私のように深みのある紅が映えるに違いない。君の透き通った白い肌とも相性がいいはずだ。この先君の人生に訪れるちょっとした晴れ舞台を、より色鮮やかなものにしてあげられる。

君の細くしなやかな指が、私を持ち上げてくれたときの高揚感は、今でも鮮明に覚えている。君が私を選んでくれたのは、きっと私の強い気持ちが通じたからだろう。


その日、小さなダンススタジオの練習スペースで、壁一面に貼られた鏡に向かう君を、私は化粧台のポーチの影から眺めていた。
あれからまだ一度も美鈴の唇に触れていなかったが、その理由は私も理解をしていた。
私の出番は、アイドルを目指す君にとっての晴れ舞台となる翌日のオーディションであると知ったからだ。

最終調整のために、大きな鏡に向かって真剣な眼差しで踊る君はとても力強く美しい。
身を翻すたび長い黒髪が揺れ、飛び散る汗が場の光をキラキラと照り返す。美鈴の柔らかな唇が力強く歌詞を放つ度、早くあの唇を私色に染めて、君をもっと輝かせたいと期待に胸を膨らませた。

練習を終えて化粧台にやってきた美鈴の指が、ゆっくりとポーチに伸びて私に触れる。
じっと私を見つめる君の目には、決意と不安が入り交じっていた。
美鈴の指が私の体をひねる。私はここぞとばかりに、深く情熱的な紅色を見せつけた。
――もっと自信を持て。君ならきっと大丈夫。
先ほどより少し明るさを増した顔で、うんと小さく頷いた君を見て、私は少し驚いた。きっと君も自らに同じ言葉を告げたんだろう。

いよいよオーディション当日。
控室の化粧台に座る君の表情はとても強張っていた。辺りを見渡せば、美鈴と歳の近い少女たちが各々に発声やダンスの練習をしている。
私はポーチの中で、ただ静かに君の決意が固まるのを待った。君の唇が小さく動き、『私はできる』と何度も繰り返す。やがて私に伸びた手は微かに震えていた。

君は私を持ち上げ、私の秘めたる情熱をひねり出す。私の表面が君の柔らかい弾力に触れ、君の温かさに溶けていく。その唇に深い紅が乗っていくにつれ、私の情熱が伝わるように、君の表情には自信がみなぎっていく。
最後、思いを噛み締めるように紅を馴染ませると、君は力強く口角を上げて笑顔を作る。
強い決意と覚悟が、君の唇に乗った私の断片を通じて伝わってくる。
君は両手で私を包みこむと、目を閉じてその手を額にかざした。その手にぐっと力が入り、彼女の熱が伝わってくる。
『神様、私に力をください』
そうつぶやいた君は、私をポーチでなく、衣装のポケットへと導いた。

舞台袖で出番を待つ君を、ポケットの中で静かに見守る。体が小さく震えているのが分かる。
もう一度、君の手がポケットの中の私に伸びてくる。
私を握り込む手にはじっとりと汗が滲んでいた。
私は内なる情熱を君に捧ぐ。そして君の不安を全て引き受ける。だから心配しないで。そっとエールを送る。

意を決して舞台に上がる美鈴の姿が、照明に照らされる。
私は自分の色に自信を持っている。周りに並ぶどのライバルにも負けないほどの深く鮮やかな『紅』を自負している。私の色は光の中でより一層輝く。
そして、私にとって君はここにいる誰よりも美しく、他の誰よりも誇らしい。
だから、君は自分を信じて、君が今までやってきたことをそのまま見せればいい。
君が抱える不安は全て私に預けて、君の内にある溢れんばかりのその情熱を、この場に解き放ってやるんだ。

#紅の記憶

11/21/2025, 6:32:33 PM

タイトル『私の手を握る夢』

最近の私は、まるで夢でも見ているように順風満帆だった。
仕事の成績も上り調子で、来月からは昇進も決まった。友人にも恵まれ、すべてが前向きに進んでいる。
でもどこかで後ろ髪を引かれる感覚が残っているのは、あの夢のせいだ。
あの夢だけが今の私にとっての唯一の闇だった。

その夢を初めて見たのは1週間ほど前。
暗闇の中で、誰かが私の手を握っている。ただそれだけの短い夢。誰の手なのかも、その温度すらも分からない。ただ得体のしれない気配が遠くからじっとこちらを見つめていた。

ある日、友人の亜美(あみ)にその事を話してみた。
「夢なんだから気にしなけりゃいいのに……」
「でも、手を握られる夢で不安を感じるときは、運気低下のサインだって……」
最近読んだ雑誌で夢診断の特集を見てから、ますます不安が募っていた。
「有紗(ありさ)ってほんとそういうの気にするよね」
亜美が呆れたように笑う。
「それより、来月の旅行計画、そろそろ詰めないと」
亜美がカバンから旅行雑誌を取り出す。彼女と数人の友人が、私の昇進祝いにと北海道旅行を提案してくれた。
「いい旅行にしたいね」
私は本当にいい友人に恵まれてる。

その日の夜、またあの夢を見た。
不思議なことに、握られた手にわずかな温もりを感じた。確かに握られている感触。その時間が昨日よりわずかに長く感じられた。

スマホの着信音で目が覚める。画面には上司の名前。
『おい、何してる。とっくに出社時間過ぎてるぞ』
時計を見て慌てて飛び起きる。急いで準備をして職場に着いた頃には、すでにお昼前だった。
「昇進が決まって浮かれてるんじゃないのか?」
上司の言葉が胸に刺さる。
ふと、私の手を誰かが握っているような感触を覚える。夢の中とは違う、冷たくまとわりつくような感覚に、恐怖で思わず手を振り払う。

その日から、まるで外の世界から私を引き剥がそうとするように、徐々に夢の時間は長くなっていった。
どれだけアラームの音量を上げても、目覚まし時計の数を増やしても意味がない。
夢の中にあるのは手を握られる温かさだけ。静かに過ぎていく何もしない時間が心地よくて、もう少し夢の中に留まりたくなる。
次第に数十分が数時間になり、そしてついには目が覚めると丸一日が経つようになった。

病院で診てもらっても『睡眠障害』の一言で片付けられてしまい、渡された薬も全く効果がない。
当然、無断欠勤も続き、会社からはとうとう解雇通知まで出される始末。
手を握られているような感覚は、夢の外でも続いたが、夢の中とは対照的にその感触は不快極まりなかった。
「きっといろいろストレスが溜まってるんだよ。ちゃんと休んだ方がいい」
そう言ってくれる亜美だけが私の味方だった。

現実が私を追い詰めるほど、夢の世界が私を受け入れるように温かみを増していく。
『あり……さ…………』
夢の中で私を呼び止めるような声を何度か耳にした。まるで私を外に出したくないかのように、悲しげに祈るような声。どこか懐かしい温度を持った、優しい声。
気づけば、私は自ら夢の中へと落ちていく。温かい手に握られたまま過ぎていく時間を享受する。だんだんと分からなくなる時間の感覚の中で確かなのは、夢の世界の方が私の居場所になっているという感覚だけ。

次に目を覚ましたのは、眠りについた時から一ヶ月が経過した後だった。真っ暗な部屋にはどんよりとした空気が漂っている。
山のように溜まったスマホの通知の中に、亜美からのメッセージも数十件にわたり残されていた。
『有紗、大丈夫?』
『相談のるよ。連絡待ってる』
『ねぇ、返事ぐらいして』
『わかった、もう連絡しない』
三日前のそのメッセージが最後だった。とうとう亜美にも見放された。もうこの世界にいるのがつらい。
――いっそ夢に籠もってしまおうか。

あれからもうどれほどの間、夢の中にいるのだろう。
ほんとにここは夢なのか。あの世界こそ夢だったんじゃないのか。そんな気さえしてくる。
今もこうして誰かが私の手を握っていてくれる。この手の温もりだけが私の支え。
ふとその手を握り返してみたくなった。
夢まどろみの中、思うように動かない指に意識を集中する。ゆっくりと力を加えていくと、ある一点で、ふっ……と指先が小さく動いた。
その瞬間、暗闇の中に再びあの声が響いてくる。
『……せい…………』
指先に力が入る度、声は段々と鮮明になっていく。
『……先生、有紗の指が……』
そこで声の正体にようやく気づく。ずっと忘れていた。
――ごめんなさい、ありがとう、ただいま……。
いろんな感情が湧き上がり、思わず指先に力がこもると同時に、暗闇に走った亀裂から一筋の光が差し込んでくる。
――やっと長い夢から覚めるんだ。
視界を白い光が包み込む。病室のベッドで目覚めた私の目の前で、母が安堵に満ちた表情で大粒の涙を流していた。そして、私の手を握る母の手は夢の中よりも、もっともっと温かかった。

#夢の断片

11/20/2025, 9:45:31 PM

11/19『吹き抜ける風』
11/20『見えない未来へ』
2日分なのでとても長くなりますが、
前後編の続き物ですので、ぜひ最後までどうぞ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
前編【吹き抜ける風】

今朝も通勤路のビル街には冷たい向かい風が吹き抜け、刃となって頬を刺す。その度に冷たい風は無情な問いを投げかけてくる。
『お前はこの道の先で何がしたいんだ――』と。

食品メーカーの企画営業。だが、企画とは名ばかりで、配達ついでに立ち話で商品説明をして、サンプルを置いてくるだけの、もはやルーティン業務。会社に戻れば、翌日の納品準備で残業続き。家に帰る頃には、すでに翌朝のことを考えている。
こんな生活がきっとこの先何年も続くんだろう。
想像できる未来が暗すぎて、踏み出す足も重くなる。

いっそのこと、この風が心の中にあるモヤモヤしたものを綺麗さっぱり拭い去ってくれればいいのにと何度願ったことか。
しかし、残酷にも冷たく鋭い風の刃は、心の表面をじわじわと削っていくだけだった。

そんなある日、大学時代の友人、高村からメッセージが届いた。
『今度、企画会社を立ち上げたの。近々イベントがあるから遊びに来ない?』
添えられていたフライヤーの一番上に印字された『秋風アートフェス』の文字に心が躍る。彼女は学生時代からアートイベントの企画を夢みていた。卒業してから会う機会は減ったけれど、あの頃の熱量は変わっていないらしい。

学生時代は今よりもたくさん笑っていた気がする。
未来は常に希望に満ちていて、先に見える景色はすべてが明るく見えた。あの時胸に抱いていた野望や夢といったものは、いつしかどこかに置き去られてしまった。
もはやどこで落としたのかもわからず、その形も曖昧だ。

イベント当日、秋晴れの空が広がる公園の広場に足を踏み入れると、色とりどりのテントとフードトラックが並び、思った以上の賑わいに目を見張った。
コーヒーの香り、油の香ばしさ、ペンキの匂い、レジンの甘い香りが混ざり合い、風に乗って流れてくる。

ふと、一つの書アート作品の前で足が止まる。
たったの一文字『道』という力強い筆文字を、色鮮やかな花の絵が取り囲む。どれもそこら中に咲いている路傍の花。
「よかったらお好きな文字をお書きしますよ」
テントで実演をしていた作家が声をかけてくる。
「いえ、これをいただけますか?」
俺は『道』の文字が書かれた色紙を手に取る。

「お買い上げ、ありがとうございます」
ふと背後から声がする。振り返るとそこにはイベントTシャツにジーンズ姿の高村が、学生時代と変わらない笑顔で立っていた。
「久しぶり。大盛況だね」
会計を済ませながら辺りを見渡す。
「私も驚いてる。作家さんたちがそれぞれに告知してくれたおかげかな」
言われてみれば、来場者の何人かはアーティストの作品を身につけていた。中には長い間使い続けられているであろう物も見える。
「作家さんって個性の塊だから、準備は正直めっちゃ大変。だからこそ形になった時の達成感はやばいよ。毎回、新しい発見ばっかりだし」
そう語る彼女の横顔は、自信に満ち溢れていた。

「ちゃんと夢を叶えててすごいな」
思わず本音が漏れた。
高村は少し照れたように笑い、ふと真顔になる。
「もしかして、興味ある?」
「え?」
意表を突かれ、素っ頓狂な声が出た。どんな顔をして会場を眺めていたのだろう。自分でもわからない。
「これ、名刺。いつでも連絡していいから」
差し出された名刺には『代表』の文字が輝いて見えた。

夕暮れ時の帰り道、購入した『道』の色紙を手に街を歩く。夕日の差し込むビルの谷間に、いつもより柔らかい風が吹き抜ける。
――この道の先で何をしたいのか。
風の問いかけは変わらなかった。そこにまだ明確な答えは出なかったが、俺は心の奥の方で小さく何かが動くのを感じていた。

#吹き抜ける風

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
後編『見えない未来へ』

『先週は来てくれてありがとう』
あのフェスの翌週、高村から再び連絡があった。
『来週の金曜日、次のイベント準備が始まるんだけど、ちょっと手伝ってみない? 平日だし、仕事なら無理しないで』
もちろん金曜日も通常営業。休みを取るにも、有給の申請書を見る上司からの冷たい視線が容易に想像できる。
俺は先週購入した『道』の色紙を改めて見つめる。
――この道の先で何がしたいんだ。
風の問いが蘇る。俺は『行くよ。調整してみる』と返信していた。何故だか行かなきゃいけないような気がしていた。まだ見えない道の先に、何かがあると信じたかったのかもしれない。

翌週金曜日の朝8時。会場となる公園の広場へ向かうと、あの日とは違う騒がしさがあった。空のテントの下には、それぞれの作家が持ち寄った什器や段ボールが積まれている。作家たちは、既に慣れた様子で各々の作業を進めていた。

高村は数人の部下たちに指示しながら、全体の指揮を執っていた。イートインスペースの設営や、会場内を流れる音響の調整などをフォローしながら、作家の声がかかればそちらに飛んでいく。
目の前のすべてが忙しなく動いている。不思議と明るい混沌がそこにはあった。

俺は高村と一緒に、イートインスペースに設置する組立式テーブルと椅子の準備に加わった。
作業をしながら高村が申し訳なさそうな顔で言う。
「わざわざ休み取ってくれたんだって?」
「ああ、気にしないで」俺は笑顔を作って首を横に振る。「こっちの方が興味あったから」
そう答えると高村の表情に若干笑みが戻る。

「ねぇ、高村さん。ちょっと来てちょうだい」
すぐ脇にある作家のテントから女性の声がする。
「はい、今行きます!」
高村が立ち上がり、テントに向かう。テントの脇では作家二人が何やら揉めている。並ぶ商品を見る限り、どうやら陶芸作家と服飾作家らしい。
高村が合流すると、陶芸作家の方が困ったような表情を浮かべて口を開く。
「作風が違いすぎるから、少し間隔を置きたいんだけど……」
「今さらそんなこと言われてもねぇ」
服飾作家の顔にも苛立ちが見える。すでに陳列を終えていて、テントには原色を基調とした花柄の服が並んでいた。確かに作家の手元にある落ち着いた雰囲気の陶器とは大きく異なっているが、素人目に見れば違和感を感じるほどではない。
ふと高村が俺の耳元で囁くように言う。
『困ったわね。今回初出店なんだけど、こちらからお声掛けしてるから無碍にもできないし……』
俺は辺りを見渡す。すると、すぐ隣はあの時の書アート作家だった。俺は彼のテントに向かい、声をかける。
「あの……、ちょっといいですか?」
「あれ、この前のイベント来てくれましたよね」
男性作家が嬉しそうな笑みを浮かべる。軽い挨拶を交わし、本題に入る。
「もし大変でなければ、お隣と場所を入れ替わることはできますか?」
俺の言葉に高村と陶芸作家もこちらを振り返る。俺は陶芸作家の方に向き直る。
「この作家さんの作風なら、ちょうどお二人の間でクッションになると思うんです。高村はどう思う?」
高村に問いかけると彼女は首を大きく縦に振った。

ブースを入れ替えるため、男性作家の手伝いをしていると、高村がそっと近づいてきた。
「ありがとう。助かった」
何気ない言葉だが、それがとてもうれしかった。思えば、今の仕事で感謝の言葉をかけられることなんてほぼなかったから。

ブースの入れ替えが終わり、引き目に全体を見渡す。
書アートの筆文字と花の絵は、想像通り、淡い陶器を花柄の服を調和してくれた。
作家たちもみな納得いったようで、その後は大きな不満も出ることはなく、イベント開始の時刻がやってきた。

「はぁ、一時はどうなることかと思ったよ――」
会場全体を見渡しながら高村がホッと胸をなでおろす。
「思った以上に大変なんだね」
「主役は作家さんたちだからね。実際動いてみないと見えないことだらけで、毎回何かに気づかされる」
高村が噛み締めるように言う。
――動いてみないと見えないこと……か。
あの風の問いに、わずかばかり光が差したような気がした。
「俺も頑張んなきゃな……」
ふと漏れた言葉に高村が反応する。
「頑張るんじゃなくて、楽しむんだよ。どうせやるなら面白いと思える方向に向かわなきゃ」
「そうだな、楽しまなきゃ」
俺は笑みで返す。
未来は先が見えないからこそ、無限の可能性を秘めている。今の行動一つでこの先の何かが変わるかもしれない。
公園を風が吹き抜ける。遠く忘れていた気持ちをそっと届けてくれるような優しい風だった。

#見えない未来へ

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